津川 登昭

津川
津川 登昭
Noriaki Tsugawa
地域プロデューサー

自分の中の「アート」の意味が
活動を通して大きく変わった

自身のキャリアの中で「地域」をテーマにしたイベントや企画を数多く形にしてきた津川登昭は、現在、多賀城や塩竈に軸足を置いて地域活動のあり方を探り続けている。「つながる湾プロジェクト」のコンセプトである「湾の視点」の提唱者でもある津川は、プロジェクトの活動の中でどんな役割を果たし、自身、どんな変化を経験してきたのか。

仲間と企画を立ち上げて形にする経験を積んだ

加藤
津川さんの出身地は、塩竈市内でも隣の多賀城市に近いところですね。
津川
うん。塩竈の端っこ。中学校は3年間、片道60分かけて歩いてた。
加藤
じゃあ友達と遊ぶ時なんかは行動範囲が広かった? 
津川
いや、体を動かすのも人との交流も得意じゃなくて、ポツンと、黙々とやるほうが好きだった。小さい時から絵を習ってて、絵とか色とかに関わる仕事に興味を持っていたね。
加藤
それで、大学を出て丹青社※1に入社したのが1991年。
津川
そう。いろいろな施設の内装や展示がメインの会社で、「美術っぽさ」を感じて入社した。で、配属されたのが建設現場。建設の知識も全くないのに、内装の職人さんたちの作業を管理する立場。そこで学んだのは、職人さんにちゃんと動いてもらうために、工程表を整えたり、きちっと伝えるという段取りがいかに重要かということ。
加藤
勤務は東京ですか?
津川
最初の3年間は仙台。そのあと東京に3年間。29歳のとき、仙台に戻りたくて、仕事でお世話になったことがある創童舎※2に転職した。創童舎時代は仕事以外でも、仲間といろんな企画を立ち上げて活動したね。
加藤
どんなことですか?
津川
ひとつが、「純米酒BAR」。その頃は若い人のお酒離れということが言われていたから、若者を集めてお酒を飲んで地域の誇りを知ってもらうようなイベントをやろうという話になって。ジャズフェス※3にブースを出す形で実施した。最初の2008年は酒蔵の協力がなかなか得られなかったんだけど、2年目以降は県内のほとんどの蔵が協力してくれるようになって、10年続いた。自主的に物事を企てて世の中に出す、という意味ではこれがすごい経験になった。
加藤
その頃、津川さんの活動のおもなフィールドは仙台だったんでしょうか。
津川
そうだね。でも塩竈で何かやりたいという気持ちはずっとあった。それで2010年、重陽の節句に地元産の魚介とお酒を味わう企画をやった。塩竈市内の寿司屋さん、酒蔵、魚屋さん、藻塩の生産者なんかが協力してくれて、若い参加者も集まって、地域の文化や生業について語り合った。地域の誇りってこういうことかな、って感じられるイベントになった。
加藤
震災後も動き続けていたんですか?
津川
うん、仲間と一緒に小規模で。あと、長男と一緒に、仮設住宅でテーブルを出して「コーヒー飲みませんか」とか。最初は誰も来なかったけど、一人をきっかけに集まってきてコーヒーを飲んでくれた。働きかけ次第で、コミュニティができるということを感じるようになっていった。
<脚注>
  • ※1 東京都に本社を置く株式会社丹青社。事業内容は「商業空間・パブリック空間・ホスピタリティ空間・文化空間・ビジネス空間・イベント空間の調査・企画、デザイン・設計、制作・施工、運営」(同社ホームページより)
  • ※2 仙台市に本社を置く株式会社創童舎。事業内容は「広告宣伝の企画(各種媒体計画及び広告代理)・実施」、「地域活性化計画、各種イベントの企画・実施」、「年史、記念誌、各種出版物の企画・編集」など(同社ホームページより)
  • ※3 定禅寺ストリートジャズフェスティバル。仙台の市街地で1991年から毎年秋に開催される野外音楽イベント。

海から陸をながめたとき、「湾」の視点が生まれた

津川
震災後、友だちの紹介で東名のカキ漁師の阿部ちゃん※4と知り合ったのは、運命的だったね。阿部ちゃん、震災の影響で、カキ漁やめるつもりだったの。でも「もう一回やろうかな」って言って動き始めたから、俺も手伝うことにした。船での作業とか、販促活動とか、一緒に動くことが多かった。
加藤
実際に阿部さんと海に出ていたんですね。
津川
そう。俺、海の上で、阿部ちゃんにずっと地域のことを語ってたらしいの。で、阿部ちゃんが何気なく、「津川さんの言う『塩竈』ってあそこだよ」って指さした。海から見るのって新鮮だったね。
加藤
それが、のちのち「つながる湾プロジェクト」のコンセプトにつながっていく。
津川
うん。このとき俺の中に「湾」という視点が生まれたの。普段は陸地にいて、多賀城の住宅地に住んで地域の活動に関わるし、塩竈には実家があって同級生がいるし、利府に行けば利府の雰囲気がある、みたいに切り替えている自分がいたけど、地形としてはつながってるんだ、って。それに気づいて、「松島湾」というエリアをテーマに何かできないかな、って考えるようになった。
加藤
津川さんが「チガノウラカゼコミュニティ(※5、以下『チガカゼ』)」を立ち上げたのはその流れなんですね。でも「千賀ノ浦」って塩釜湾※6のことですよね。
津川
たまたま、飲んだ帰り道に母校の塩釜一小の校庭に立ったとき、校歌の「千賀ノ浦風、息吹して〜」っていうフレーズを思い出した。そのとき、俺の立ち位置って千賀ノ浦なんじゃないかと思ったの。校歌の意味は、「塩竈の良いもたらしは、海から風が運んでくる」ってこと。だから、千賀ノ浦の風の役割を俺がすればいいんじゃないかと。あべちゃんと話してから「松島湾」っていうテーマで考えてはいたけど、松島町とか東松島市にあたるエリアも含めて湾全体をまとめるような動きは今の俺にはできない。それより俺は「千賀ノ浦」で、松島湾周辺の他のエリアのコミュニティと横並びのネットワークを作るほうがいいんじゃないかと考えた。
加藤
海の上で気づいた「松島湾全体」という意識は根底にありつつも、その「全体」の中で自分の立ち位置をどこに置くかといったら、松島湾の一部の湾である「千賀ノ浦」に置く。
津川
そのうえで各エリアとつながっていったほうが、コミュニティを作れるんじゃないのかな、って。それで、具体的に見える形として考えたのが「湾の駅」というプラン。道の駅みたいな。3市3町の6か所プラス浦戸で7箇所に「湾の駅」を作る。地域の物産販売とかもするけど、大事なのは、そこを拠点にして地域のコミュニティを育てていくということ。3市3町に1駅ずつ、という形はとるけど、各「駅」がそれぞれ独立に運営するんじゃなくて、統一した企画の中で全体で話し合いながら各「駅」の運営が成り立っていく。
加藤
「湾の駅」のネットワークをつくる。
津川
うんうん。つないでいく。
<脚注>
  • ※4 東松島市東名(とうな)でカキの生産・販売事業を営む「株式会社 和がき」代表取締役の阿部年巳(あべとしみ)氏。
  • ※5 多賀城市を本拠地とし、まちづくりや地域振興、観光、交流などをテーマに2011年ごろから活動する企画団体。2017年には津川が代表となって法人化した。
  • ※6 松島湾の南西部にある支湾。塩竈市、七ヶ浜町に面する。

「湾」を意識した活動が「つながる湾」に結びついた

津川
そんなことを考えてた頃、2012年の12月かな、彩ちゃん(高田彩)に呼ばれてビルド※7に行ったら日比野さん※8たちがいた。震災後、有名人が支援活動に来ることが多かったから、そのときも、何か地域でやるから協力してほしいというような話かと思った。TANeFUNe(以下「タネフネ」)の話が動いてることを俺は知らなかったからね。
加藤
その時点では松島湾にタネフネは来てないですよね。これからタネフネが来たときにどういう活用をするか、話し合う場だったんでしょうか。
津川
たぶんね。でも行ってみたら、具体的なプランは何もなかった。仕方なく、「湾の駅」のプランを話してみたら、「これだ」って言われて。その時は何が「これだ」なのかわかんなかったけど、今思えばその日が「つながる湾」が動きだすきっかけだったのかもしれない。
加藤
なるほど。ではその時を境に、のちの「つながる湾プロジェクト」につながっていく流れと、チガカゼを軸にした津川さんの動きが重なってくるわけですか?
津川
うーん、たしかに津川の流れと、「つながる湾」に続く流れがここで出会うんだけど、動きはそれぞれなんだよね。重なりはしなかった。俺からするとASTT※9の動きはわからないし、俺は俺で動いている。地元の人達とコミュニティを作ったりとか。
加藤
そうか、「湾」をテーマにした津川さん自身の活動はもう始まっている。具体的には?
津川
たとえばマリネット※10で番組制作を始めてた。鹽竈神社の下の公園にある、神様が座ったと言われる「おこしかけの石」とか、アマモ再生会議※11が実施する地引網とか、高橋信壮さんの白菜の話みたいな、地域の歴史や文化を紹介する番組。創童舎の仕事でも東北地方の観光ネタを取材して展示にするということは何年も前から続けていたから、自分の中に地域ネタは蓄積していたの。それを番組という形にできた。
加藤
なるほど。一方、「つながる湾」としては、プロジェクト名がついて本格的に始動したのは2013年。その初期の頃に何度も開催していた「チームwan勉強会」は、津川さんがそれまでの活動で知り合った人たちを講師に招いていたんですよね。
津川
そうだね。
加藤
そのころ、「そらあみ」も始まりますね。津川さんは関わっていましたか?
津川
運営の中心にいたわけではないけど、参加して、人とのつながりはあった。特に五十嵐くん※12とは、会うたびに、「文化ってなんだろう」とか話してた。
加藤
なるほど。僕のなかで津川さんは、「つながる湾」のコンセプトの発端になった人であり、プロジェクト立ち上げの象徴みたいな印象がある。でも実際の体験プログラムの場面では、企画・運営の中心になったという感じではないのでしょうか。
津川
うん、イベントのアイディア出しとかでは関わってるけど、実際の運営は、他のメンバーに任せることが多かった。
加藤
任せつつ、でも常に、そこにはいた。
津川
そうそう。常にいた。イベント当日の手伝いとか。どうしてそういうスタンスを取っているかというと、「アート」に対する遠慮みたいなものが俺にあるからなのかもしれない。俺が組み立てちゃうと、素人がやった感じに見えちゃう気がして。だからアートとして表現するという部分については、彩ちゃんなり大沼くん(大沼剛宏)に作ってほしいなと思ってる。コンセプトとか題材の部分は俺も関わりたいんだけど。
加藤
「つながる湾」とは別のところでは、アイディアを出すだけじゃなくて、それを形にしていくという活動をずっとやってきた。「純米酒BAR」みたいに。でも「つながる湾」ではそれをやらずに、任せる。
<脚注>
  • ※7 ビルドスペース。「つながる湾プロジェクト運営委員会」のメンバーである高田彩が2006年に開設したアートギャラリー。
  • ※8 アーティストの日比野克彦氏。 https://www.hibinospecial.com/
  • ※9 「東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業(Art Support Tohoku-Tokyo)」の略。「つながる湾プロジェクト」は同事業のひとつ。
  • ※10 塩竈市に本社を置く宮城ケーブルテレビ株式会社の通称。
  • ※11 東日本大震災以降、松島湾周辺のアマモ場の再生に関する活動を続ける団体。塩竈市海岸通に事務局を置く。
  • ※12 アーティストの五十嵐靖晃氏。 http://igayasu.com/

活動を通じて得た「アートの視点」が自分の考え方を変えた

加藤
「つながる湾」の活動の中で、アートに直接関わる部分の運営は他のメンバーに任せることが多かったという話ですが、活動への参加や、企画に関する話し合いを通じて、津川さんが得てきたものはありますか?
津川
「そらあみ」の経験は大きいね。五十嵐くんは「そらあみ」をつくるとき、まずは題材となる地域を歩き回る。そしてその土地の風土を感じて決めた5つの色に糸を染めて、それを編む。地域を表す色で編んだ網を掲げると、地域の風景と重なって透明に見える。その発想がすごいよね。
加藤
おもしろいですよね。生で見られていないのが悔しい※13
津川
それに、網越しに地域を見ると、見慣れた地域のはずなのに、魅力があるじゃん、と思った。アートをフィルターにすることで地域を再認識したというか。でもそれって、完成作品としての「そらあみ」だけでそう見えたんじゃなくて、「そらあみ」をつくる一連の過程の中で、見方を変えるということを学んだんだよね。
加藤
では津川さんにとって、アートというものがそういう存在になった? ものの見方を変える手立てというか。
津川
うん。「そらあみ」に限らず、「つながる湾」の活動を通して俺が得たもののなかで一番大きいのがそこ。以前は俺、アートって何かを伝えるための「手法」だと思ってたの。
加藤
人集めだったり、広告だったり、プロパガンダを伝える手段であったり、何かの目的を果たすための「手法」。
津川
そうなっちゃう。でも今は、アートは単なる「手法」なんじゃなくて、もっと根底のところで必ず必要なもの、と思ってる。そしてその「アート」なるものが「地域」という文脈にどう重なってくるのか、ということを、「つながる湾」の活動を通して考えるようになったかな。
加藤
その考え方の変化は、具体的に津川さんの地域活動を左右していますか?
津川
うん。俺がここ数年でやっている仕事には、アートの視点を入れるようにしてる。2018年の「幸せ色の多賀城※14」とかも、この考え方。
加藤
そうですよね。多賀城跡とかをそのまま見るんじゃなくて、全然違う見方になってた。
津川
ライトアップするにしても、そこに意味づけがある。来る人の気持ちの何を変化させたいのか、とか。この土地について気づいてほしいことを言葉じゃなくて色で示すとか。そういう仕事の仕方に変わってきた。「幸せ色の多賀城」はアートの要素が前面に出てるからわかりやすいけど、他のどんな仕事にしても、そういう発想をした上で提案するようにしてる。「アート=絵とか音楽とか」ということではなくて、視点を変えるとか、「アート的思考」で見直すようにはしてる。
加藤
実際に絵を飾ったり音楽を楽しんだりということをイベントの軸にする、ということではなくて、企画を形にする過程でのアプローチの仕方が「アート的」。
津川
そう。俺自身は今、まちづくりに関わることの多いポジションにいて、まちづくりの文脈でアートをどう捉えたらいいかと考えてる。凝り固まった部分をほぐしたり、視点を変えたりということを瞬時にできるのがアートなんだよね。異なるポジションの人たちが同じ方向を向くきっかけになったりもする。そういう意味で、まちづくりにはアートの発想が絶対必要。芸術作品によって人を集める、みたいな「道具」としての存在ではなく。だから、地域に根ざす活動ってどうすればいいかと深く考えるときに、「アートって何だろう」という問いかけは自分の中に常にある。
加藤
その「アートって何だろう」の答えは。
津川
それはまだない。
加藤
ないけど、それを問うことと、地域活動のあり方を考えることの間には、津川さんの中では親和性がある。
津川
うん。
加藤
そういう風に考えるようになったのは、「つながる湾」がアートプロジェクトだったから、ということなんでしょうか。
津川
そうだね。俺の考え方そのものが変わるきっかけになった。地域文化とアートが結びつくというところが「つながる湾」の特徴だし、それがすごい楽しい。
<脚注>
  • ※13 聞き手の加藤貴伸が「つながる湾プロジェクト」に関わったのは2016年から。
  • ※14 2018年夏、会場の多賀城跡、多賀城廃寺跡、貞山掘を、草木染めストールや照明で装飾したアートイベント。

活動に関わる人たちが変化を共有することに価値がある

加藤
少し話が戻りますが、津川さんは、「つながる湾」のコンセプトの発案者的な存在だけど、活動を津川さんが引っ張ってきたという感じではないということなんですよね。
津川
「つながる湾」の活動自体、特定の誰かが引ってきたようなものではなくて、いろんな人が出入りして、関わる人どうしのネットワークによって作り上げてきたようなイメージだしね。活動ごとにリーダーがいたりはするんだけど、立場としてはみんな「横並び」。
加藤
特に僕が知らない最初の数年はそんなイメージです。
津川
そうだね。初期は、いろんな人が関わって、いろんな企画が動いてて、勢いがあったし、俺としてもいろんな人と関わって刺激になっていた。でも「横並び」だと、その勢いがなくなって停滞する時期があるのは当たり前なんだよね。
加藤
2015年ぐらいですかね。
津川
たぶんそのぐらい。で、俺としては、最初にコンセプトは唱えたけど、活動の中で自分のポジションって何かな、ってことはずっと考えてた。さっき言ったように、活動を形にするという点では他のメンバーに任せてしまっていたから、自分がやっていない、という感覚はあったの。「やってないけど、いさせてもらっている」って。だから、「つながる湾」に俺の存在は要らないんじゃないかな、って、活動が停滞していた時期には特に思ったね。
加藤
そうだったんですね。今思うと、僕がメンバーに入ったのはその停滞の時期に当たる。それでも「松島湾とハゼ」が始まったりして、そういった活動の場に津川さんはいつもいた印象なので、意外です。
津川
まあ、俺としては刺激的で楽しかったから。仲間との関わりの中で、考え方をぶつけ合ったり、自分にないアート的な視点に気づいたり。だから、いられるならいたいと思っていつも参加してた。
加藤
これからも「つながる湾」が続くとすると、どんな形がいいのでしょうか。
津川
何らかの完成形をみんなでつくるというより、関わる人たちがいい方向に向かって動く、その変化の方に価値があると俺は思ってるの。その変化を共有するということが、一緒に生きてるということじゃないかなって。それは「つながる湾」に限らず、世の中全体に言えることだと思うけど。だからメンバーが変化を楽しめなくなったら、やめてもいいと思う。続けなければいけないという発想じゃなくて、メンバーの俺らがやりたいことをやっていけばいいんじゃないかな、という気がする。
加藤
とすると、「つながる湾」の存在意義って何なのでしょうか。今も、これからも、その意義はあるのでしょうか。
津川
この地域の風土の中で見えなくなってしまっているものを、もう一回「見える化」してあげる。それが「つながる湾プロジェクト」の役割かな。そしてそういう役割を果たす「つながる湾プロジェクト」自体も、風土の流れのひとつのような気がしてる。仮にプロジェクトとしては終わったとしても、10年後とか50年後に、誰かが掘り起こしてくれるかもしれない。そのとき、我々の活動の痕跡が何か残っていれば、我々が今やっていることがよみがえる気がしてる。そんな存在でいいんじゃないかな。

区切り

インタビュー日:2019年9月6日
インタビュー・まとめ:加藤貴伸

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