- 大沼 剛宏
- Takahiro Onuma
- 代表・現場ディレクター
地域に暮らす人たちとのつながりの中で
土地の文化を学び、表現してきた。
つながる湾プロジェクト運営委員会の代表を務める大沼剛宏は、塩釜商工会議所青年部や松島湾アマモ場再生会議※1など地域に関わるほかの団体の活動においても重要な役割を果たす。それらの活動を通じてさまざまな視点から地域を見つめる機会の多い大沼は、「つながる湾プロジェクト」の活動の意義をどう捉え、活動から何を学んだのか。
参加者として関わるなかで湾域の文化の面白さに気づいた
- 大沼さんは今、塩竈市関連のいろいろな活動や団体、事業に参加してるけど、大沼家は代々、そんなふうに地域に深く関わる仕事をしていたんですか?
- いや、俺だけだね。
- 子どもの頃のことで、塩竈とか、松島湾に関して印象に残っていることはありますか?
- 母方のじいさんが市内に住んでいて、船でハゼを釣って、家族で焼き干しを作って売ってた。だからその家族と一緒にハゼ釣りに行ったりはしてたかな。
- そういう感じで海はよく行っていた?
- うん、好きだった。でも、そのくらいだよね。あとは普通の塩竈の人と同じかな。
- アート関係にはずっと関心があったんですか?
- アートは全然。ものづくりをやりたいと思って、大学を選んだ。
- 専攻はプロダクトデザイン。それって何を・・・。
- まあ、工業デザインというか、商品のデザインというか。市場に出せるような立体の製品を作ることを勉強した。
- 大学院まで行ったあと、塩竈に帰ってきて個人事業主。具体的に何をしていたんですか?
- イベントで使うものを作ることが多かったかな。
- たとえばガマロックフェス※2のモニュメントみたいな?
- 簡単にいうとあんな感じだね。
- 高田さんたちと一緒に活動してたのもその頃ですか?
- うん、ビルドスペース※3主催の出張ワークショップを一緒にやったり、フォトフェス※4を一緒に手伝ったりしてた。
- で、29歳のときに震災。震災の影響で大きかったことは?
- 正直俺は、塩竈でもあんまり困ってないほうだと思う。食べ物は畑にあったし。当時壱番館にあった「まちの駅※5」を手伝っていたんだけど、そこが被災したから、その片付けから始まった。
- 「手伝ってた」って?
- 「まちの駅」を開くときに、店内の什器を作ったり、日報とか注文とかの書類を作ったり、営業に必要なものを整備する作業をしてた。で、開店して半年ぐらいで震災。
- 震災で自分の暮らしは大きな打撃を受けたわけではないけれど、
- うん、周りに大きな被害があったから、自分の力が生かせる場所はないかと考えた。でも震災後の町の様子を見ていて、復旧は10年単位でかかるだろうし、今すぐ自分が何かできる場面はないなと思った。地域の商品を売るためのデザインとか、そういう分野の力が必要とされるのはまだ先だろうなと。だから、「まちの駅」が落ち着いてから千葉に行った。
- 千葉? 何しに?
- ポリテクセンター。電気工事士をとって、店舗の電気配線とか自分でできるようになっておこうと思って。それができるのが千葉だった。10月から3月の半年。その間も、時々塩竈に戻ってきてイベントを手伝ったり、チラシを頼まれて作ったり、伊保石の仮設住宅での炊き出しを手伝ったりしてた。
- そんな感じで、2012年の3月に千葉から戻った。
- うん。その間、伊保石の仮設住宅で高田さんたちが色々な取り組みをしている※6という話は聞いてた。
- その高田さんたちの動きって、のちの「つながる湾プロジェクト」に関わってくる話なのかな。大沼さんがそこに関わりだしたのはいつからですか?
- 2013年5月の「のりフェスティバル※7」で、TANeFUNe(以下「タネフネ」)に乗ったのが最初かな。でもそれも、「浦戸で何かやるなら手伝います」という感じ。
- 千葉から帰ってきて1年以上、大沼さんは、「つながる湾プロジェクト」につながっていく動きの中にはいないということでしょうか?
- うん、全然。当時、他にも被災地にアート系の支援活動がいっぱい入ってきてるんだよね。
- ASTT※8もその一つだったということ?
- うん、その頃は。
- じゃあ「チームwan勉強会(以下『勉強会』)」は? 同じ2013年の夏ぐらいから始まっていますが。
- やってるみたいだから行ける時に行ってみようかな、ぐらい。
- そうですか。ではタネフネも勉強会も、その頃は参加者の一人だったということですね。いつぐらいから大沼さんは本格的に「つながる湾プロジェクト」の流れに入り込んだんでしょうか。2013年夏の「そらあみ」?
- そう。でも、「そらあみ」を手伝い始めたときも、それが何なのかは全然わかってなかった。そしてタネフネの喜多直人船長と、「そらあみ」の五十嵐靖晃さんと、あと何人かと一緒に、島を転々とした。
- 「島を転々と」って具体的には?
- タネフネで浦戸の各島に行って、島のおばあちゃんたちにお茶を振る舞ったり、話を聞いたりという「タネフネカフェ」を開きながら、その隣で「そらあみ」を編む体験をしていた。
- このときってASTTの予算でやってる?
- 当時のお金の流れはわかんないな・・・。
- そっか、じゃあ大沼さんとしては、ちゃんと整理して関わってたわけじゃない。
- うん、全然。あと、勉強会では、「海から見た日本列島」(講師・山田創平さん)の話がすごく面白かったのを覚えている。「海辺の文化は分かち合う文化」というのが腑に落ちたというか。
- 分かち合う文化?
- 俺が知ってる七ヶ浜や塩竈の人たちって、とれたものをよく配るんだよね。海辺の文化って、そうなんじゃないかと思う。山田さんの「自分の畑からとれたら自分のものだけど、海はみんなの海からとれたものだから」っていう話は、ああ確かに、と思った。
- そういうことは、それまではあんまり考えたことなかった。
- うん。海辺の文化が面白いと思ったのは多分、この頃。
- <脚注>
-
- ※1 東日本大震災以降、松島湾周辺のアマモ場の再生に関する活動を続ける団体。塩竈市海岸通に事務局を置く。
- ※2 写真家の平間至(塩竈市出身)とダンサーのATSUSHI(Dragon Ash)の主催で、2012年から塩竈市内で毎年秋に開催されている野外音楽イベント「GAMA ROCK FES」のこと 。
- ※3 「つながる湾プロジェクト運営委員会」のメンバーである高田彩が2006年に開設したアートギャラリー。2007年からは、アーティスト講師による出張ワークショップ活動「飛びだすビルド!」を実施。
- ※4 平間至が主催する写真イベント。2008年に第1回が開催され、2018年までで6回開催された。2020年3月に第7回の開催が予定されていたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため延期となっている(2020年3月末現在)。
- ※5 塩竈市の観光情報の発信、特産品の販売を行う施設。2020年3月現在はJR本塩釜駅前にある。
- ※6 2011年に塩竈市伊保石にできた仮設住宅で、アーティストらとともに、ラジオ局を設置して住民らの声を聴きあう機会を設ける、うたごえ喫茶を開催する、などの支援を行った。
- ※7 「塩竈浦戸のりフェスティバル」。浦戸諸島の復興支援を目的に市民有志によって開催された。
- ※8 「東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業(Art Support Tohoku-Tokyo)」の略。「つながる湾プロジェクト」は同事業のひとつ。
「そらあみ」の体験を通じてアーティストの力を感じた
- ちょっと話を戻します。大沼さんにとって、2013年の「そらあみ」の体験ってどんなものだったんですか?
- アーティストの力というのを初めて感じた。五十嵐さんは、地元の人と交流しながら、作品の制作から展示までの流れを作り上げていく力がすごい。出会った人たちの意識を、「そらあみ」を完成させる方向に引きつけていく能力というか。
- 具体的に覚えている場面はありますか。
- 島で人に会うと、「どこ行ってきたんすか」と話し始めて、アートとは関係ない日常の話を聞いてから、「自分はこういうことをやってる」と伝える。コミュニケーションの中で信頼関係を築きながら、自然な流れで、自分のプロジェクトに参加してもらえるように交渉していく。そうやって知り合った人に後日連絡して、「あのときの話なんだけど、こういう材料がほしい」と頼んでみる。そうすると現地の人は、物を貸してくれるだけじゃなくて設営まで手伝ってくれたりする。そこがすごい。俺だったら多分、自分で用意して、自分で運んで、という発想になっちゃう。
- なるほど。土地の人に協力をお願いすることで、その人をプロジェクトに巻き込むこともできる。
- そう。それが面白かった。俺にとって、「つながる湾」でやってきたことの根底はこの体験にあると思う。
- じゃあ2013年のこの時期は、勉強会で海辺の魅力を知ると同時に、「そらあみ」の体験を通じて、大沼さんにいろんなことが同時に入ってきた時期でしょうか? 海に関してとか、松島湾に関してとか、アートに関してとか。
- うん。
たくさんの人がプロジェクトに関わりいろいろな企画が動いていた
- 大沼さんはこの当時は、「そらあみ」、や勉強会に参加してはいたけど、プロジェクト全体の運営に関わっているような意識はとくになかったんですね?
- なかった。
- 2013年夏、「そらあみ」ぐらいの時期に、「つながる湾プロジェクト」という名称が決まってるんだと思いますが。
- 俺は、「つながる湾プロジェクト」の立ち上げには関わってない。「そういう名前の活動なんだ」ぐらいの意識。
- でも2015年に「つながる湾プロジェクト運営委員会」の代表になったときにはすでに、プロジェクトの主要な一員として動いていたはずですよね。
- 2013、14年ぐらいは、たくさんの人が、いろんな意見を言いながら企画を作ってる期間。その頃は俺も企画を立ち上げる時のメンバーには入ってる。でもその体制だと人が多すぎて集まれないし、運営が大変だから、中心になって運営するメンバーを絞りましょうという話が出て、2015年度から「運営委員会」を立ち上げることになって、代表が必要になったんだね。
- なるほど。少し話がそれますが、2014年はすごいですね。夏に松島で「そらあみ」をやって、10月に「湾の記憶ツーリズム(以下『ツアー』)」、12月に「海辺の記憶をたどる旅展(以下『旅展』)」。この年の「そらあみ」は、大沼さんの中では、かなり重要なポイント?
- うん。前の年以上に、五十嵐さんと一緒に取り組んだ。必要な素材の調達とか、文化財である瑞巌寺と雄島に展示するための許可申請とか、クリアしなきゃいけない課題はあったけど、地元の人たちの協力によって実現できた。それを引き出したのはやっぱり五十嵐さんのアーティストとしての力だと思う。それに、「そらあみ」というアートがもつ「土地を見つめ直す」という要素も、その場所で展示する意義を理解してもらえた理由として大きかった。
- 2014年、松島の雄島に掲げられた「そらあみ」
- そして「ツアー」、「旅展」。
- そうそう。全部リンクしてる。たぶん8月ぐらいの、「そらあみ」を作って展示してる期間に、「ツアー」の構想を話してるはず。
- 「ツアー」の段取りは大沼さんが中心に?
- いや、みんなで決めた。湾の文化をいかに感じてもらうか、アイディアを出し合った。ツアーという形になったのは必然だったと思う。「つながる湾」の目指していたものが形になった企画だった。浦戸のカキ漁師で、企画に全面的に協力してくれた人もいた。このときも、地元の人の協力の重要性を強く感じたんだよね。
- 「旅展」は?
- 「つながる湾プロジェクト」で数年間にやったことを体験できるような展示にしようという話になった。会場内に松島湾を作り上げて、そこで湾の文化を体験できるような展示にしようと。
- このときの大沼さんの立ち位置は、みんなで作り上げる一員?
- そうだけど、作り物は、ほぼ俺とK.S。イラストは彫刻家の佐野美里に頼んだ。
- なるほど。そして2014年は、ほかにもいろいろな企画が動いていますよね。
- この頃は、みんながいろいろ企画を考えて動いている期間。たとえば、俺は「浦戸食堂 まりこさんのカレーとその記憶」をやることは知らなかった。「語り継ぎのためのリーディング」も、写真展「同居湾」も、俺は積極的に関わってはいない。
- それはそれで動いてた人たちがいたということ?
- うん。それぞれ。
- 運営委員会の立ち上げの話に戻ると、その頃たくさんの人がプロジェクトに関わっていて、人によって、企画によって、関わったり関わらなかったりしていた。だからそのへんを整理して、常に核となるメンバーを固めましょうという話になったということですね。
- そうそう。
- その頃までは、大沼さんは運営の方向性について意見を言っていたんですか?
- 個々の企画についてのアイディアはけっこう言っていたけど、プロジェクト全体の運営についてはあまり言ってなかった。
- それで、2014年の終わりとかに、
- 来年どうしましょうかみたいな話になるんだね。今年は松島で活動したから来年は多賀城かな、とか。運営委員会の形にするとか。
プロジェクトの方向性について、メンバーの考えがまとまらなかった
- それで、翌2015年度から運営委員会の形になって、大沼さんが代表に就任した。何が変わりましたか?
- うーん・・・、予算のこととか全部、メンバー数人で決めなきゃいけなくなった。それまでは谷津さんがえずこホールで受けて※9、バランスをとって配分してくれて、「この企画にこのぐらい予算つけましょう」「OKです」みたいな感じだったんだけど。
- 大沼さんたちは、楽しいことを企画して実現すればよかった?
- うん。それが、予算のバランスも自分たちで決めなきゃいけなくなったから、企画の内容じゃない部分の調整に時間がかかるようになった。
- なるほど。
- それと、同じく2015年ごろ、体験プログラムを重視するか、記録・資料としてモノを残すほうに移行するべきか、というプロジェクトの方向性についての議論があって、まとまらなかったのを覚えてる。俺は、体験プログラムの現場で人のつながりが生まれ、そこからコミュニティが広がったり新たな動きに発展したりするのが「つながる湾」の醍醐味であり楽しみだと思っていたから、体験活動を重視したかったんだけど。
- なかなか議論が先に進まなかった。
- そう。勉強会も、参加者を集めずに少人数でやって、その内容を記録して読み物として出せばいい、みたいな話も出てた。俺はむしろ、同じ内容の勉強会を何回もやってもいいんじゃないかと言ってたんだけど、結局、勉強会の予算はなくしちゃった。
- 2015年ごろ、僕はまだ関わっていない時期だけど、行き詰まっていたんですね。
- うん。各々、「思ってるものと違うな」って感じる部分があったと思う。
- 今になって皆さんにその時期の話を聞くと、当時の「行き詰まり」の理由について、それぞれ別の捉え方をしているんです。つまり「あのとき何について一致できなかったか」というポイントすら、今もって一致しない。
- たしかに。そうかもしれない。
- ただ、プロジェクトの方向性に関する議論が先に進まないながら、2015年も、「そらあみ」と「海辺の記憶をたどる旅展『多レ賀城』」はやっていますね。
- この年は多賀城をテーマにしてた。「そらあみ」は3回目だったけど、前年に続き文化財(多賀城政庁)での展示を企画して、許可申請や資材の準備に奔走した。政庁跡の近所の電設業者が大掛かりなワイヤー張りの作業を引き受けてくれたこととか、地元の子どもたちが糸巻きを毎日手伝ってくれたことが印象的だった。
- なるほど。やっぱり大沼さんにとって、五十嵐さんと一緒に地元の人とつながりながら進めていく「そらあみ」から得たものが大きいのですね。運営委員会の代表になったことも、大沼さんにとってはターニングポイントでしたか?
- いや、自分の意識としてはあまり変わらないかな。
- 津川さんの印象としては、代表になったあたりから、大沼さんが運営に関して積極的に発言するようになったんじゃないかって。
- それは多分、運営委員会の打ち合わせに、俺がある程度企画をまとめて、仮案を作って持っていくようになったからそう見えてる。でも俺がそうするようになったのは、みんな忙しくなって、集まる回数も少なくなってて、案を持っていかないと話が進まなくなっちゃったからなの。
- 僕が入った2016年春ぐらいはそんな感じだったかも。
- <脚注>
-
- ※9 ASTT発足当初、同事業の宮城県事務局を担当していたのは宮城県大河原町の「えずこホール(仙南芸術文化センター)」であった。「つながる湾プロジェクト運営委員会」のメンバーである谷津智里は当時、「えずこホール」の職員としてASTT関連事業のコーディネート業務を担当していた。(2013〜2014年度は谷津が個人でコーディネート業務を受託)
体験プログラム「松島湾とハゼ」を新たな展開につなげたい
- そう、そのころ。2016年5月はみんなで企画を持ち寄ったんだね。
- 僕が初めて行った打ち合わせに、ちょうど大沼さんがハゼの企画を持ってきて、すごい面白いと思ったのを覚えてます。「松島湾とハゼ」を始めたことは大沼さんにとって大きいですか?
- そうだね。「そらあみ」は、アート作品として見せるという形があったんだけど、ハゼで全然アート作品じゃない領域に入ったから、転換ではあった。
- 「松島湾とハゼ」を提案したとき、自分の中で、「アートじゃないじゃん」みたいなのはあったということですか?
- それはない。もともと俺は文化を体験することを提案するのが「つながる湾」だと思っていて、アート限定で考えてなかったから。それよりも、佐藤啓一さん(七ヶ浜在住のハゼ釣り漁師)みたいな技術を持った地元の人が文化の礎を担ってきたんだということにフォーカスできたのがよかった。
- 大沼さんの中では、数珠釣りとかハゼだしの雑煮という題材が、ひとつながりの大きなものとして残った感じ?
- そうね。だからハゼの体験プログラムは引き続きやるつもり。岸壁で自分が釣ったハゼが、自分の家で焼き干しになって正月の雑煮のだしになる。そんなふうに、宮城のこのエリアの食文化を家庭で感じられるような流れを作れたら面白いよね。数珠釣りというスタイルにこだわる必要もないと思ってる。
- 2016年から開催しているプログラム「松島湾とハゼ」。ゴカイを束ねた「数珠」で釣るのが松島湾の伝統漁法
- いいですね。それから、「松島湾とハゼ」を始めたのと同じ年、S.Kさんの発案で「松島湾のハゼ図鑑」を作り始めた。制作には僕も関わった。この「図鑑」は、さっき大沼さんが言った「体験か記録か」という議論の落とし所になったという側面はあるのでしょうか。
- 結果的にはそうかも。「体験か記録か」で話し合ってるとき、「湾の図鑑を作りたい」という提案は出ていた。それがうまく、「松島湾とハゼ」とマッチして、1冊の冊子になったというのはすごくよかった。
- 「松島湾とハゼ」のプログラムに関して、今後の構想はありますか?
- ハゼ漁、焼き干し作りという松島湾の生業が途絶える前に、その文化を残せるような仕組みは作っておきたい。それが今の目標かな。たとえば冬場、寒風沢島に牡蠣を買いに行くと、地元農家の手ほどきでハゼの焼き干し体験ができて、後日そのハゼが送られてくるみたいなこと。島に行く目的のひとつにもなるし、この地域で暮らす人の仕事にもなるような形になったらいいね。
- それは「つながる湾」での取り組みがあったからこそ生まれた構想でしょうか?
- うん。
松島湾周辺のさまざまな活動が連動する仕組みを残したい
- これからの「つながる湾プロジェクト」の展望は? ASTTの事業としては2020年度がひと区切りとも言われていますが。
- 最終的に湾の絵本を作りたいというイメージを持ってる。地元の子どもたちが繰り返し読んで、このエリアに受け継がれている文化や歴史を吸収できるような絵本。その子たちが大きくなって土地の文化を感じたときに、小さい頃に読んだ絵本の物語と再会するような感覚になったら面白いと思う。
- 面白いですね。それから、2018年からは「湾をめぐるパスポート」と「文化交流市場」を実施していますね。
- これまでは、企画ごとに松島湾域のどこかの場所を選んで活動してきた。でもプロジェクトの終わりを意識するようになって、エリア全体が連動するような仕掛けを作りたいという話になって、その試みとして2018年度から「湾をめぐるパスポート」と「文化交流市場」を始めた。湾域でさまざまな活動をしている人や団体をコーディネートすることで、年間を通じてこのエリアを楽しめるような体制を作っておきたい。2018年度の「文化交流市場」のトークイベントにたくさん人が参加してくれてアイディアがあふれたとき、それができそうな可能性を感じたね。
- トークイベント、盛り上がりました。
- 2019年2月の「文化交流市場」のトークイベントの様子。壇上右端が大沼
- あとは、勉強会を再開したらいいんじゃないかな。2013年、2014年と同じ内容でもいいから。新しく関わってくれる人を増やしたい。子ども勉強会みたいなのもいいと思う。ハゼの数珠釣りの講習会とか。
- たしかに名人の技は子どもたちに伝えたい。
- うん。そして、勉強会スタイルで多くの人に向けて伝えることを続ければ、文化交流市場に参加する人も増えていく。文化交流市場の規模がある程度大きくなると、湾域で何かの活動をしている人がどんどん集まってくるようになるんじゃないかな。そして、それぞれの活動がいつ頃あるのかというのがわかるように「湾をめぐるパスポート」の中に蓄積していけば、パスポートを使って一年中、松島湾エリアを楽しんでもらえるようになる。
- その流れに多くの人が関わってくれるようになるきっかけの一つとして、勉強会を開催して、関心を持つ人を増やしたいと。
- そういう形にもっていきたいね。
- インタビュー日:2019年10月4日
- インタビュー・まとめ:加藤貴伸