津川 登昭

津川 登昭
津川 登昭
Noriaki Tsugawa
地域プロデューサー

インタビュアー:加藤

津川
1967年5月生まれ。生まれは塩釜の野田、ヨークベニマルの裏の方。
学区でいうと、一小、一中。中学校は山をふたつ越えて通っていた。3年間、一人で、徒歩で相当時間かけて、毎日、遅刻しそうになりながら。だから行動範囲は広かった。多賀城側の野田から、神社の方までぐるっと。
道路がいっぱいあるから通学パターンもいろいろなんだけど、鹽竈神社は突っ切らなきゃいけないから、七曲坂を上ったり、人んちを通ったり。
加藤
あの辺りだと、どこに行くにもけっこう移動しないと行けないですね。
津川
そうそう。
母親が塩釜で、実家はいろんなとこ転々としてたんだけど、一番記憶に残っているのは宮町でじいちゃんが下駄屋さんやってたとき。俺は遅い子供だったのでじいちゃんは引退してたけど、じいちゃんのいる宮町に通ったり、何病院ていったかな、美術館から神社側に見える・・・、そこにじいちゃんが入院してたり。
あと、塩釜の45号線のスマイルホテルのところにあったトーコーチェーンに、母親に連れられて行ったり。塩釜に買い物、病院とかは当たり前に行ってたから、知らないうちに塩釜の土地勘は身についていたような気がする。
小学校の時は、中学校もだけど、神社の祭りには毎回参加してた。
加藤
普通の小学生より広範囲の土地勘ですね。
津川
そう。広範囲の土地勘。住んでた場所は塩釜の端っこの方だけど、神社方面とかはずいぶん行っていた。
高校は多賀城高校で、自転車通学。全然勉強しないで、1浪中に3年分みっちり勉強して、学院大の工学部。それも多賀城だから、ずっと近場だね(笑)
大学時代に15種類ぐらいバイトした。社会との繋がりという意味では経験になった。「この仕事はやりたくない」とか。「給料もらうってこういうことかな」とか。

就職が、全国で展開している丹青社という会社で、でも地元に居たかった。
学院の工学部は、就職が100パーセント推薦。必ず学校推薦で、1社しか受けない。企業と学校の信頼関係を大事にしてきた。当時はバブルというのもあった。
俺は、これと言ってやりたい仕事がなかった。
幼稚園から小、中学校と絵を習って、小学校の時に二科展に入選したり。自分からやりたいと言った記憶もないし、親がいつのまにか習わせたんだけど。
で、運動とか体を動かすのがあまり得意じゃなかったし、人との交流も得意じゃないし。人から見るとどうかわかんないけど、おれはポツンと、黙々とのほうが好きで、なんかそういう、絵とか色とか、の仕事ないかな、とは思ってたけど、周りにそういう環境もないし、親もそういう知識もないし。
今思えば、美術系とか、クリエイティブ系の学校とかあったはずだけど、クリエイティブなんて言葉もわからなかった。
親父が自動車整備士だったという影響もあって、大学では自動車部に入って車を分解したりレースに出たり、友達の車を改造したり修理してあげて昼飯代にしたり。メカニックの仕事も面白いなとは思っていた。

で、推薦で、東北石油を受けて受かった。今思うとすごいいい会社。立派な会社だし、学校も喜んでた。
その半年前ぐらいに、丹青社に資料請求していた。なんか、内装とか、博物館作ったりとか、美術っぽいんですよ。
当時はクリエイティブって言葉は使えなかったけど、クリエイティブさを感じる。こういう会社って見たことないけど入れたらいいなと思って請求していた資料が、東北石油にうかったころに郵送で届いたの。半年かかって。腹たって電話した。
「別な会社受けてうかっちゃったけど、なんで今頃、半年も経って資料を送ってくるんだ、面接しろよ」って面接してもらった。学校は無視で。
作品持ってこいって言われて、でも工学部だから、エンジンの製図とかしかないし、あとは趣味で描いてた絵を、唐草の風呂敷に包んで持っていった。面接官も何も言わずに見てて反応は薄かったんだけど、後日、合格通知が来た。
建物を作っている会社だから、部門が営業、設計・デザイン、制作。制作は現場担当。
おれは現場に入れられた。建設の知識も全くないのにいきなり建設現場。ゼネコンの人とかいるとこ。
俺は新人で何もわからないのに、内装の管理をする立場。
「鍛えてやってくれ」みたいな感じで建設の人たちと一緒の現場にポツンと入れられた。
実は、バイトの時にやりたくない仕事って、現場監督だった。いじめられるイメージがあって。バイトで建設現場に入って作業しながら見ていると、ベテラン職人に若い現場監督がいじめられてる。「なに、わけわかんない段取りしてんだ、そんなの帰るぞ」って帰ったり。「こんなのいじめじゃん、やりたくねえ」と思ってた仕事についてしまった。
加藤
いじめられなかった?
津川
いや、同じような扱いは受けた。職人が「帰っとわ」って言う一番のことって何かと考えた時に、工程表をちゃんと作って、例えば天井の職人と床の職人を一緒に入れちゃいけないとか。工程表をきちっと作ることがポイントだと学んだ。
現場といっても、段取り8割だなと。
工程表をきちっと作れば、みんなすんなり言うこと聞くし。
あとは、メールとかないから、工程表を貼るだけじゃなくて、対面で話を聞くとか、会ってちゃんと説明してあげるというのが大事だなと。
全国の会社だけど仙台勤務で、3年仙台で働いた。不況になって仙台の営業所をなくすことになって、新人だけ東京で受け入れるという話になった。結局、仙台の営業所は残ることになって、重鎮たちも残ったんだけど、俺は東京に行きたくないと駄々こねた。普通は転勤を断ったらやめるしかないんだけど、取締役とかも来て、東京でやってほしいと説得された。
今思えば、東京で経験を積ませて、仙台でそれなりにやらせたい思いがあったんだろうけど、俺は「じゃあ1年なら行く」と言って東京に行った。でも1年なんてありえないじゃない。1年で戻してもらえず、2年でも戻してもらえず。「やめるって言うけど戻るところないんだべ」って馬鹿にされたから、戻るところ決めようと思った。
3年目に、創童舎の社長に電話して。丹青社で仙台にいたときに、創童舎から仕事をもらって県庁の18階の展示室をやったことがあったので。会社の前の公衆電話から社長に電話して、「覚えてますか」って。3年くらい経ってたけど覚えてた。
「仙台に戻りたいけど、試験やって使ってくれないですか」って言ったら「いいよ」って。
加藤
純米酒BARは利益をあげて、副業のような形に?
津川
そこからプロジェクトとしての利益は生まれたけど、個人としての稼ぎにはしなかった。団体にプールして、新しい活動をするときの費用にしたり、ボランティアで協力してくれた人にTシャツをあげたり、お酒をあげたり、回すための費用に使ったかな。
創童舎やめたのは2017年6月。独立。

(資料について)
水色の網掛けが、俺の個人的な動きで、網掛けないのがつながる湾の動き。

つながる湾プロジェクトのスタートが、2012か2013。そこにいたるまでの、純米酒BARとか、そういう動きが、つながる湾の立ち上げに詰め込まれてる。
実際、つながる湾プロジェクトが立ち上がって、それによって出会いがあって、学びがあった、というのは当然あるけど、それ以上に、そこに詰め込んで、みんなが表現してくれてるっていう動きのほうが、資料の水色を見るとね、つながる湾の立ち上げ以前の動きが、そこに使われてると言ったほうがいい。
加藤
津川さんがやってきたことのノウハウが、つながる湾の立ち上げにいかされたということ?
津川
生かされたと思う。チガカゼは震災後の2011年ぐらいから、何かやりたいという動きが生まれて、チガノウラカゼコミュニティという名前でやってたけど法人化はしてなくて、みんなでイベントに出店したり。
加藤
チガカゼ自体は何をする団体?
津川
なんだろうね。
コミュニティという言葉の意味は、だんだん確立してくる。それを立ち上げてた時期は、チガノウラカゼコミュニティという看板をつけた、その中のコミュニティ、会員的な感じを増やしていかないと成り立たないな、と感じながら、どうしたらいいかわからなくて悶々としてた。そのときは。
いまは、コミュニティという看板はそのまま使っているけど、実質、登記上は7人で動いているのは自分ひとりだし、プロジェクトごとにコミュニティを作っていくという発想に変えた。
加藤
じゃあ、そういう各プロジェクトを企画運営するのがチガカゼ?
津川
企画だね。俺の手が回って、俺がやりたいことは俺が回すけど、俺が企画して、そこの人たちが大きくなっていくんなら手を離すというか、運営はその人達がやればいい。つながりはあるけど。
加藤
例えばこれ(おもわく姫パーティー)とかも、津川さんが企画して?
津川
企画してる。これでいうと、俺が考えてるプロジェクトは2つ絡んでる。
一つは、多賀城市観光協会の、しろのむらさき(古代米)のプロモーション、という事業を請け負っている。もうひとつ、チガカゼが運営している、多賀城自由大学の古代米学部。稲わらの正月飾りとか、田植えとか、食べるイベントもやってるもの。それらをミックスさせた形。
おもわく姫パーティーは、お金は、チケット代で賄っている。チケット代で賄えないチラシ作るとかは、観光協会のプロモーション費でやってる。プロモーション費でみんなの飲食は出せないから、飲食はチケット代で。
加藤
津川さんなり、チガカゼのギャラは。
津川
ここで俺が動く費用は、観光協会のプロモーション。
加藤
津川さんから、多賀城市に「こういうのはどう」って投げかける場合もあれば、「こういうことやりたい」って相談が来る場合もある?
津川
そうだね。このパーティーは、去年も同じ組み立てで、プロモーション費でやった。今年はやるつもりなかったけど、この人達(フラダンス)が来たいと。去年は来てないけど。
で、(フラダンスを)日本酒祭りに出すとか、11月のイベントに出すとか言ってるから、それよりは、おもわく姫パーティーをもう一回やってそこに入れようかと。
だから俺としては、イベントを組み立てるために、チャンネルがいくつかあって、それをミックスさせることができる。たとえばプロモーション費でしかやれない頭の人だったら、できない要素が出てきたときに、イベント自体を「できないね」となっちゃう。

仙台自由大学っていうのも創童舎の中で立ち上げた。これも、今ならこういうプロジェクトはよくあるし当たり前なんだけど、当時、広告会社がこういうプロジェクトやると、商売のためだと思われて、あまりうまくできない感じもあったけど、それでも何かやりたいと思うメンバーが社員の中に生まれてきて、そこと一緒に立ち上げた。

その後、震災があって、仙台自由大学でイベントやってるメンバーが塩釜で何かやろうというので、小規模のイベントをやったり、それから多賀城のウチの近くの仮設住宅、この頃ひっそりしてて、年寄りも多いし、出てこない。小1の息子を連れて、ひっそりとテーブル出して、コーヒー飲みませんか、ってやっても誰も来なかったけど、ばあちゃんがひとり「何やってんの、1杯ちょうだい」って来たら、みんなバーっときた。みんな見てるのね。で、そのときからコミュニティができるようになったりとか。
一番最初って怖いけど、やればできるっていうのを感じていくようになる。
アベトシミくんという東名のカキ漁師と知り合ったのも、運命的な出会い。震災前からの友達の仲介で知り合ったの。友達が、あべちゃんのカキ食わしたい、って言って。あべちゃん、お父さんが津波で亡くなってカキ漁師やめるって言ってたんだけど、カキ漁師もう一回やろうかな、って言うから、じゃ俺てつだうよ、って。牡蠣棚の修復とか、プロモーションとか、商標登録とか手伝って、この時期に一緒に動いていた。
加藤
それが、湾から陸を見て、というあれ(つながる湾のコンセプト)。
津川
そう。俺、あべちゃんと海の上にいることが多くて、あべちゃんにずっと地域のことを語ってたらしい。で、あべちゃんが何気なく、「津川さんの塩釜ってあそこだよ」って。俺はそんなに船に乗ったことなかったし、海から見えるのって新鮮だったね。
で、ずっと思ってた、塩釜と多賀城の、仲悪くはないけど良くもないっていう距離感。陸地で、利府にいれば利府の雰囲気があってとか、それは、ハッキリ分けてたんじゃなくて、知らないうちに切り替えている自分がいた。塩釜には実家があって、同級生がいて。多賀城に来ると住宅地に住んでて、町内会活動とか。買い物とかで行き来はするけど、行政同士のつながりもないし、なんだかな、と思ってた。そんなときに、あべちゃんにそう言われて、「わっ」と思った。湾ってすごい。地形ってすごい。って。
別に、そんな違和感なんて全然ちっちゃいことで、もともとつながってるんだ、と。「湾」というヒントを貰って、塩釜とか多賀城の市役所の人に、湾という部分をなんか使えないかな、と言ったら、それはいいことだけど、できないよ、って言われた。「ウチはウチのエリアでしかできない。」って。まあ当然のことだよね。で、俺がやればいいじゃん、と。できると思ったの。

同時期に、マリネットのさとうあゆみちゃん(結婚していとうあゆみ)に、番組の提案をしたら、やることになった。「千賀ノ浦おさんぽ隊」という番組。この頃はチガノウラカゼコミュニティっていう名前はなかった。
たまたま佐浦さんでお酒の勉強やって、昔を思い出して歩いて帰るか、と思って塩釜一小の校庭に立ったときに、校歌を思い出した。一小からの眺めって、下に美術館があって、お墓があって、湾のほうが見える感じ。
校歌の「千賀ノ浦 風 息吹して」っていうフレーズがある。
「俺の眠ってた種の部分って、千賀ノ浦なのかな」って思った。
ずっとあべちゃんに言われて「松島湾」っていうテーマを考えたときに、湾を総称する「松島湾コミュニティ」とか、そういうものだと思ってたけど、でもそう言ったとたんに俺の立ち位置がなくなると思ってた。要するにおれの立ち位置って千賀ノ浦なんだよなと。
湾全体のリーダーという松島湾という看板じゃなくて、俺はあくまで千賀ノ浦というポジションで湾全体をつなぐ動きをしたほうがいいと思って。
「カゼ」っていうのは動きを作るっていうこと。校歌の意味は、「塩釜のいいもたらしは、海から、風が運んでくるよ」っていう意味。千賀ノ浦の風の役割を俺がすればいいんじゃないかと。
松島とか、東松島とは、一応つながるけど、湾全体のリーダーみたいなポジションに自分がなろうとすると、今はできない。勉強したあとじゃないと。何年後かになっちゃう。
いますぐ何かやるんなら、俺はここで、あんたはそこで、なにか一緒にやろうよっていう、上下関係じゃなくて横並びのコミュニティを作るほうがいい。それで、チガノウラカゼコミュニティがいいんじゃないかと酔っ払いながら校庭で考えた。
加藤
その少し前に見た松島湾全体という意識は根底にありつつも、その全体の中で自分がどこに立ち位置を置くかと言ったら、松島湾の一部の湾である千賀ノ浦に置く。
津川
うんうん。コミュニティの作り方としてね。全体をコミュニティとして、A,B,C・・・という全体の総元締めというポジションじゃなくて、Aのポジションで、ほかも全部まとめられるようなコミュニティにする。
ここ(松島湾全体の中心)に立った途端に、自分の立ち位置が消えちゃうよな、と思った。俺はあくまでもここ(千賀ノ浦)のポジションだ、と言い続けて、みんなとつながっていったほうが、コミュニティを作れるんじゃないのか、と考えるようになった。まだまだ、気づいた時点では、コミュニティっていうのが何なのかわかんなかったけど、コミュニティを意識するようになった。
加藤
行政区画ではないコミュニティを
津川
特に、たまたま、ドリームプランプレゼンテーションというのをやった(時期確認)。夢をみんなの前で語って、それを形にしていこうという勉強会、発表会。全国的なやつ。後楽園ホールとかで発表する会なんだけど、震災があって、仙台で無料であるという話なので行ってみたら、宮城で90人ぐらいいた受講者のうちの5人の代表になった。「湾」というテーマで。
他の受講者の中で俺のプランを応援してくれるスタッフがいたんだけど、その中のある人が七ヶ浜の人で、「津川さんのプランいいと思う。七ヶ浜小さいから、塩釜の下についたほうが、合併したほうがいいと思うんだ」って言ったの。
俺としては「うわ、違うわ」と。あからさまにそう言われると、答えなきゃいけないから、言葉にした。「合併じゃない、お互いに尊重しあって同じ方向を向くということ」
加藤
そもそもその時点で、津川さんの中に合併という発想はないですよね。
津川
うん、それでも、そういう誤解を与えてしまっていた。弱小のABCDがあったときに、それをまとめる名前を付けちゃうと合併に見えちゃう。共同体という感じで。共同体はいい面もあるけど、文化を消しちゃうという面もあるから、「そうじゃない。どっちかっていうと、それまでの文化を大事に育てるふうにしたい。合併しちゃったら、消えちゃうんだな」と気づく。それはそういう質問をされたから。
加藤
なんのプランを発表した?
津川
俺がやりたいのは地域の誇りを作るっていう部分なんだけど、具体的に見える形としてどう表現したらいいかわかんなくて。湾の駅。道の駅みたいな。松島湾に湾の駅を作る。地域の物産販売とかもあるけど、いちばん大事なのは、地域のコミュニティを育てていくということ。
加藤
陸地に作る?
津川
陸地に。3市3町の6か所プラス浦戸で7箇所に湾の駅を作る。そこの中心に、語れる親父たちを育てていく。及川さんとか、お寿司屋さんでやったイベントのイメージがあった。親父文化をつないでいく拠点にするという形にまとめた。
加藤
3市3町っていうと、行政区画。
津川
うん、行政区画を排除しようというのではない。今の行政区画だって、文化の延長で、区画になった。運営しやすい区画ができた。それを尊重はする。でも湾の駅では、それぞれに「ウチの予算、ウチの枠ね」じゃなくて、扱ってるものとか紹介するものというのは全部話し合われて、同じ企画の中でそれぞれの地域の紹介が成り立っていく。
加藤
湾の駅ネットワークみたいな
津川
うんうん、つないでいく。そういうプラン。たまたま、つながる湾プロジェクトの核になるタネフネの話が動いてることを俺は知らなくて、彩ちゃんから「津川さんちょっと来て」と言われて、何をするかわからないままビルドに行ったら日比野さんがいた。震災の流れでタレントがよく来てたから、そういう流れで、何か地域でやるから協力しろ、という話だろうと思って行った。
加藤
2012年の何月? 8月のリサーチと12月のリサーチプロジェクトの違いがわからなくて。
津川
たぶんあとのほうのやつ(12月)に俺が呼ばれたのかな。行って、でもみんな、具体的なプランも何もなく、悶々とした雰囲気。「この人たち、何やりたいんだろう」って思って。たまたま「ドリームプラン・プレゼンテーション」のネタがパソコンに入ってたから、「聞いてみる?」って、プレゼンした。
加藤
東京でプレゼンする前?
津川
うーん・・・。この頃、たびたび呼ばれて同じプレゼンしてた。
でもこのとき俺は原稿は持ってなくて、映像だけパソコンに入ってた。だから「思い出しながらやるから聞いて」って。で、やったら、「これだ」って言われて。でも俺は何が「これだ」なのか全然わからなくてさ。その瞬間が、つながる湾のプロジェクトが動くきっかけだったのかもしれない。
加藤
そもそもみなさんはなぜ集まってたんですか。
津川
わかんない。今思うと、タネフネが来たときにどういう活用するかの話かな。
加藤
このときはまだタネフネは来ていないですよね。
津川
きてない。
加藤
タネフネはいきなり来たんじゃなくて、これから行くけど地元でどうにかして、みたいな。
津川
そうだね、リサーチを重ねて、どうするかと。アートという部分でずっとやってきたけど、地域という要素が必要になったんじゃないかな。日比野さんの考える世界観というか。
加藤
タネフネ自体はもっと前からですもんね。
津川
震災の前から、京都の舞鶴から、日本海の港を回っていた。震災があって、五十嵐くんとか、喜多くんとかが、東北に行きたいとなった。五十嵐くんは舞鶴でやってたときの船長。東北に行ったときは喜多くんが船長。打ち合わせには全員来てた。
加藤
津川さんのプレゼンのとき?
津川
そのとき誰がいたかは覚えてないんだけど。谷津さんもいたかな。
加藤
それとは別の動きとして、アーツカウンシルが動き始めてる?
津川
日比野さんのアーツカウンシルの動きは同時進行でそれはそれで動いてる。
加藤
えーと、日比野さんアーツカウンシル経由?
津川
そうそう。
加藤
だとすると、ビルドでのプレゼンの場に谷津さんがいたとしても、谷津さんはアーツカウンシル側として、日比野さんとのつながりの中で何をどうするかということで、いた。いないかも知れないけど。このときから、アーツカウンシルと津川さんのプランがつながってくる?
津川
うーん、イメージ的には、津川の流れと、アーツカウンシルの流れがここで出会うんだけど、まだ若干、それぞれの動きは別に継続してる。近づいたり、独自になったりを繰り返しながらという部分はある。この時期。(図解)
俺からすると、プレゼンはしたものの、アーツカウンシル側が何をするのかはまだわからない。俺の流れは勝手に続けてる。地元の人達とコミュニティを作ったりとか。マリネットで番組を始めたりとか。
加藤
そうか、湾を意識した津川さんの活動はもう具体的になり始めている。
津川
湾と気づいた時点で、そこから湾というテーマでやってて、ドリームプラン・プレゼンテーションでも、湾を掲げてたから、アーツカウンシルとは関係なく、湾の動きはしてる。
加藤
具体的には、マリネットの番組とか?
津川
番組制作、始めてたね。月イチで。イメージ的には、ブラタモリの、素人版。一番最初は、NPOみなとしおがまの三浦専務だった。震災の記録集を作って仲良くなったから。作ってるとき、歴史の話も、ついでにいろいろ教えてもらってた。絵図の話とか。で、番組で最初にやったのが、七曲り坂の下の公園にある六角形の石。「おこしかけの石」といって、しおつちおじのかみが座ったと言われてる石。おもしろいと思って、番組にした。それが第一回。
そこから、アマモ再生会議の地引網とか、たかはしのぶたけさんの白菜の話とか、梅の宮の文化村といわれた梅宮神社とか、東北ドックとかね。久保田くんに七ヶ浜の歴史文化を紹介してもらったりとか。つながる湾とは別に、俺の興味の範囲で番組を作っていった。
加藤
マリネットの番組って、津川さんの立場は?
津川
俺は、企画、出演。
加藤
マリネットから仕事を依頼されるということ?
津川
仕事ではない。あゆみちゃんが、「津川さんが趣味でやるなら、番組の枠をとるし、カメラマンも用意する」と。マリネットとしては、それなりの地域ネタで番組が埋まる。俺は、番組なんかやったことないけど、出れる。自分の溜まってた部分を吐き出すことができる。無料で、趣味でやってる感じ。お金は何も動いていない。
加藤
お金は動かないけどウィンウィン。
津川
そう。お金じゃないところのメリットがお互いにあって、ずっとやった。
加藤
マリネット側としても、あゆみさんやカメラマンを派遣しても見合うメリットが?
津川
うん、番組を再放送20回とかやる。埋めることができる。ただ、途中からは、俺は仕事としてやるように変わった。番組審議委員会で、評判が良くて、継続してやってほしいとなって。マリネット側から費用を出すからと。
加藤
企画者なり演者としてのギャラ?
津川
というよりは、企画制作として請け負って、俺からは外注のカメラマンを雇ったり。昔は100%マリネット撮影だったけど、今は90パーぐらい外注。
加藤
佐々木さとこさんとか?
津川
さとこちゃんは、無料でやってたときのカメラマン。あゆみちゃんがやめちゃって、カメラマンだったさとこちゃんが出演に変わって、カメラマンがいなくなったからカメラマンは外注になった。そこに予算を発生させるようになった。番組枠も、10分15分だったのが、今は30分。それを他の地域、島根とかに売っている。だから経営として成り立ってるかは俺は知らないけど、それなりにお金が動く仕組みにはなっている。
マリネットの番組のほかには、グリーンプラザでやってた東北電力の展示。創童社で扱っていたから、松島湾とか藻塩というテーマでやったことがある。
加藤
それはチガカゼがスタートしてから?
津川
ずっと前から。2000年ぐらいかな? 入社当時から。東北六県プラス新潟のエリアの、地域の観光ネタを拾いに行って、コピーライターに文章を書いてもらって、展示物を集めて。展示会としての仕立ては3ヶ月に1回くらいはやってた。だから、地域のネタを拾うという部分は仕事でやってた。
番組もやるようになったり、取材させてもらってたから、ネタが溜まっていって、つながる湾の勉強会とかにごそっと入れた感じ。取材させてもらって番組つくったやつをつながる湾に入れて勉強会にしたり。
加藤
初期の頃にたくさんやっている勉強会は、ネタ元としては津川さんが多い?
津川
あれは、そうだね。うん。俺がやってきたことのなかでつながってる人たちだから、話せるし、内容も深いし、面白いし、必要だな、というネタばかり。
加藤
勉強会は、津川さんがそれまでの活動で知り合ったおもしろい人たちを呼んで勉強しましょうみたいな感じですね。つながる湾の活動としては、最初は勉強会が主な動きなのかな。少なくとも津川さんについては、タネフネよりも勉強会のほうがウエイトが大きかったのでしょうか。
津川
そうだね。勉強会のほうが。
加藤
そのころ、そらあみが始まります。そらあみのほうは結構かかわった?
津川
運営的には関わってないけど、人との繋がりはいろいろあった。五十嵐くんとか、会うたびに話したりはしてた。文化ってなんだろう、とか、つながるってなんだろう、とか。人工物が美しく感じないのはなぜかとか。五十嵐くんとはよくそういう話をしていた。運営としては、大沼くんがいろいろ動いていた。
加藤
津川さんの資料見ると2016年5月の奥松島宮戸リサーチだけに◎がついている。僕の印象では、立ち上げのときに仕掛け人とかきっかけになっていた印象があるんだけど、実際、勉強会のネタを持ってきた以外は、いろんなイベントを先導してやったという感じではない。
津川
ない。ない。うん、その通り。一個のイベントの前に、ビルドに集まって、夜な夜な話し合いをしてた。ネタ出し。島どうしを糸電話でつないだらどうだろうとか。アイディアを持ち寄って、12時ぐらいまでとか。けっこうやってた。そこでは俺もアイディアを出したり、そういう部分では関わってるけど、運営となると、時間がなかったのと、それなりにできるメンバーがいたということで、任せていいかなと。そういった部分で、あまりやってないかな。
加藤
任せつつ、常に、そこにはいた。
津川
常にいた。当日の手伝いとか。(深く関わったのは)始まるまで、始まって当初の部分なんだよね。
加藤
最初に戻ると、彩さんにとは、市の冊子を作るうえで面識はあったものの、一緒になにか、ということはしたことがなかった。
津川
なかった。
加藤
そのとき彩さんの中で、ビルドでの打ち合わせに津川さんを呼ぶ意識って・・・
津川
こは聞いてみたいね、なんで俺だったの、俺の顔を思い出したの、って。呼んで、あんなプレゼン聞いてどうするつもりだったのか。
加藤
なぜ「これだ」っていうリアクションだったのか。
津川
うん、彩ちゃんがどんなリアクションだったのかもわからない。
加藤
聞いてみます。
津川
もっと言っちゃえば、そのままの状態が続いてる。やりたいこと提案させてもらってるけど、まあいいのかなと。
加藤
つながる湾に対する、関わりかた、立ち位置としてはそんなに変わっていないということでしょうか。
津川
変わってないね。だから、「俺がこんなすごいこと思いついたからついてこい」みたいなスタンスじゃないし。俺こんなことやってるけど、どう? みたいな。
加藤
津川さんが発案して、つながる湾で形になったことというのは。
津川
湾をめぐるツアーがそうかな? 提案とか発案というのもちょっと違う。「こういうのあるけど」っていう情報提供かな。タネを見せると、使ってくれるというか、形にしてくれる。
加藤
津川さんとしても、こういう形にしたら、っていう意図をもって提案してるわけじゃない。
津川
じゃないね。
加藤
経験から、こんなのもやったよ、こういうのも使えるかもね、みたいな。
津川
うんうん。ネタ出し。
加藤
それを形として落とし込むのが他のメンバーだったり。
津川
その形のほうが、やりやすいし、そうなってる。例えば大沼くんの、アーティストじゃない、デザイナー的な役割。彩ちゃんのプロデューサー的な役割。そういう役割分担になってるかなと思う。まあ、みんな、お前もっとやれよと思ってるのかもしれないけど。なんか、そういう居心地の良さはある。
つながる湾のテーマに沿った部分では、俺はネタは持ってるし、出してきた。というスタンスで思ってる。ネタ出しだけじゃなくて、みんなはもっと重要に思ってくれてるかもしれないけど。
なんでそういうスタンスを取っているかという理由について、いま話しながら思ったのは、アートに対する、遠慮とか、敬ってる部分があるからなのかもしれないね。俺が組み立てちゃうと、素人の俺が組み立てた感じに見えちゃう。だから形にする部分は、彩ちゃんなり大沼くんに作って欲しいなと思ってる。
加藤
アートの専門家の力というか…
津川
そう。表現の部分ね。コンセプトとかネタの部分とかは俺もやりたい。
加藤
津川さんの立ち位置はわかりました。つながる湾の他のメンバーも個性的で、こんなメンバーがこんな風に集まってるということに最初は僕もびっくりしたんですが、津川さんから見て、彩さん、大沼さんのパーソナリティとか、つながる湾の中で果たしている役割というか。
津川
大前提として、常に動いていて常に成長する人たちだなというのはある。
彩ちゃんの存在が大きい。高田家として地域に根ざしているということに対する憧れもあるし、アートを、勉強してきて、こだわって、それを仕事としてやっているという部分も尊敬してるし。新しく作り出してるし、それを自由さと責任とバランスよくやってる。すごい尊敬している。
ディレクションとか、プロデューサーというポジションではあるけど、アート的な要素はすごく持ってる人だし、自分として表現ができる人だと思う。俺にはない、アートっていう部分を、すごい持ってる人だから、そこへの尊敬、憧れ。
彩ちゃんの意見はよく聞きたいなと思う。案を形にするときに、形にする部分だけじゃなくて、コンセプトの部分について、どう考える? と、話してて面白い。案を言葉にしていく過程で、そこはすごく重要。
最近話してない。話ししてくれない。
たまにふらっと、話をしにビルドに行ってた時期があった。なんの話してたか忘れちゃったけど。コンセプトの部分だよね多分。つながる湾がらみの。地域についてとか、人の絡め方とか。話してた気がする。
加藤
発足っていつ。
津川
発足といっても、日比野さんと出会って何かやろうって蠢いてて、具体的にアーツカウンシルからお金が動く部分で代表決めて団体としてまとめてとなった時が、正式な発足だと思う。
加藤
2013年5月のキックオフミーティング、浦戸のりフェスのあとの?
津川
そうだね。それが1回目の発足かな。
代表決めたのいつだっけ。でもその時は、大沼くんが代表になったっていうだけ。
あまり大沼くんの性格も知らなかったし、真面目にコツコツやる人なのかなと。代表としては相応しいんじゃないかなと。
加藤
そういうイメージだったと。
津川
そこまではね。ただ代表になった途端に、意見を言うようになったように見えた。事業としてやっていく上で、まとめ役のポジションでの意見をきっちり言っていくように。それまでは遠慮してたのかな、っていう気もする。
だから代表になってよかったし、ディレクターという、物を作ったりするポジションで、言いっぱなしじゃないちゃんとした意見を言ってくれるから、そういう人なんだ、っていう認識。俺の見方としては、代表になる前とあとで変わった。
加藤
その後数年間一緒にやって来て、大沼さんに対する印象は
津川
以前は、アーティストと、それを形にする人って、俺の中では同じだった。
なんか作る人、アーティストもその中の部類の人、みたいな。大沼くんのディレクションにこだわった動きを見ることによって、アーティストとディレクションは違うんだな、っていう認識。
加藤
彩さんとはまた違う関わり方?
津川
大沼くんは、現場を知ってて、観客とかとアーティストの間に入ることができるディレクター。彩ちゃんはそれも含む、どのポジションにもなりうる、全体を見る人。
どっちかっていうと、大沼くんは形、物。彩ちゃんはコンセプト、イメージ。
間に入ったり全体を進めるという点では一緒だけど、俺の中では、違う。
加藤
慶介さんは
津川
大沼くんと一緒で、あんまり喋んない。寡黙な。どういう人かまったくわかんなかったけど、知るほど、しっかりしたものに根ざして進める、ちゃんとした人だなと思うようになった。
加藤
論理的ですよね。
津川
うん、話す内容が論理的で面白いのと、あとは進め方だよね。進め方も論理的。打ち合わせがなんとなく進んでいる時に、冷静に、こうじゃないの、って言う役割。篠ちゃんがいればまとまるな、と思う。今日はまとまらないから、こことここは次回まで考えてくることにしましょう、って言うから、みんな「わかりました」って従う。
加藤
状況を整理してくれる。
津川
そうそう。いま言った3人とも、俺にない部分。おれは言いっ放しで、「いいんじゃねえの」って。
加藤
つながる湾では別としても、津川さん自身の活動としては、言いっぱなしじゃなくて、どうにか形にしていくということをずっとやってきた。
津川
まあそうだね。うん。
加藤
それをつながる湾ではやらずに、任せる
津川
意識的にやらなかったというわけではないんだけど、さっき言った、アートへのこだわりというか、その辺が、やらなかった理由なのかな、と今は思う。
加藤
自分が「俺がアートやる」って表に立つよりは、という、少し引け目じゃないけど…
津川
そこの言い方ね。間違えると、彩ちゃんとか大沼くんに申し訳ないけど。
加藤
うん、でもそうですよね。アート専門じゃない方から見ると、専門である強みが。
津川
うん、「そこ、やって」っていうのはあったかも。
加藤
谷津さんは?
津川
印象だけの話をすれば、最初、随分きちっとした人だなと。きつい人なんじゃなくて、きつい言い方も平等に言える。ハッキリ。でもそれは表面的な部分で、ちゃんと話してみると「この人何を言おうとしてるのかな」と芯の部分を見て、いい人だなと。

あと、谷津さんがすごいと思ったのは、これ(冊子)を作った時の、最初の文章。俺がダラダラ書いたやつを、こうまとめてくれた。「この人、俺のことわかってくれてる」って。文章としてまとめるの上手い人なんだと思って。だから、文章とか、まとめるという部分で、俺は頼りにしている。文章だけじゃなくて、編集っていう意味でも、力ある人。
あと、興味あるのが、谷津さんの心の変化。東京から白石に来て、「地域」の捉え方がどう変わったかとか。それが、つながる湾がどう変わったかということと関係あるかはわからないけど、変化を知りたい。ふるさと観みたいなのを聞いてみたい。
加藤
はい。
津川
あと加藤くんね。途中から入って。
加藤くんの前にも何人か来たりしてたけど、自分のポジションと照らし合わせて、つながる湾はどう見えるかというのは聞きたいし、それもっと言って欲しいなと。つながる湾プロジェクトというのがあって、彩ちゃんとか大沼くんとか谷津さん篠ちゃん俺とかいて、あとから見た時にどう見えるかとか。自分を入れて欲しいんだよね。俺が「チガノウラ」と名前を付けたのと同様に。自分のポジションがあって見えると、表現の仕方が変わってくるかなと予想してる。
加藤
今はどちらかというと傍観者的に見える?
津川
意見を言うにしても、「その時代はその時代。今は俺の時代だ」みたいな。難しいと思うけど笑
加藤
積み重ねてきたものに対する遠慮が僕にある、それが津川さんに見えているということですよね。
津川
うん、そうそう。遠慮しなくていいと言っても、そんな簡単になくすことはできないと思うけど、そう思う。だから、運営とか、色んな場面で、加藤くんに力になってもらっているのはあるけど、運営じゃない部分、発想とかコンセプトとか。
個人的には、ライティングをやって、塩騒やって、ギター弾いて、という姿を見てるから、もっと自分を表現できるポジションとして出せる人だよな、とは感じている。
加藤
そらあみとか、積み重ねてきたものに関わっていないというのもあるけど、もっと大きいのは、当初のコンセプトの時点で、コンセプトを共有して一緒にやり始めたわけじゃないということなのかも。もちろん、コンセプトに共感してるから一緒にやらせてもらってるんですが。でも、津川さんにそう見えているだろうなというのはすごくわかります。
津川
俺、何らかの完成形をみんなでつくるというより、今いる人達でできるかできないかわからないけどいい方向に向かって動く、その変化の方に価値があると思う。「完全」が何かもわかんないけど、みんなでつながる湾を完全なものに作り上げるというより、今いる人たちが、一歩踏み出せること。そこを共有するというのが、一緒に生きてるということじゃないかなと。それはつながる湾に限らず、世の中全体だと思うけど。
今回、始めたときと今とで各々の気持ちがどう変わったかっていう、変化の部分に、興味がある。俺自身も変わったし。
加藤
次、そこを聞きたいんですけど。
津川
その前に、2016年5月の奥松島・宮戸リサーチ。これを津川さんが◎にしたのはなんでだろうね。これ何のときなんだろう。そんなに重要じゃないんじゃないかな。このときかどうかわからないけど、創童社で、東松島のパンフレット作ってた。その仕事、なんでコンペで取れたかというと、震災の直後に東松島に、創童社をぬきにして、仕事やりたいと観光課に行ったことがあって。「湾」の発想で、東松島は今まで松島湾のつながりを重要視してこなかったと思うけど、湾で言ったら絶対仲間だし、俺は多賀城塩釜で動いてるけど、東松島と関わりたい、って。その時の観光課長とは今でも仲いいんだけど。
で、東北電力のグリーンプラザのスペースで東松島を紹介したいとも思ってるし、取材させてくれないかと言ったんだけど、「いま観光課も震災復興の動きしてるから、観光やってる余裕ない」って言われた。「じゃ俺がやるから、やらせて」って言った。そのとき木島さんとか、縄文村の菅原館長は前から知り合いだったけど、いろいろ取材して、そこから1年ぐらい経ったときに、パンフレット作るからコンペ参加しないかと。参加したら取れた。
俺の中に情報が蓄積されたから、それをつながる湾のみんなに共有したいと思って、実際みんなを連れて案内して回ったことがあるんだけど、それがこのときなのかな・・・。
意味合い的には、こっち側も東松島ってあまり重要視してないよね。「2市3町」という言い方があって、ゴミとか水道とか行政的な連携を組むときって、東松島は石巻エリア扱い。でも文化圏としたら、こっちと一緒にやるのはいいんじゃないの、と、東松島に言っているし、こっちのみんなにも、2市3町じゃなくて3市3町って言って、と未だに言ってる。そういう流れの中で、東松島・宮戸を知ってもらうのは意味があると思った。運営委員会のみんなを中心に、その他の人たちも。来れる人みんなを連れて回った。
加藤
マリネットの取材とかは入れずに?
津川
その時点ですでに、マリネットの番組は何本か宮戸で作ってたし。
加藤
その情報もあって、案内できた。
津川
そうそう。今は水曜日郵便局とか、鰐が淵とか、できちゃってるけど、それまでは何のつながりもなかった。
加藤
よその地域圏
津川
そう。このエリア来たことない、みたいな感じだったし。
加藤
ですよね。塩釜の僕らからしても、野蒜の海水浴場に行ったことがあるぐらいの話で。
津川
だよね。タイミング的に、みんなの気持ちがあっちを向いてたし。
加藤
そらあみを東松島でやってなかった、というのもあったんですかね。次は東松島で、みたいな。
津川
あ、資料(エクセル)に書いてあるね。「『東松島観光パンフ』制作において関わった方々、情報を、仲間に見せることができてうれしかった」。
加藤
じゃあそれがその時なんですね。
で、ここから大事なこと。さっきの話で、津川さんがいろいろやってきた中でノウハウ、蓄積があって、つながる湾のキックオフに提供できたというか、きっかけのひとつになれたと。そのあと、つながる湾と関わって、津川さん自身が得てきたもの。活動自体であっても、活動に至る話し合いの中とかでも、得てきた、変わってきたもの。たとえば、スタートしたときに、「何するかわかんないけど関わり始めた」ようなスタートだったみたいですけど、その後、感じ方に変化は?
津川
変化のきっかけというのは、さっき言った、彩ちゃんを始めとする、アートに対するの認識の仕方というのがでかいかもしれない。一般的にいう、アートを理解して、ということじゃなくて、地域と照らし合わせた時のアートの認識は、俺の考え方とか、今やってるいろんな仕事への影響がすごいあって。
つながる湾プロジェクトは、俺自身の所属のひとつ。初期の頃はいろんな人たちが顔出してたから、その人たちとの、人と人がつながるっていう部分を考えさせられた。その代表格が、今一緒にやってるメンバー。
俺の中での彩ちゃんがアートのシンボル的な人だとしたら、そこに集まって来たアーティストたちと、直接話すことができて、アートってこういうことなのかな、と捉え方が変わった。最初は、アートって、ただ綺麗なもの、という認識でしかなかったけど、今はもうまるっきり考え方じゃないかなと。アートっていうのは、例えば視点を変えるとか、アートに意味を考えるようになった。
以前は感覚的に、「綺麗だな」とか「見たくない」とか、印象だけだったけど、今は、意味だな、と思ってる。そこに「地域」という要素が重なってくるとどうなんだろう、というのが、つながる湾を通しての考え方の変化。
その考え方が変わることによってどう行動が変わって来たかっていうのは、また、あるけど。
加藤
ただ綺麗な、美しいものがアート、というところから、視点の変化というか、アートそのものに対する見方も、変わった?
津川
うん。
加藤
アートと地域の関わりという点について。アートという存在が、地域でどんな役割なり、立ち位置にあるのか、ということの一方で、逆に、地域がアート、作品に及ぼす影響とかそういうことも考える?
津川
うん、それも含めて。まだ、アートに対する認識は俺の中では完成されてなくて、一時期はアートって、表現する手法なのかとおもってたけど、それでも言葉がたりなくて。手法と捉えちゃうと、道具なんだよね。人集めの道具とか。でもそうじゃなくて、手法というよりは、もっと根底にあるような、必ず必要なもの、と思うくらいにまでなってる。今。
加藤
手法と言ってしまうと、人集めだったり、広告だったり、プロパガンダを伝える手段であったり。
津川
そう。それだと、美しくあって意味も伝えればいいっていう、でもやっぱ道具。もっと、そもそも必要なものなんじゃないかなって思う。俺は絵を習っていたこともあって、なんとなくアートの領域も興味はあるけど、俺自身は今まちづくりとか、そういうポジションだと、自分の立ち位置を明確にしている。まちづくりの視点でアートをどう捉えたらいいかと考えている。
企業とか行政とかと、何かを考える時に、物事を役割で考える時に市民セクターとか行政セクターとか、企業セクターとか言う。ほかに自治会とか町内会とか。そのセクターの一つにアートセクターがあるような気がする。聖地的な・・・。もしくはそのアートの要素が個々のセクターに入ってるのかもしれない。
その要素って、凝り固まった部分をほぐしたり、視点を変えたりということを瞬時にできる考え方。これがまちづくりには絶対必要。まちづくりというポジションから、アートをこういう位置付けで見ている。
加藤
そういう風に考えるようになったきっかけに、彩さんとの出会いとか。
津川
つながる湾の中のアーティストとの出会いとか。まあ五十嵐くんとかに限定されてくるけど。
あと、アサヒアートフェスティバルで九州に行った時に、2日間、大きい会場に集まってグループに分かれてディスカッションやったり、発表したり。つながる湾の発表も喜多くんと二人でしてきた。そこで全国のアーティストと意見交換した時に、つながる湾のアートって特殊だなと。地域があるアートだなと。他の地域はあんまり・・・。プロデューサーが地域をおしていても、アーティストが「俺のアートは別に、使ってくれるならどこでもいいよ」みたいなのが圧倒的に多い。
加藤
うん
津川
地域文化と絡んでるアートというのが、つながる湾の特徴だなと。それがすごい楽しくて。今まで俺はまちづくりとか地域づくり、この発想でやってた。
加藤
アートが発想の中に入ってこない発想。
津川
うん。そのことの方が多かった。
アートの魅力によって、結果的に人が集まったりはするんだけど、かといって、人集めの道具としての存在ではない。むしろ、中にいる人たちの気持ちの成長とか、そういう部分で必要なんじゃないかな。作り上げていくもののために。
加藤
まちづくりの中でも、アートがそういう立ち位置に
津川
うん
加藤
二つ聞きたい。
津川
そらあみとかやるなかで、次第に津川さんの考え方が変わってきた部分もあると思うんですけど、つながる湾のアートプロジェクトで一番大きいのがそらあみ?ですよね、私の印象では。そのそらあみをやるなかで、地域とアートの関わりというか重要性を感じた、瞬間、エピソードはありますか。

そらあみに関しては、リサーチの段階の色。手順としては、五十嵐くんを、一日二日、やる地域を案内して回る。彼の中に、この地域ってこういうことだよって。そうすると彼は、この地域ではこの色を使いたい、って、5色。4色だったかな。
加藤
まあ、色の数に縛りがあった。
津川
うん、それを、大沼くんの庭で、色染めて、それを編む。
加藤
地域のいろんな情報を、4色なり5色なりに象徴する。そこが津川さん的には
津川
だいたい空の水色は入ってくるんだけど、すげえなと思ったのは、浦戸でやったとき、完成品をカキ棚に掲げる。そんなことできんだ、って思ったのと、その地域を表す色が、その地域と重なって見えた時に、透明に見える。まあ水色はどこに行ったって、空に掲げたら透明なんだけどね。
加藤
同化しちゃうから。
津川
うん。ただ、地域の色と重なった時に透明に見えるっていう発想もすごいと思ったし、あとは、網越しに向こうを見る発想。普通に何もない状態で見るのと、網越しに見るのでは見え方が変わるなと。地域の再認識というか、
加藤
アートをフィルターにして地域を見る。
津川
すると見えなかったものが見えてきたりとか。「なんか素敵だね、この地域」と。見慣れた自分の地域でも、これを見せられて「これあんたの地域だよ」と言われたときに、「いいじゃん」って。自分の地域、今まで何を見ていたんだろうみたいな、気付かされたというか。そこに、ワクワク感と、見方を変えれば魅力、資源があるんじゃん、と思った。
加藤
それはそらあみだけで見えたんじゃなくて、見方を変えるということを、そこで学んだというか
津川
そうそう。
加藤
では津川さんにとって、アートというものがそういう存在になった? 見方を変える…
津川
うん。なくてもできるじゃん、と今まで思っていたのが、随所に絶対必要、に変わった。考え方が。
加藤
アートの視点が必要と。
津川
うん。だから俺、いまやる仕事には、アートという言葉を使わずとも、この考え方は入れるようにしてる。まあ光のインスタレーションとかは、もろアートっぽいけど。1年前の幸せ色の多賀城とかも、もろ、この考え方。
加藤
そうですよね。多賀城跡とかをそのまま見るんじゃなくて、全然違う見方に。
津川
うん、ライトアップも、ただのライトアップじゃなくてそこに意味づけというか、来る人の気持ちの何を変化させたいかとか。この土地について何を気づかせたいかというのを、ただ「これに気づいてください」と言葉で言うのじゃなくて、色で気づかせるとか、そういう仕事に変わってきたかな。
加藤
その意味では、つながる湾がアートプロジェクトであったことが大きい。
津川
かなり大きい。未だに気付かされてるし。
加藤
塩竈近辺って、アートと町との距離が近いと最近感じてて、杉村惇の夏の展覧会(ボヤージュ)とかも、地域を意識した作品とかにこだわってたりして、津川さんが言ってたこと(まちづくりにアートの視点を、みたいな)がなされてるんじゃないかと思う。それって、10年前、20年前はそうでもなかったんじゃないかな。だからまちづくりのあり方自体、現実的にもちょっと変わってきてるのでは? 多賀城は、津川さんが関わることによる変化があると思うんだけど。塩竈の場合、彩さんの存在、美術館を運営したり、ビルドをやったりということが、如実に出てる気がする。
津川
それはあると思う。彩ちゃんの存在で、今生きてる人たちにわかりやすい動きを展開してる。ただ、それをやれる風土が塩釜にはある。どういうことかというと、人が多く集まって、魚とか、神社とか、遊郭とか、そこに根ざしてる文学とか、アートにつながるような、文学、俳句、絵画、というのがもともと多くある、続きやすい地域。ここでは「文化」とひとくくりに言っちゃうけど、「文化」があって、そこに眠ってる風土があって、それを一時期ちょっと忘れそうになったけど、でもどっかに残っているそれを彩ちゃんが再認識させた上で、オリジナルの形で表現し直してる。
その図式って、他の地域でどうかと言うと、例えば多賀城なんかは、文学的な部分はあんまりない。写真展とかも多賀城は根付かない。塩釜は継続してできる。その違い、面白さはある。
加藤
なるほど。七ヶ浜と東松島は、そこに生業、暮らしはあるけど。
津川
そうそう。浦戸もそれに近いかも。七ヶ浜とか宮戸に近い。
加藤
塩釜はもともとがアート寄りなんですね。
津川
地域のベースとしてあるかどうかだよね。
加藤
話を戻します。津川さん自身、アートに対する見方が変わって、行動の変化。具体的にはどんなこと?
津川
やっぱり、もろにわかりやすいのが、「幸せ色の多賀城」とか。他の仕事にしても、そういう発想をした上で提案するようにはしてる。たとえば、「アート=絵とか音楽とか」ということではなくて、視点を変えるとか、言葉がふさわしいかどうかわからないけど、「アート的思考」というような、それで見直すようにはしてる。
加藤
実際に絵を飾るとか、何色にするとかいうことをしなかったとしても、企画の段階で、「こっちから見たらどうか」とか。
津川
そう。その時点で、アートという言葉がいいのかどうかはわからないけど、たとえば「このイベントってやればいいんじゃなくて、やることによって何を変えようとしているのか」とか、当たり前のことなんだけどより考えるようになってる。たとえば古代米のプロジェクト(おもわく姫パーティー)は、プロモーションではあるけど、そこに関わってる人たちがより結束が強くなるとか、地元の誇りの度合いが増すとか、そういう目的があるなら、どういう表現にしようかなと言う発想になる。パブリックハウスでやるなら、料理長が前向きだから、地元感を出せるんじゃないかとか。「古代米トーク」も、ただ一次産業を語ったのではおまけになっちゃうから、若い人に農業の夢的な話を語ってもらうとか。アサノくんもシロノムラサキの歌を歌ってたよなとか。枠組みがあって完成されたんじゃなくて、何もない状態から、意味付けして、組み立てた。地域の誇りを作るために。去年は「おもわく姫」ができて20周年ということもあったからそれをやった。今年は予算の問題もあってやらない予定だったけど。
加藤
「おもわく姫」そんなに前からあったんですね。
津川
知らないでしょ。ずっと停滞してきた。20周年という数字が使えるから、もう一回そのネタでやろうと提案したり、20周年でビンを変えようとなった。
このイベントだとちょっとコンセプトが弱いかもしれないけど、誰の気持ちをどう変えるかという部分に沿って。アートイベントならそれをアートとして掲げるからわかりやすいけど、俺はプランナー、イベント、やってるから、アートじゃない部分で、それをどう提案するか。
加藤
アートの視点は、表面的には、津川さんの中だけにある。プランする過程で。
津川
そう。その考え方で、やってるつもり。アートそのものとしてやるなら、「幸せ色の多賀城」とか、こないだの「あやめ祭り」の、墨のワークショップ。5色の色紙を用意して、多賀城と縁のある奈良の古梅園の墨を使って、多賀城碑の文字を一個ずつ、多賀城に住んでる人に書いてもらってつなぎ合わせる。これは、多賀城碑を知ってもらいたいという大前提がある。古梅園というのは日本で一番古い墨屋さん。江戸時代に、多賀城碑のことを慕って、多賀城碑のところに石碑を立ててる。奈良から石碑を持ってきて。多賀城の人も古梅園の墨なんて知らないし、石碑が建っているのもしらない。書家の大塚さんに指導してもらって、文字を書いた。
色の設定とか、そういう発想で、一個ずつ、文字を知ってもらう部分と、多賀城碑をもう一回見直そうということ。というのは、そういう影響を受けた考え方で作った。
「あやめ祭り」で、あやめ園でひとつのブースを作ってやった。「多賀城碑って知ってる?」から始まって。「いろいろあるけどどの字がいい?」って。「墨の色、いいでしょ」とか言いながら。あとは手持ち提灯に同じように書いてもらって、あの3日間は多賀城碑の文字が動き回った。
加藤
それも、アートの視点がなければ出てこなかった発想?
津川
そうかもしれない。
加藤
そのような、アートに対する見方というのが、津川さんの、つながる湾の一番の収穫?
津川
うん、墨のワークショップなんかは色が関係しているからもろアートっぽく見えるけど、色が関係してなくても、地域に根ざすにはどうすればいいかと深く考えるときに、「アートって何だろう」という考え方は活用されていると思う。
加藤
アートって何だろうの答えは。
津川
まだない。
加藤
ないけど、それを問うことと、地域で何をやるか考えることの間には親和性がある。
津川
アートの視点がなかった時の考え方と、それが入ってからは明らかに違う。
加藤
つながる湾での収穫は、アートの視点以外には。
津川
1個ずつのイベントをやってみて、気づきは当然ある。たとえばハゼは全てが気づきで、「こういう文化があったんだ」とか、ハゼをつかんだときの感触とか、貞山運河の釣りイベントの時に、「小学生の時にここで釣りしたな」と思い出がよみがえったり、ハゼも生きてるんだな、とか。そういう発見はあるけど。
でも全体的に、アートということのほうがでかい。考え方そのものだから。
あと、行政との関わり。最初に、「湾っていいテーマでしょ」って行った時に、行政はほとんど誰も相手にしてくれなかった。その、最初の、相手にされない状態から、湾というテーマで動き始めて、つながる湾の目立ち方もあって、宮城県の湾ダーランド構想の時とかに、湾ダーランドプロジェクトに委員として入れてもらったり、県の観光パンフレット作らせてもらったり、行政から信頼されて、松島のカキ祭りのときに宮城県のブースをつながる湾でやってくれと任されたり。法人としてチガカゼが受けて、実際には大沼くんと篠ちゃんと、佐野みさとさんに動いてもらった。そのときは旅展でやったすごろくをボードゲームにした。すごろくをやった子供たちにバッジをあげたり。
そういうのもありつつ、行政との信頼関係が、できたかな。
加藤
なるほど。
津川
たぶん、俺、自分の軸が、ないんですよ。いろんな軸があって、それと同時進行でいくつかの軸を動かしてたりする。それがつながる湾には集約して流れ込んでるけど。
加藤
流れ込むものが、少しずつ違う? つながる湾にはアイディアが流れ込んでて、別のどこかには津川さんの運営力みたいなのが流れ込んでるみたいな?
津川
そう。同じものを流してるんじゃなくて、このネタどう?そっちで形にしてねって。別の何かは収益のために自分でやるつもりで、みたいな。器用に使い分けはしていんだけど。
加藤
結果的にそうなっている。津川さんは、つながる湾の言い出しっぺ的な感じで巻頭に出てくるけど、つながる湾の活動自体を現場で作ってきたのは大沼さんだったり…
津川
組織上の代表は大沼くんだけど、トップについていくピラミット型ではなくて、みんな横並びの役割分担。それが一丸になってるかというとそうでもなくて、いろんな人が出入りするから、その場合によって揃うメンバーが違っていたり、それが今に至っている。わかりやすいピラミット型の組織で推進してきたとかじゃない。いままでにない、言い表すのが難しい進み方をしている。
加藤
津川さんが手がけてきた、つながる湾に関係ないプロジェクトは、津川さんが引っ張っていくスタイルが多い?
津川
仕事として受けるときはそういう形が多い。でも純米酒BARとか、仙台千人合コン(せんコン)とか、東北食の力プロジェクトとか、そういうのはつながる湾と似たような形で、俺が組織のリーダーという形じゃなくて、何人かメンバーが集まって、俺も役割の中の一人ということにすることが多い。
加藤
それでも出だしとしては、津川さんがタネを蒔いていることが多い?
津川
多いね。(ピラミッド型じゃない)理由としては、一人じゃできないということと、そういうやり方ってコミュニティの作り方の手法かなという気がしてて。トップダウンかコミュニティかの違い。トップダウンは、リーダーがいてみんながいて、というやり方。コミュニティは、空間にいろんな人が横並びでいて、その中にリーダー格がいることはあるけど、ネットワークと言った方がいいかな、それぞれがつながっていたりする。
トップダウンは行動が早い。でも何かあった時に新しい力を生み出しやすいのはコミュニティ。前例のないモデルケースに踏み出しやすい。つながる湾はこっち(コミュニティ)。
仕事でやってるのはトップダウン。進まないとまずいから。指令出しながら進める。
加藤
これからのこと。つながる湾自体がなくなることもありうるけど、あるという前提なら、津川さんの関わり方は今まで通り? 何か、得たいものとか、ありますか。
津川
組織としての感覚なら、「今後こういうことやります」っていう言い方をしちゃうんだけど。「どうなっても(いい)」という感じではある。縛られたくも縛りたくもないし、自由というところがつながる湾のいいところでもあるかなと。運営していく、お金が絡むという部分ではきっちりしなきゃいけないとは思うけど、そこの自由さは捨てたくない。自由であるがゆえに(つながる湾自体が)なくなるなら、それはそれでいい。運営が難しいとか、「役割は終わったんじゃないか」とか。やれなくなる理由があれば、やめてもいい。そう言うと「やる気ねえのか」ってなっちゃうから言い方が難しいけど。
さっき「風土」って言ったけど、つながる湾自体、風土の流れのひとつのような気がしてる。一回消えても、完全に消えるものではないと思う。仮に、「つながる湾プロジェクト最近なくなったっぽいよ」となって、10年後、30年後、50年後、蘇る可能性があるし。そこに対して、我々が残した資料か何かが残っていれば、よみがえる気がして。存続を目的にして、何か残さなきゃいけないとか、そこにはあまり魅力は感じないんだよね。50年後、あやちゃんみたいな人が、必要であれば掘り起こしてくれるかもしれない。そんな存在でいいんじゃないかな。そう考えると、やらなければいけないという発想じゃなくて、メンバーの俺らがやりたいことやっていけばいいのかなという気がする。
加藤
現代のつな湾の存在意義。あったのか、あるのか。津川さんにとって。
津川
風土としてこの地域にもともとあって、一回見えなくなったものをもう一回「見える化」してあげる。そこがつながる湾プロジェクトの役割かな。後付けだけど。

俺が初期の段階で、高知の人の影響うけてる。チガカゼ立ち上げる時に、震災前から知ってる人だけど畦地さんっていう人がいて、この冊子、当時、こういうことやりたいなと。地域にしかない商品開発したり。一回、高知に会いに行った。
この人たちが作ったこの本(「水」発行・第三セクター四万十ドラマ)を作りたくて。この本が衝撃的だった。これの「湾」作りたかった。中身は考えてないけど、「湾」って表紙で。島の歴史とか、塩の文化とか、当時思ってた。で、そのことはずっと忘れてたんだけど、気づいたらパンフレットも作ってるし、つながる湾のこういうの(ドキュメントブック、改新)とかも作ってるし、結果的に似たようなことやってるなと。