佐藤 李青 / 嘉原 妙

佐藤 李青、嘉原 妙
佐藤 李青 / 嘉原 妙
Risei Sato / Tae Yoshihara
アーツカウンシル東京
プログラムオフィサー

インタビュアー:谷津

谷津
(李青さんの振り返りシートを見ると)最初と最後だけに二重丸とコメントがついていて、間が無いなと思って。
佐藤
3期ぐらいがあるなと思って。始まるときと、ある程度安定してきたときに「そもそもなんでやるの?」みたいな議論が出始めて、あとハゼ図鑑ができて以降の動き。だから間が逆にそんなに大きな動きとしては…無いというとあれだけど。
谷津
粛々とやっているような。
佐藤
粛々とやっている。けど、「それでどうなの?」みたいな議論が出てくる。
嘉原
私が初めて行ったのが2015年の「海辺の記憶をたどる旅展(多レ賀城)」が1人で初めて行って、そこで谷津さんとも初めてお会いしたんですよね。その後、2016年の1月〜3月は李青さんが育休でお休みで、2016年に復帰して5月くらいに打ち合わせに行ったというところからが、私が見えている風景。それ以前は李青さんのみぞ知るという感じですね。だから李青さんがいう3つに分けられるというところの2つめと3つめの間くらいからという感じですかね。
谷津
その打ち合わせってアイランズコートでやったやつですか?まだかな?
佐藤
全員で会った夜のやつはすごく覚えてる。ビルドで帰らなきゃいけない工程で組んでて。ハゼ図鑑を作る意味みたいなのを議論していて、あのときはけっこう人数がいた。
嘉原
全員揃っていたと思う。
佐藤
ハゼ図鑑をどう使うかっていったときに教育的にこれからの世代の人に伝えたいみたいな話が出てきて。というので「つながる湾なんでやってんだっけ?」みたいな確認をしたっていうのはすごい覚えている、転換点的に。「図鑑を作ってどうする?」みたいな話をしていた。大沼さんがけっこう軸になった会。それ終わった後に谷津さんが「大沼くんがすごい語ってたのがよかった」みたいな話をしていたのを覚えてます。
谷津
そうなんですよ。初期の頃は大沼くんが中心な感じじゃなかったんですよ。本人は今も「代表は便宜上やってるだけだ」とか言ってますけど。大沼くんがどうしたいかになったのが今のつながる湾なんですよね。一番最初、来たばっかりの時は、どんな風に見ていたんですか?
佐藤
最初は高田さんとの出会いがあって。谷津さんともそうだったんですけど、協議会が最初にあったじゃないですか。宮城県全体でどうやるかという委員的なメンバーで高田さんに入ってもらって初めてお会いして。そこでの話は委員の人が「こういうのが必要だ」って企画を出したりして始まっていて、その時に高田さんが伊保石の仮設の話をしたんです。高田さんがもともと伊保石には通っていたんですよね。飛び出すビルドのチームで。その話で塩竈のプログラムをやることになったのが一番始まり。その時は伊保石の仮設住宅でやっていることに後追い的に関わっていくみたいなところがあって。それにえぜるの山田さんが関わっていて、そこから浦戸の話が出たんですよね。浦戸が支援を必要としていたり、被災の状況がひどいから行ってみよう、ってなって行ったのが始まりですね。で1回行って、その後にいろんな人と行ったのかな?浦戸のリサーチプロジェクトみたいなものにしようっていって、2012年度にリサーチプログラムみたいなのを立てて。
谷津
8/12の浦戸寒風沢リサーチっていうのは李青さんと森さんも一緒に行ってる。この時は少人数で行ってて、12/17に日比野さん五十嵐さん山城さんと行ってるんです。
佐藤
そうだね。で、浦戸諸島サーチプロジェクトっていうのをやった。もともとこの時期都内で三宅島大学をやっていて、その時もいろんな人と一緒にリサーチとして島に行くみたいなことをやってて、そういうイメージもあっていろんな人ととりあえずその場所に行ってみようというのがあって。日比野さんとか五十嵐さんは釜石に入ったりしてたのかな?2011年の冬頃に五十嵐さんは釜石に行ったりとか、日比野さんはこよみのよぶねで東北に入ってたり。山城さんは福島にも入っていたりして、飯舘村とか。そのつながりもあってこのメンバーだったのかな。とりあえず行くっていうのでみんなで現地を見に行って、夜にビルドでプレゼンしてましたよね、日比野さんが種船の話をしたりとか。
谷津
そうですそうです。五十嵐さんと山城さんもそれぞれにどういうプロジェクトをしてきたのか話をしてもらったんですね。
佐藤
そこに興味ありそうな人に高田さんに声かけてもらったのかな。で、いろんな人が聞きに来てた、10人くらい。
谷津
その中に津川さんがいたんですよね。
佐藤
この時津川さんとそんなに面識はなかった気がします。今から考えれば「津川さんいたんだ」っていうくらいの状況。
谷津
いたんだっていううらいの感じか。
佐藤
その後別に会いに行ってるから。
谷津
それが仙台で打ち合わせしたやつですよね。でもこの12月からのりフェスまでの間のところで津川さんが李青さんたちもいる時に「湾の駅」の話をしたんですよ。それで「そのコンセプトだね」という話になった。
佐藤
ああ。12/17の時に日比野さんが話をした後に津川さんが話をした気がしますね。湾の駅のポストカードかなんか持ってて、それで「これだ」みたいになったんですよね。日比野さんがけっこう反応してた。で、なんとなくそれまで塩竈の話だったのが浦戸っていうことでもう少しエリアの話になった。
谷津
浦戸をどうとらえるかみたいな感じだったんですよね。最初高田さんが浦戸でやりたいと言っていたのは、山田さんから受けた話で寒風沢のお祭りを復活させたいんだけど、道具が全部流されてしまって何もできないっていう話があって、それに対して高田さんのつながりのあるアーティストでお祭りの道具的なものを作って、一緒に気持ちを盛り上げることをやりたいということを最初言っていたんですよ。で、8月の最初の内部でのリサーチをした時に森さんから「一島だけでやっちゃ駄目だ」という話があって。「こういうところは寒風沢島だけに支援をするんじゃなくて全体で見ていかないと」っていう話があったんですよ。それで12月のリサーチプロジェクトを組み立てていくことになるんですけど、高田さんがすごい拒否反応だったんですよ、ここ(笑)それはどういう風に見えていたのかなっていうことがあるんですけど。
佐藤
総じてその3期って高田さんの変化と関わってますよね。どう関わればいいかっていうのがある時期があって、津川さんが入ってくることによってある程度プログラムが出て来たりどうしようかって模索する時期があって、高田さんは美術館が忙しくなって少し下がる時期があって、ハゼ図鑑ができるっていうくらいで大沼さんが出てきて、高田さんや津川さんがすごく忙しくなってるんだけど、やる位置が逆にできたみたいな感じのが今になってて。最初はなんだろう?忙しかったっていうのもたぶんあるんじゃないですか?
谷津
そうですね。物理的な忙しさっていうのもあるでしょうけど、マインド的にたぶん、震災があっていろんな話が来ていたんですよね、高田さんのところに。それでもういっぱいいっぱいになっていたっていうのがあって、それに対応するのに。自分自身もまだ落ち着いていない状況なんだけど、そうやって外から来たものに対応しなくちゃいけなくてっていうのがあって。で、浦戸の話も地元から要望があったからやりたいということで希望を出したのに「私は浦戸を全部なんてやれないしやるって言ってない」みたいな感じがあったんですよね最初。
佐藤
「アート側のことはできるけど地域側のことはできない」っていう話をしていて。それはたぶん地域側の要請に応えたことで大変だったんだろうなっていう感じもあったんですよね。震災があって、いろんな地域の関わりの中でいろんな要望を受けてそれに対応していたことによってなんか嫌なことがけっこうあったんだろうなっていうのもたぶんあってそれができない。自分自身がアートの軸でやってきた+やりたくないっていうのはやりたくない経験があったんだろうなっていう感じはしてた。かつ、わけわかんない話が来てるっていう感じもあったからその戸惑いも大きいけれど、地域の状況的にそういうのも受け入れた方がいいんだろうなという感じ。だから地域側の視点があったからギリギリ話を聞いていた状態はあるけど、内容的にはぜんぜん必要としていないというか、なぜ今それが必要なのかとか…ここで日比野さんたちが来てアーティストとしてやることの意味も腑に落ちていないというか「それは違うんじゃないか」みたいなことも思っていたんじゃないかなあと。でもそれこそ船が来るということになっても「駐車場に置いていいですよ」となったりとか。受け入れるというか受け入れざるを得ない状況だったんだろうねきっと。

16:51
谷津
いろいろなものを受け入れているものの一つという風にたぶんとらえていたんすよね。だから自分たちが企画するという感覚は無くて。
佐藤
一人で全部できないといったときに「じゃあ、そっち側ができる人と一緒にやればいいんじゃない?」みたいな話になって、地域側のことをできる人って誰って言ったらじゃあ津川さんということになって、会いに行ったんですよね、津川さんに。仙台のアエルで会って。
谷津
この時の夜の打ち合わせに津川さんを呼ぶの自体、高田さんに地域側のことを話せる人って誰ですかと聞いて津川さんの名前が出てきて津川さんを呼んでるんですよここに。「まちづくりはやらない」ということをずっと言ってて。この日の夜、私すごくいたたまれない気持ちだったのを覚えてるんですけど。
佐藤
あの会、なかなかでしたよね。みんながどういう気持ちでいたらいいかわからない状態が聞き手の方ではあって。なんで日比野さんのプレゼンを聞かなきゃいけないんだろう?みたいな。
谷津
「この会は何の会なんだろう?」みたいな感じがあり。でも森さんは高田さんに「仕切って」みたいな感じがあって、高田さんは「なんで私が仕切るんだろう」っていう感じで。
佐藤
あれはなんだったんですかね(笑)単純にリサーチだけじゃなくてそれを共有するのが必要でやったんだろうけど。なんで高田さんあんなに人を集められたんですかね。
谷津
あの時ほかに誰がいたか覚えてないんですよね。誰がいたんだろう?
佐藤
喜多さんはまだいないですよね。
谷津
喜多さんはまだいないんじゃないかな。うん、いないと思う。
佐藤
なんか人いっぱいいるなって思ってたんですよね。(写真を探す)ほらいっぱいいますよ。
谷津
ああ…徳和さんとかいるんだ。千田優太くんもいる。
佐藤
関本さんもいる。里村さんいる。いろんな人がいる。
谷津
まあでもそうか…これあゆみちゃんだし、やっぱりあれですね、震災がらみで動いてた人たちですね。地元メンバーというよりはビルドと一緒に動いていた人だったり外から入ってきた人だったりという感じですね。後の方のつながる湾のメンバーってほとんどここにはいなくて。寒かったですよねこの時。寒かったなあという記憶が。
佐藤
このとき種船の話はしてるけど、種船持ってくるって話はまだ出てなかった気がするんですよ。六本木アートナイトがあって、種船が展示されて、それをどうするってなった時に塩竈に持って行けばいいんじゃない?っていう話が来て。で、そういう話があるんですけどどうですか?って高田さんに電話した覚えがある。そしたら「駐車場に置けます」っていう話があって、そうすか、みたいな。駐車場に置けるらしいですって言って。置いていいですみたいな感じだったんですよね。で、種船が行く。舞鶴でちょうど新潟まで行って、そのときに寄港地に寄りながらワークショップを重ねながらみたいなのをずっとやってたから、そのイメージで湾内を種船が動いて島で交流を作っていく動きができたらいいんじゃない?みたいな。
谷津
その話はたぶんのりフェスの後にしたんですよね。
佐藤
船があるっていったときに「のりフェスがあるんだけど出せない?」みたいな話が高田さんから出て。
谷津
そうそう、盛り上げるためにみたいな感じだったんですよね。
佐藤
あるんだったら動かそうみたいな感じで始まった。そこに舞鶴チームとかも行くんだね。それで実質スタートするのかな。
谷津
この時もかなり高田さんは戸惑ってました。
佐藤
いや、誰もが戸惑いましたよ(笑)船があって船動かすって言って。駐車場からどうやって船を海まで出すんだとか、そういうのも高田さんがやってたと思うんで。
谷津
この時もう、ASTTの予算で事業をやるっていう話になってたんですよね。高田さんはアーティストの作品を受け入れて盛り上げるみたいな認識だったので、私はASTTの趣旨を一生懸命説明しようと一応していて、高田さんがのりフェスのときに「華やかにするためにペナントを作りたい」みたいな話をしていて、「それだとちょっと予算の使い方としてまずいです」みたいな話をしていた覚えがあるので。
佐藤
「のりフェスに参加すること自体がどうなんだ」みたいな話も種船側であったような…どうだったんだろう。でものりフェスで挨拶とかしていましたよね、森真理子さんが。
谷津
していた気がします。
佐藤
で、喜多さんがいたのか。
谷津
その時運転してたのは五十嵐さんだったんですよね。まだ喜多さんが船長になってなくて、その時は五十嵐さんで、その後に日比野さんが喜多さんに「お前船長やれ」みたいなことを言って。
佐藤
そうですね、この時来てて、喜多さん。この日の夜か、次の日27日の昼とかかな。ご飯食べてて「お前残れ」みたいな。日比野さんがそれを言うっていうのはみんな知ってて。
谷津
知ってたんだ(笑)
佐藤
「お前は残れ」みたいな。「いよいよ腰を据えてやるときだぞ」みたいなことを喜多さんに言ったタイミングがこのときで、その後に喜多さんが金沢から車でやってくるんですよね。それで船長が喜多さんに交代した。で、喜多さんが回って宝箱をやってお茶っこをやるみたいなことをやってた。船関係は舞鶴側が動かしていたっていうのはあると思う。で、高田さんはあくまで受け入れみたいな状態で。で、五十嵐さんが「そらあみ」を始めたのか?
谷津
そうです。種船を浦戸巡回するっていうのと同時に「そらあみ」もやってたんです。五十嵐邸に五十嵐さんと喜多さんが滞在して、真理子さんたちも後から来て共同生活をみんなでしながら。
佐藤
五十嵐邸も高田さんが。
谷津
そうそう、用意してましたね。
佐藤
まあ、とにかくひどかったよねこの時期はほんとに。「なんでこんなことするんだろう?」みたいな。
嘉原
どういう意味ですか?
佐藤
いつもの感じだよ日比野さんと森さんの。とりあえずやっちゃえみたいな。
嘉原
みんなそれに巻き込まれててんやわんやする。「この動きはどこに向かうんだろう」ってみんな思いながら、あのお二人の圧力に…。
佐藤
単純にすごく重荷だったと思いますよね。船来て、船動かしたこともないのに動かすって。それで喜多さんが住み着くみたいな話になり。
谷津
そしてやたら「浦戸のことみんな分かってない!」って熱く語って回るみたいな(笑)
佐藤
ややこしいと思ってたら舞鶴チームが乳飲み子を抱えて一家がやってくるみたいな(笑)長期滞在するには家が必要だとか、船動かすにはあれ必要だってなって高田さん動いてたけど、「なんのためにやってるんだろう」と思ってるんだろうなあって。
谷津
って思ってたんですね(笑)
佐藤
あれは大変でしたよね。あの状況だから逆にできたのかもしれないけど。今思えばあの動きが無ければ始まってないからね。…って後からは言えるけどあの時はほんとにもう…。でもまあ、喜多さんとか五十嵐さんが長く現地にいる状態で何かをやっているっていうので、人と人が知り合う状況ができて、やってることどうこうより、喜多さんと高田さんの関係ができて、五十嵐さんと高田さんの関係ができて変わっていくっていうのはあったんじゃないですかね。
嘉原
長くいるっていうのはどれくらいの期間?
谷津
一ヶ月くらいいましたよ。一ヶ月ずっと種船を4島に滞在させるっていうのをやってたんです。こういうカレンダーを作ってこの日はどこの島にいるよ、っていう風にやってたんですよ。波止場でカフェをやり、その横でそらあみをやってるっていうのを一ヶ月間やり続けていた。その企画ってどうやって決まったんですかね?
佐藤
喜多さんが考えてて、舞鶴チームも入って?動き出したんでしたっけ。このとき日本財団のお金も入ってるからtorindのプログラムでもあって。
谷津
そうですね。種船側の動きはtorindがやってるっていう組み立てだったのかな。
佐藤
そういう組み立てにすることによって心理的な負担を減らすというところがあったんじゃないですか、高田さんが全部やると大変だから。船のことはtorindがやるんで、ただ五十嵐さんが滞在するからその準備はよろしくみたいな。現地側の動きと船側の動きは分けて動いていた気がします。
谷津
よくあるパターンなんですね(笑)
嘉原
あのお二人が揃う時の醸す何かがありますよね。そうなるよね、っていうのは想像できる。 だから、大変だったんだなあと(笑)私はいませんでしたけど。
佐藤
他にやり方があったのかな?高田さんから提案は出てましたよね、寒風沢のやつとか。でも「そうじゃない」と言われて。そうじゃないっていうのがなんなんだろうなっていうのが一番ネックになってたんだろうな、双方にとって。で、五十嵐さんが入ってそらあみやって、三宅島の帰島式があって。それに高田さんが参加してけっこう変わったみたいなこと言ってましたもんね。「そらあみをやってわかった」みたいな。
谷津
五十嵐さんとの出会いがすごく大きかったみたいですね。
佐藤
この頃は五十嵐さんいっぱい行ってましたからね。長く滞在して。
谷津
一方で勉強会もけっこう大きかったんですよ。
佐藤
ああ。
谷津
津川さんが全部講師を引っ張ってきてるんですよ。勉強会がみんな「面白い!」ってなって。 高田さん自身も、高田家のルーツとつながる話みたいなのがあって、すごく盛り上がってたんですよね。自分たちの地域の知らなかったことを知るっていうので。その表現方法の実践として五十嵐さんの手法があって、という感じだったんだと思うんですけど。
佐藤
語り継ぎのためのリーディングは 高田さんが軸でやってやつですよね。
谷津
そうです。この勉強会で感銘を受けたことについてちゃんと伝わる形で伝えるにはどうしたらいいかってことで高田さんが考えたのがリーディングだったんですよね。
佐藤
この時に今のプログラムの要素は出てたんですね。
谷津
そうです。今もここでやったことをどうプログラムにするかという話なので、ネタは全部この時に出てるという感じです。
佐藤
で、船と喜多さんだけが残る。3年前まではくろしおアリーナにあって。さいたまの時に移動したから。喜多さんはまだいるけど。いるのか?
谷津
喜多さんは、七ヶ浜にいる。プログラムとしては初年度しかやってないけど。
佐藤
プログラムとしては、舞鶴側の動きも終わるから。で、次の年にその要素を使って何やるかみたいな話になって、そらあみは継続して、勉強会と語り継ぎをやるという。ここから「そらあみ」3島シリーズも展開される。
谷津
松島やって、多賀城。そこまでですね、そらあみが。
佐藤
旅展は…
谷津
松島のそらあみをやった年からですね。2014年度。
佐藤
どこでやったんでしたっけ?
谷津
美術館です。
佐藤
2014年度はもう美術館があるのか。この年、旅展くらいしか行ってないんじゃないかな。
谷津
そうなんでしたっけ?14年度?
佐藤
旅展がすごくいい感じだったんですよね。こういう感じで展示ができるのかっていう。すごく覚えてますね。
谷津
2014年度はすごく関わってる人が多かった印象なんですよ。みんなでやれてたっていう感じで。大沼くんはその時の感じがいいということを言ってるんですけど。ツアーをやってるんですよね8月に。一回しかできなかったけど、そのツアーがけっこうよかった。勉強会で学んだことを活かして、観光視点ではなく浦戸をめぐるっていうツアーを企画して、それぞれの役割を果たすことができたんですよね。この時リーディングは高田さんが担当して、島出身の子にリーティングを外川屋さんでしてもらい、あゆみちゃんにも案内をしてもらい、土見くんにも寒風沢の縛り地蔵だとかの解説をしてもらい、牡蠣漁師さんの船にも乗り、最後にタイムカプセルを沈める。みんなで学んだことを活かしてみんなで作ることができたツアーっていう感じだったんですよこれが。
佐藤
いろんなプログラムのバリエーションをわーっとやっていた時期ですよね。それによって分業制が生まれていくっていう。で、その後停滞期に入っていったという。誰が何やるみたいな。やることが決まってくるから分かれていく感じがあったのかな。いろいろやってますよね。アサヒにも参加したりとか、喜多さんが写真展やったりとか、いろんな展開が一気に広がっていった感じかな。その感じが旅展にも出ていた感じだったんですよね、雰囲気みたいなのが。やったことを報告っていうよりも楽しんでやっている雰囲気があった。
谷津
「こういうのもやれるね、こういうのもやれるね」というのが盛り上がっていた時ですね。旅展は篠塚くん発案というか、篠塚くん中心でやってた。
佐藤
この年は展示がいちばん記憶に残ってるな。
谷津
最初の旅展。
佐藤
なんかつながる湾のトーンみたいな。なんだろう、なんか、なんですかね、なんて言うんだろうな。楽しんでる。ある程度の年度の集大成の展示ですっていった時に、こういう風にやりましたっていう記録的なものの見せ方でもなく、こういう作品ができましたという見せ方でもなく、関わった人がその活動のトーンとか楽しみ方というか、感覚的なものが共感を生むような場の作り方だと思って。あの展示を見に行くこと自体が、つながる湾プロジェクトを知るっていうよりもつながる湾プロジェクトに参加している感じが出るし。今につながる「つながる湾とは何か」みたいなこと。自分たちが住んでいるエリアを再び発見していく楽しみがあったり、それを人と共有するための技術を持っていたりみたいなところが。

(47:26)
谷津
すごろくと、種船の宝物展示とかやりましたね。でも今と比べるとコンテンツ少ないのかも。トークをやったり。五十嵐さんと津川さんと佐藤綾さんでトークしてますねこの時は。
佐藤
この年あんまり行ってないから日帰りで行ってるんですよね確か。行ってよかったなあって思ったのはあって。「行ってないからさすがに行かなきゃ」みたいな気持ちでたぶん行った。なんだろうね、あのつながる湾の感じ。作ってることを楽しんでいる感じみたいな。自分たちの住んでいるエリアのことを知って発見している楽しみみたいなものが提示されているんだけど、それが、なんて言えばいいんだろう、あの感じ。作っていることを楽しんでいるような。ものを作ったりする技術ってこういう風に使うものだなって思った。その技術は何かをスマートにきっちり伝えるいう技術としても使えるんだけど「何かを作れるっていうのは楽しいことだなあ」みたいな感じがすごくする。すごろくとか作っちゃうわけじゃないですか。エリアのこと、学んだことをわかりやすくデザインしてレイアウトして伝えればいいんだけど、それをすごろくを作ることによって伝えるっていうのは、楽しいじゃないですか(笑)すごろくをする楽しみというよりも、「すごろくを作ることって楽しいよね」みたいな感じをつながる湾のメンバーは持ってる気がするんですよね。その人が持っている技術があって表現することによってこういうことができるよみたいな。学んだことを伝えるためにやっているというよりも、伝えるためにはこういうやり方があるんだよみたいなことを、作ることによって見せられてるから。作ったことによって伝えるっていうよりも、作ることそのものを提示されている感じがある気がする。「地域のこと面白いと思ったらすごろく作ればいいのか」みたいな、「自分だったら何を作れるかな」と考えたりとか、そういうところがある気がする。みんなそれぞれに表現の技術を持ってるじゃないですか。そのあと図鑑を作ったりもそうだけど。だから展示に行っても「人がいる」感じがするのかな。
谷津
それは他の現場では無いことなんですか?
佐藤
あることもあります。けど、「こういうのがあるといいな」ってすごく思ってますね。旅展に行ったときに「こういうことだよな」って思った。他の現場でもやろうとしてることは同じだったりするんだけど、ああいうアウトプットにならなかったり、ああいう場の雰囲気にならないことが多くて。あれを見た時に、同じようなことをやろうとしている人たちはこういう風になればいいだろうし、これを見て欲しいなってすごく思った。つながる湾がやっている活動とか人たちを他の人と共有したい感じがありますね。会津の人とトークしたじゃないですか。ああいう感じで、他の現場を見ているときに ああいう感じでつながる湾の活動を知るといいのになって思うことがけっこうある気がします。あそこに集まっている人達の関係性とか、ああいう人たちがいて、地域のことを考えながら活動しているっていうこと。すごろくがいいです、図鑑がいいです、というよりも、すごろくを作っている人とか、こうやって図鑑を作っちゃう人たちがいるとか、そういう人たちが複数人集まって何かやろうとしているみたいなところが、他のエリアでも必要なんだけどなかなか生まれにくいような感じもしていて、それはなんなんだろうって思う。ワクワク感がありつつも少し時間が経つとそれぞれに分業していって、少しビジネスライクになっていく感じとか、そういうリアリティとかも含めて(笑)つながる湾の活動にそうやって継続的に触れていることによって他のエリアでの活動とか都内でやってる事業を見ている時に「ああ、これあのビジネスライクになってるやつだ」って思ったりとか(笑)
谷津
そうなんだ!先行事例ですね(笑)
佐藤
だから他のエリアでつながる湾の話をすることが多い気がします。「つながる湾で言えばあれか」みたいな。「高田さんの拒否感のやつか」「津川さんと出会わなきゃダメか」みたいな。
谷津
へー!
佐藤
その感じはあるかな。
谷津
他のエリアではどういうところがうまくいかないんですかね?自分たちで表現する主体性が出て来ない?
佐藤
んなんだろうな。うーん…。つながる湾は、ドキュメントブックを作ったり、視覚的にいいもの、デザインの力みたいなのをすごく持ってるじゃないですか。そういうのはあるけど、それとは別に、なんだろうな、やっぱりいろんな人がいる?
谷津
それは、私見ていて、つながる湾自体の力っていうよりは塩竈の地域の力な気がするんですよね。
佐藤
それはある気がします。エリア特性みたいなものがあるかもしれない。
谷津
高田さんや篠塚くんがやっていることを塩竈みたいな土壌が無いところに持って行ってやってもたぶんああいう風にはならないかなという感じはある。
佐藤
うん。つながる湾だからっていうよりも、つながる湾以外での地域の関係とか、それぞれが持っているものによってつながる湾が生まれている感じもする。つながる湾の経験があったからそういう場ができたっていうよりも。
谷津
ただ、デザイン力だったり、すごろくもあいいう風にかわいく作るとか、そういうのができる人っていうのが普通はそんなに地域にいなくて。それがある程度の数集まって存在していたっていうのは高田さんがやってきたことの成果だと思います。それに加えてもともとの塩竈のお祭り好きな気質もあって…あ、でもそれも震災があったのも大きいって言っていたような気もするんですけど。
佐藤
震災をきっかけに地域のことを知ろうとか、もう少し自分たちの足元をみてみるという動機はあったと思うんですよ。かつそれぞれに技術を持っている人が集まっているっていうのもある。 で、意外とアートっていう言葉を使ってたのも重要なのかなと思って。デザインで作るって言ったらきちんとプロダクト作ることもできるわけじゃないですか。でもアートっていう言葉があることによってちょっとずれたやり方をやったりとか。すごくかっこいいデザインで作ってるんだけど、プロダクトを作るために力を使ってないみたいな。ちょっとずれるというか。そういうところは一応アートという言葉を使って場があることによって、何かがズレていったり、ずれることを意識したりっていうのはある気がする。だから津川さんにとっては知らない場になってるけど、そこにいる人達のことはもともと知ってるわけじゃないですか。その場で何か違うことをしようとしたり、理解できないものに関わろうと思えたりするのは、「アート」っていう言葉で作っている場ですよみたいなのが、無意識的にも影響を与えているんじゃないかなとか。
谷津
津川さんはそこは言ってますよね。「アートっていうのはきれいなデザインのことだと思ってた」と。
佐藤
つながる湾のやっていることは、「地域でデザイン力を使った良い事例」みたいな言い方もできる気がするんだけど、それとも違う感じがしてて。そのズレ方って何なんだろうなって思ったときに、そこはあるんじゃないかと。
谷津
つながる湾以外の人から「無駄におしゃれだよね」と言われたことがあります(笑)「やってることはすごく地味なんだけど、ああいう風にかっこよく見せられるとよく見えるよね」と言われたことがある。
佐藤
そこにこだわるのも強みなんじゃないですか。そここだわるじゃないですか、最終的に。アウトプットにすごくこだわる。それけっこう重要な気がする。
嘉原
そこにはちゃんとつながる湾の美学があるんじゃないですか。ここは絶対譲れませんみたいな。
佐藤
そこあがあるから、逆にわかりにくいものに対するハードルの高さみたいなのも出てくるのかもね。最初の「そらあみとかなんでやるの?」みたいな。アウトプットが見えないものに対して。地域のことを深く知るという強い動機がある一方でアウトプットのクオリティは一定以上保つことへのこだわり。じゃなきゃハゼ図鑑なんてできないですよね。この熱量でこの形に。
嘉原
これすごいですよ。熱量のあるものって知らない人がいちばん惹かれて手にとって」「欲しい」って言われる。あげると喜ばれる。スタッフも毎年楽しみにしてます、「今年はなんですか?」って。でもつな湾の良さというか強みだなって思うのが、クオリティを保つことに背伸びをしていないのがすごく強みだなと思う。デザインに対して。いわゆるデザインでまちづくりをしているところのアウトプットって私はどうしてもちょっと無理している感じがする。でも、つな湾でできてきているものはそれぞれのフィールドでやってきているから技術は確固としてあって、それをちゃんとこのプロジェクトだったらこうだよねとか、この水準は絶対ずらしたくないというせめぎあいの中でちゃんと作っている感じがして、だから無理している感じが無いんですよね、作ってきたものに。
佐藤
それはやっぱり、そこで暮らしていたり、自分が実際に体験したものを伝えるっていうリアリティが裏付けとしてあるからな気がする。
谷津
そうですね。外から来た「デザインができる人」じゃないっていうのはありますよね。
佐藤
みんなこだわり強いですよね。
嘉原
すごくいいことですよね。そうじゃないとどんどんブレブレになっちゃうから。

(1:06:15)
谷津
初期の混沌から最初の旅展にいたるプロセスは、李青さんから見ると納得感はあるんですか?
佐藤
なんでそうなったか?今から見れば「あの時これがこうなって」って理解できるけど、その時どう思ってたかな?今、宮城県て「つながる湾」一つになってるけど、最初は事業が複数あったからね。だからちょっと見え方も違ったんだと思う。
谷津
2014まであったのかな、他のプログラム。
佐藤
美術館ができて高田さんが忙しくなって。
嘉原
私が関わり始めてから、喜多さんてお会いしたことない。
谷津
そうなんだ!
嘉原
ある意味フィクションなんです(笑)いろいろ打ち合わせで名前は出てくるけど、お会いしたこと無いんです。2015年12月以降、出会ってない。打ち合わせにも来てないし。
谷津
うん、打ち合わせは来てないです。
嘉原
ちょうど私が入って話し合いが始まった時期ってつな湾の関わっている人の固定化に対するこれでいいんだろうかみたいな話が出始めていて、どうすれば立ち上げの頃から関わっていた人と新たにまだ出会ってない人と関わってこのプロジェクトをしていくのがいいんだろう、みたいな話し合いが私が入った頃から始まった感じでした。2014から2015にそういうグラデーションがあったのかなと。
佐藤
全体のつながる湾何やっていくかみたいなところは、初年度は種船があってそこにどう向き合うかっていうのがあったけど、2年め以降はそれぞれプログラムが出てきて、一個一個はどういう風にやるかを理論するっていうよりも 一個一個はクオリティ高くプログラムが立ち上がってくるから、そこの議論はあまりなかったような気がするんですよね。紆余曲折はなかった気がする。
谷津
みんな形にしたいものをとりあえず形にしていくっていう時期でしたよね。
嘉原
得意だからね。
佐藤
やらなきゃいけないものはなくなってやりたいものをやれる状態。浦戸でやるとか方向性のベースはあったから、その上でプログラムをばばばっと作るという感じ。立ち上がってくるプログラム自体はどうしようかって言ってるっていうよりもどんどんできる状態があるから、ここで議論したりっていうのがあんまり無かったんじゃないかな。だからあんまり来てないし、記憶もないっていうのがある気がする。
谷津
その状況に対してはどう思ってたんですか?
佐藤
展開的に新しいことをやっているわけではないわけではないですもんね。つながる湾のメンバーがより主体的に作ってるなあ、くらいの感じじゃないかな。
谷津
やっていることの趣旨はいいですもんね、コンセプトとか表現方法とか。
佐藤
一個一個やってることはわかりやすいといえばわかりやすいので何やってるか想像できた。 旅展に行って「こういう感じだったのか」って体感として理解することの幅はすごく大きかったけど。あんまり大局的な話をした記憶がない。そんな気がするな。

(1:13:10)
谷津
そうですね。2014年がいちばん、放って置いてもどんどん「これやります」「これやります」が出てくる状態だった。
佐藤
だからむしろそれで位置づけをどうするか、どう整理するかという話の方が多かった。アサヒに行ったやつをどういう風に経費的にやるかとか、そういうテクニカルなことが多かった。このときから体制どうするかっていう話してたのかな?この年はビルド・フルーガス+チガカゼが主催?運営委員会になったのは翌年から?津川さんと高田さんが忙しくなってきたり。
谷津
美術館もこの年かな?2014年度の最後にできたんですよね。それで、2014年の流れを引き継ぐ感じで2015年度はやってたんだけど、この熱量で同じようにプログラムをやり続けることができないよねっていう感じになってきていた。で、2015年度は五十嵐さん来られないってなって、 そもそも今までの流れはできないってなって。五十嵐さんが来られなくなったのが決定的な転換点だったかもしれない(笑)
佐藤
塩のリサーチまでやってたのにね。
谷津
そうそう、塩のリサーチやってた、大沼くんと。
嘉原
2015年から話が出てたんだと思うんですけど、2016年度に入った時に谷津さんの事務局一人体制の面が強い、負担大き過ぎやしないかみたいな体制の話が話されてましたね、打ち合わせの時に。事務手続きは谷津さんがやるけど、もっと他のメンバーに声をかけてやっていくといいんじゃないかみたいな話が出ていた。で、2016年の7月の時点で図鑑をやりたいっていう話が出ていた。地域の文化資源のリサーチを図鑑のような形にまとめる案が出たのが2016年の7月でした。
佐藤
この辺てだんだんみんな集まってミーティングしなくなった時ですよね。集まるのが難しくなって。それぞれやることは分担できるからってやってたんだけど、それはそれで逆に負担が増えるんじゃない?とか、それでいいのかみたいな。
谷津
そうですね。2015年度の最後から2016年度の最初の頃がいちばんそういう話があった時なんですよね。
嘉原
プロジェクトとしてどうしていこうかっていうのと、並行してそれを動かしていく体制をどう考えていくのかみたいな議論が始まった時期で、かつこの地域に根付かせていくというか、イベントというか自分たちが勉強会をしてきたけどもっと地域に還元していく仕組み、やり方を考えたいねという話が出ていて、そのアイディアの一つが図鑑で、「図書館にこういうのがあるといいんじゃないか」みたいな話が出たりとか、この時にも「ツアー開発できたらいいんじゃないか」っていう話も出ていた。
佐藤
大沼さんてどの辺なんでしたっけ。
谷津
それもここなんですよ。篠塚くんは気心の知れた人たちとガッと作りたいタイプなんですよ。でも大沼くんはいろんな人が関わってみんなと作れたのがよかったと言っていて。20142015あたりは篠塚くんがすごく引っ張っていたんですよ。デザインもそうだし、旅展自体も篠塚くんがやりたいって言ってやったり、タイムカプセルも作ったりしていて。図鑑の、最初にこういうものを作りたいっていったときに、大沼くんが「そういう風にやればクオリティが高いものができるのは目に見えてるけど、それはつながる湾らしくないんじゃないかみたいなことを言ったんですよ。いろんな人が関われる余地を作った方がいんじゃないかみたいなことを言ったのを私はすごく覚えていて。それまで大沼くんはそういう発言をしてなかった。どうするべきかみたいなことをそれまでぜんぜん言ってなかったんだけど、その時にそういうことを言うようになって、だから2016年から「松島湾とハゼ」が始まっているんですよ。大沼くんが完全に組み立てたプログラムっていうのが。
佐藤
アート側の高田さんとまちづくり側の津川さんが合わさってっていう形ではなく、「つながる湾って何するの?」みたいなことからつながる湾運営委員会ができた。物理的な理由もあったりするだろうけど。2015〜2016あたり。そもそもの話が出てくる。プログラムで行くっていうよりも、そういう会議をしにいくのがこの時期多かった気がします。この時期、他の事業もそうで、続けてきた事業が、やれることはある程度やれるし続けていけるんだけど「そもそもなんでこれやってるんだっけ?」みたいな議論をするのがこれくらいの時期に増えて。出張するのが初年度に近いくらいこの時期多かった気がします。かつそれは事業の現場に行くんじゃなくて、そもそもなんだっけ?みたいな話をするきっかけとして行くのが多かった気がする。
嘉原
そうですね。この時期って補助金が無くなるというような話を各地で聞き始めていた時期で どういう形で継続するのかしないのかとか、状況も大きく変わってくる転換の年だったなあという感じがします。私はすごくそういう変わり目の始まりの時に東北に通い始めたんだなあと思って。
佐藤
だから「なんでつながる湾やってるんだっけ」みたいな話をしていたのはすごく覚えてます。 「今、経験を伝えておかないとダメなんだ」みたいな話が出たりとか。
嘉原
あと、津川さんが「最初森さんと会ったときに言ってる意味がぜんぜん分からなかったんだけど、5〜6年経ってようやく分かってきたんだ」という話を聞いたのもこの辺りだった気がします。「なんか落ちてきたんだ」みたいな。あったような気がする。2016年はずっとそういう会議を重ねてたんですかね。
谷津
2016年の前半だと思いますね、そういう話をしていたのは。後半からはある意味分かれたんですよね。篠塚くんは図鑑を作っていて、大沼くんは松島湾とハゼをやっていて、高田さんは美術館が忙しくて、みたいな感じになったんですよ。
嘉原
会議で会うのは谷津さん、大沼さん、時々津川さんのイメージ。最初はみんないたんだけど だんだん役割分担ができてきて、打ち合わせする時も会う人が決まって、でもそれでもちゃんと動いていくみたいな感じだった。
佐藤
津川さんがこの辺から復活?
谷津
津川さんは自分では「俺は何もしてない」って言ってますけど、
嘉原
でも会議とかはいましたよね。
谷津
そうですね。呼んでたっていうか。プログラム自体にはタッチしてないけど、それは最初からそうといえばそうだったんですけど、勉強会以外ではプログラム自体にはタッチしてなかったんだけど、やっぱり津川さんの視点は必要としてたんですよ。最初から津川さんの視点があったことによってこの場が成立してたっていうのがあって、その役割を引き続き存在として果たしていた。津川さんがいることによってそこが担保されるみたいな。
佐藤
そして津川さんがアートの可能性を語り始める。そういう時期が始まる。大沼さんが軸になると、ハゼが出てきた。で、ハゼ図鑑を作る時に加藤さんが出てきて。
嘉原
ノックも同じ時ですね。
佐藤
一回振り返ったり取りまとめする時期が来て「そもそもなんでやってるんだっけ?」みたいなことをこれを作りながら確認しようみたいなところもあった。これを作ることでもう一回みんなで議論するみたいな。で、2016でハゼ図鑑をやった時に加藤さんが出てきて、あとがきで衝撃を受ける。
嘉原
覚えてますよ、初稿が来たときに向かい合って座ってたんですよ。李青さんが「あとがき読んだ?」って言われて。だからあとがきから先に読んだ記憶があります。だからよっぽど衝撃だったんだなと。
佐藤
「つながる湾の人が出てきた!」って思った。自分の土地で生まれて一回外に出て、帰って来たんだけど、もう一度その土地と出会い直していく。その出会い直すのが、図鑑を作るプロセスを経る中で出会い直していく。これ、つながる湾がやろうとしてたことに「本当にそういう人が出てきたんだな」っていう衝撃を受けたんですよ。つながる湾的な経験をする人というか。
谷津
最初はいなかった登場人物ですからね、加藤さんは。
佐藤
それによって、つながる湾がやろうとしていることがより実感としてわかったっていうのはあったと思う。ハゼ図鑑をなんで作るのかっていうのは、
嘉原
話し合ってたけど、地元の子どもたちが今暮らしている土地と出会っていく入り口にあるみたいなのがあったけど、でも出会い直すっていうのをまさに作っている本人が体感しているっていうのが本当にそうだなあと思って。
佐藤
それまで言葉で説明していたことを実感したっていう感じがある。こうやってハゼ図鑑を作ってその土地に住んでいる人達が自分たちの土地を知る、しかも若い人たちがそれを知るっていうのはすごく大事なことだし。それを次の世代に渡すために図鑑を作るとか、それはそうなんだけど。でも加藤さんがそもそもこれを作るプロセスとか、これが生まれるまでに経験していることが重要であるということが改めて分かったし、そのためにつながる湾プロジェクトというのをやっている。図鑑作るためにやってるわけじゃないから。結果、つながる湾はクオリティの高い共有可能なアウトプットは作るんだけど、大事なのはそこにいたるまでのプロセスを作っているっていうのがプロジェクトとしては大事だし、加藤さんまさにその人じゃん、て。「ごめんなさい」とか言ってるし。
嘉原
加藤さんの巻末エッセイ、いいですよね。牡蠣のやつも好きなんですよね。漁師さんに生牡蠣食べれないって告白するところとかすごくいい。
佐藤
こういうのをたくさんの人が読んで地域のことを知る人が増えるっていうのも大事なんだけど、実はこの図鑑を作るくらいのプロセスを1人の人が経験して、本当に生まれた場所ともう一回出会い直すっていうことがすごく大事だなってあらためて。ハゼのプログラムを作って200人がハゼを釣れるようになるのも大事だけど、1人の人がここまでして自分の経験を振り返ってハゼと出会い直したり、自分の住んでいる場所と出会い直したりする。それはそこの場所で自分が暮らす理由にもなっていったりするくらいの大きなことが起こっているっていうのが、そういったプロジェクトの事業をやることの大きな目的だったりも本当はするはずということをすごく実感した。それまでもそういうこと大事だよって説明することはできたけど「ああ、本当に大事なことだなあ」と思った。
谷津
藤崎さんもそうなんですよ。ノックの漫画で描いているんですけど。藤崎さんはまさに、つながる湾の「お客さん」ていうのとも違う、「仲間」って言うのもちょっと違うんだけど、「もっともつながる湾をちゃんと体験してくれた人」っていう感じ。
佐藤
津川さんがつながる湾に関わってどう変化したのかが知りたいっていうのも同じように大事な感じがするんですよね。津川さんが仕掛けているというよりも自分自身がつながる湾に関わって変わったっていうのが。加藤さんと同じような経験をしていて。
谷津
なるほど。でも今、李青さんが言った部分てそんなにメンバーは意識してないと思いますよ。篠塚くんとか高田さんもそこはそこまで意識してないですよ。
佐藤
そこまで言わせるためにあれを書いていたら相当あざといですよ(笑)
嘉原
それはそうだと思う。でも書いちゃうっていうのが、そこまでご本人がいってるから書けるっていうか。いろいろ思い出してるんだろうなと思って。今ある風景と、培われてきたことと、自分が数十年生きてきた時間が合わさっていくんだなっていうのが、毎回巻末エッセイを見ていて思うので。めちゃくちゃ実感のこもったエッセイでいいなって。一人のこういう経験が誰かの経験を違う形で呼び起こすし。象徴的ですよね。
谷津
アーツカウンシルのみなさんがこれを楽しみにしてくれているのって、そういうところも伝わってるんですかね?
佐藤
聞く反響は「これすごいですね」っていうことだけど、そこまでではない気がする。
谷津
みんなそれぞれ地元があったりするわけじゃないですか。五十嵐さんも「俺、千葉のこと何も知らない」って言ってたけど。津川さん自身も塩竈出身で仙台で働いてて、地元に対しての気持ちはあるんだけどどう関わったらいいのか分からないのがあったって言っていた、そういう、みんなが持ってるものを呼び起こすっていうのはあるんですかね、これに。
佐藤
「松島湾のハゼ図鑑」だからそうなんじゃないですか。「ハゼ図鑑」だったらそうはいかないかもしれない。どうなんだろうね。それぞれの個人の動機と紐付いているっていうのが大事なんじゃないですか。つながる湾にはそれがある気がする。
谷津
個人的な動機っていうところがありますよね。
佐藤
技術を駆使しているように見えて、その人にしかできないことをやってるっていうのがけっこう大きいのかもしれないですね。かっこよくまとめるのってデザイン的な処理でいったら、ハゼじゃなくても地域の何か面白いもの見つけてやればいいけど、大沼さんのハゼに対する想いがあるからハゼが選定されている。実はすべてにおいてそういうこだわりがある気ようながする。何かしらの。
谷津
そうですね。高田さんも若宮丸に対する愛はあるしね。
佐藤
対象への愛がある。「つながる湾ってなんなの?」って議論していたものが形になって、よりつながる湾てどういうものかっていうのが確認された感じがあるかな。そこがすごく大きいな。

(1:38:57)
谷津
そうすると、他のエリアで見ていた時に、なかなかそういう個人的な動機と地域のことと表現が一本につながっていくっていうのがなかなかできないということなんですかね?
佐藤
うーん…距離が近すぎるからそう見えてるのかな…大沼さんがハゼに対してどれだけの想いを持ってるか知ってるからハゼ図鑑を語れるけど、実はハゼ図鑑なるものは他にもいっぱいあって、そこまで見えてないからなのかもしれないけど。でも他にはなんで無いんだろうなっていうのはあるかな…。津川さんが言う「つながる湾に関わってどんな変化がありましたか」っていうのは、つながる湾の中での変化っていうよりも他のものの見え方が変わったっていうのがけっこう大きい気がします。他の場所でつながる湾のことを話するとか、それってそこで見ているものをつながる湾と比べて説明するっていうのは、自分の中の価値観が「それがいい」と実感したものになっていて、逆に他に行ったときに「そうなればいいのにな」って見るようになるっていうのはけっこう大きい変化だと思う。「つながる湾でいえば」みたいに考えたりするパターンが、自分たちのエリアで何かをやろうとしている人たちと会話している時にはよく思い出す気がします。その土地のことをもっと知ろうとか、そういう系の事業の話をしてる時は思い出す気がする。ぜんぜん土地と関係なくやるプロジェクトの場合はまた違うけど。それと、そういう時って、そこの人たちでどういう風にやっていくかっていうやり方が議論になる。どういうアーティストを呼んでくるかとか、何をプログラムとしてやるかというよりも、どういう人がいてどういう関係でやったらいいかっていうのがいちばん難しいところで、つながる湾の場合はそれが揃っている感じがするんですよね。だから最初に無理やりでもいいからこの事業をやるために高田さんと津川さんのダブルでスタートしたっていうのはけっこう大きかった気がする。その出会いっていうのが意外と他のエリアでは無い気がします。地域側でできる人が地域で集まっていて、アート側で知り合いになってる人にデザインを頼んでアウトプットを作るとかはあるけど、同じメンバーとして無理やりにでも同じテーブルを囲んで議論してアウトプットを作っているという状態ってあんまり無くて。それってさっきのクオリティの問題と同じで、作るプロセスを共有しながらアウトプットを作るっていうのは、分業で外に出してしまうとそこは共有できなくて、アウトプットの精度だけの依頼になっちゃうからデザインワークになっちゃうんだけど、そんなに会っていなくても同じ役割だって入ってる人たちの中で作られるものは違うんだな、とか。でもやっぱり忙しくて2ヶ月に1回くらいしか打ち合わせできないっていうのもあるよな、みたいな。それはできる人たちだからだというのもあるし。でもそれは狙ってできることじゃなくてそもそもあのメンバーだからっていうのは大きいよな。さっきの谷津さんの話じゃないけど土地と人みたいなのも大きい気がするから、一概にも言えないなとか。だから始め方はすごくバタバタしてたけど、無理矢理でもいいからやらなきゃいけないことがあることによって、人は自分が今までやらなかったことをやろうとするっていうのもあるなっていうのは今となってみれば思う。常に問題なのは、今まで自分がやったことがないことをやらないと他の人とやれないし新しいことって作れないと思うんですよ。それってやっぱり無理矢理何かが必要だったりして、自分が意思を持って違う人と出会おうと思ってもなかなか出会えなかったりする時に、バラバラの人が集まるために実践が必要で、これは震災という状況もあったし、都の事業が外から来たのもあって。普通の状態だったら「そんなのやらないです」って言ってたことも、被災の状況だったから、「とはいえ地域の何かになるかもしれない」って受け入れるみたいな、いろんな無理やりな状況があって、みんながやらざるを得ないからやってた状況もあった気がするんですよね最初。でも今となってみればそれがあったからいろいろな人が集まっている状態が生まれているような気もするなとか。「じゃあ平常時でそういう状況はどう作ればいいんだろう?」みたいな。無理やりやった方がいいのかなとか(笑)
谷津
「種船持ってけ」っていうのが必要なのかなとか(笑)
佐藤
とか考えたり(笑)そういう風に、地域で何かプロジェクトをやろうとした時の比較する例みたいなのを持つようになったという変化がけっこう大きいかもしれない。「つながる湾でいえば」って、口に出さずとも考えていることがけっこうある気がする。
谷津
李青さんは文プロに入る前から関わってたんですよね、地域アートプロジェクトには。それでもつながる湾ていうのが他のところでは語れないものになったと。
佐藤
究極の特殊例な感じもしますよね(笑)真似できないものでもあるような気がする。でもそれがあるからいろいろ考えられるっていうのもあるから。そうしようと思ってできるものでもない。アサヒアート行って津川さんが「違うな」って思ったって言ってたじゃないですか。その感じもわかるんですよ。アサヒみたいなアートを介した場だとしても違うって思うっていうのはわかる気がするけど。でもアサヒアートフェスに関わってるような人たちがつながる湾の実態を知ったらうらやましがるんだろうなっていう気がする。すごい存在みたいですけど(笑)地域における事業のファンタジスタみたいな(笑)
谷津
そうなんだ(笑)だから今、それをちゃんと仕組みにできるかっていうのが今っていうことなんですよね。誰もそんなこと意図してやってないから、つながる湾は。
佐藤
純粋に加藤さんみたいな人が出てくるっていうのが重要なんじゃないですか。
谷津
その状況を作り続けるためにはどうしたらいいのかっていうことだったんですよね。だからこの辺の2014〜2015くらいまでの時期は、メンバーが個人的な興味と動機からプログラムを作ることをひたすらやるみたいな流れだったんだけど、それはきついよねと。それをずっと作り続ける運営体制は作れないよねっていうことだったんですよね、ずっと。それが、じゃあもうちょっと、松島湾に関して活動している人たちがいるから、その人たちと連携する、その人たちが乗っかれるようにするっていうのかな。そのプラットフォームづくりをつながる湾がやればいいんじゃないかっていう。でもパスポートを提案したのって森さんですからね。昨年度の頭に久しぶりに来て。大沼くんの案で進んでたわけですよこの辺から。篠塚くんは淡々と図鑑を作っている。彩さんはタッチしていないっていう状況だったから、この辺の時って。大沼くんが実際に人に体験してもらうプログラムを作ろうとして四苦八苦してるんだけど、1人だと大変すぎてどうにもこうにもみたいな。でも構想としては季節ごとに日常の中で土地の恵みだったり文化を体験できるようにしていきたいっていうのがコンセプトとしてはあって、カレンダーを作りたいみたいな構想があって。それをどうやってやるかっていう段階でパスポートにしたらいいっていう話が昨年度の頭にまとまったんですよね。つながる湾のメンバーがやるということじゃなくて、土地にいる人達を表現者にしていくみたいなことをやろうとして、今の形になってるんですよね。旅展のときは「つながる湾のメンバーによる表現」だったけど、文化交流市場になって、つながる湾とは違う枠組みで活動してきた人たちに「こういう風にやればいいんじゃない?」っていうのを伝えられる場になっていたのかもしれないですよね。
佐藤
それぞれの人が表現するのを後押ししていくようなやり方がとれるといいのかもしれないですよね。図鑑じゃない何かを作ることを誰かがやれるように。それぞれの人がやることをいい意味で確立し始めているというか。忙しくもなるけど。みんな今忙しいんですかね?
谷津
今年度は高田さんが戻って来た感じ。去年までは高田さんはほとんどタッチしていなかったんですけど、今年は高田さんが回してる。美術館のフェーズの問題もあるとは思うけど。高田さんが事務処理的なところや体制的なところを回して、大沼くんだったり津川さんが中身を作るっていう体制が今年はとれている。それはすごく大きいですね。私もそこをやる人が必要っていうのはわかっていながら、でも私がずっとそれはできないという部分で、それをやり続けてもいけないみたいなところで、大沼くんが一人でアップアップなのはわかってるけど、それを私がやることは解決にならないっていう気持ちで去年は見ていたので。また高田さんの変化がありますよねここで。
佐藤
人が増えてないっていうのはあるんだろうな、コアで動くメンバーが。
谷津
途中で専属の人を入れようとして失敗したりしてますからね。そういうのも経ている。
佐藤
あのメンバーと対等で動ける人が出てくるっていうのもあんまり…それはそれでちょっとおかしい話で。
谷津
おかしいって(笑)
佐藤
ああいう人が10人とかいたらもう地域変わってると思うし
谷津
でもまあ、つながる湾の中にはいなくてもいますからね。音響やってくれる相澤くんとか。
佐藤
そういう人たちとどういう風にやっていくかなのかな。新しいプログラムを新しい人で作っていくみたいなことが必要なのかな。
谷津
そのための土台としてパスポートの仕組みはいいですよね。乗っかりやすい。いろんな人と協働がしやすい仕組みにはできてる。

(1:57:17)
佐藤
振り返りが始まってるっていうのも重要ですよね。何かしらみんながつながる湾をやってきた意義を感じている。津川さんが言う「変化があった」っていうことが前提にあるからそういう話が出ていると思うんで。
谷津
アートポイント的には意図したわけではないことが起こってるんですか?つながる湾は。
佐藤
ある意味で意図したことが起こってるんじゃないですか。でも「意図したことが起こるとこうなるのか」っていう驚きがあるみたいな。
嘉原
なんか難しいですね。なんて言えばいいんですか。
佐藤
なんだろうね。「ほんとにこうなるんだ」って。
嘉原
でも「本当にこうなるんだ」っていうよりも、いくつか上をいってる感じがするから驚きがあったんじゃないんですか?
佐藤
「こうなるといいな」っていう説明の仕方はずっと変わってない気がして。言葉にしてしまうとすごく汎用性がある感じがするんだけど、起こったことって「そうか…」みたいな(笑)実感を伴う感じ。
嘉原
アートポイントって、「こうなるといいな」というおぼろげなイメージというか、「方向性はこっちだよね」と見えていたとしても、明確に「こういうのを起こそう」っていうのがある感じでもないですよね。だから各プロジェクトにおいて独自の変化が起こることを喜んでもいるし、その変化が起こることで「そう来たか」みたいな、なんだろう、発見してるんじゃないですか私達も。「そうか、こうやってやるんだ」「そういう手法があるんだ」とか。
佐藤
あとこれは被災地支援事業としてやっていて、比較的状況応答型ではあるなっていう感じがある。震災からの時間で起こることがすごく起こった事業でもあった気がする。最初の頃はいろんな支援が来て忙しい人と出会うみたいなのがあって、でもわけわかんないながらも続いていくと ちょっと落ち着いてきたり、違う人が出てきたり、何年もするとそもそもの話をし始めるとか。そこで起こっていくことに対して応答していくっていうことがこの事業のやり方ではあったから、そこはそうなんだけど、でもこんなことが起こるのか、みたいなとこは予期していないことかもしれないですよね。それによって生まれてくるものは。かな…。
嘉原
つながる湾プロジェクトの中で李青さんの中で一番予期していなかったことっていうのは何なんですか?
佐藤
予期しないことが起こることが大事みたいな前提がある気がする。意図したことが起こったらやらされていることになっちゃうから、そこはそんなにこだわりはない。
嘉原
でもさっき言ってたみたいに「こうなっていくといいな」っていうのはあったわけですよね。
佐藤
言葉で言う「大事なこと」が本当に起こるんだっていう驚きみたいな。さっきの加藤さんの出会いのやつも、地域を一回 自分が生まれた場所を離れても 帰って来る人がいて、その人が自分の土地と出会い直してそこで暮らしていくっていうのは、そこで暮らし続けるためにはすごく大事なことですって説明もできるし、ハゼ図鑑を作る理由としても説明してたと思う。でも加藤さんのやつを見たときの驚きは「ほんとにそうなんだ」っていったときの。なんだろうね。「じゃあそれまで嘘ついてたのか」みたいな話だけど(笑)
嘉原
でも嘘じゃないじゃないですか(笑)
佐藤
嘘じゃない(笑)
谷津
李青さんもそうやって説明してきてる。いろんな事例も見てきて。私は現場やってて、中間支援ていう立場に来て、2015年に東京に来て、12月につな湾の現場に見に行って、ってなっていたから、変化が起こるとか出会い直すみたいなことの実感をある意味すごく持ってたから、持ちながらも、でもこうやって出てくると、私は住んだことがなくて通っている土地のことだけどめちゃくちゃ嬉しいなと思うんですよ、こういう変化が起こることが。津川さんがアートのことを語りだしたりすること、自分の経験の中で見てきた変化、その場で生きている人の変化ってそうだよなって確かめられた、アートってそうなんだよなっていうことが確かめられたというのがあって。でも李青さんの今言っていたことが私はすごく興味深くてそうやって言ってて、絶対それを説明してたのは何か見聞きしたりご自身も体験してるから説明できてたはずなんだけど、それを超えるものがあったのかなって思ったんですよ。それは李青さんの地元でもあるからなのか、そこはなんなんだろうなみたいな。
佐藤
なんだろうね。事業としてじゃなくて、人間的な驚きかもしれない。個人として「こういう人が出てきた」驚きかもしれない(笑)
嘉原
大事なことだと思うんです。
佐藤
その説明のやつとかは事前にこれ作るときの話とかで共有はされてた。
嘉原
共有してたし東京でも説明してましたよ。
佐藤
実際にあとがきを見た時の衝撃は人間的な驚きかもしれない。深まるみたいな感じかな、経験が。
嘉原
確信になった?
佐藤
確信になったり、そこからまた考えなかったことを考え始めたりとか。個人的な経験なのかなそれは。なんだろうね。狙った意図…予期し得ないことこそ起こってほしいみたいな感じがあるからね。
嘉原
うん、私達はそう思ってやってますよね。中間支援ていうのは。
佐藤
それはあるかもしれないけど。この前全員で振り返ってて「最初の頃大変だったよね」ってみんなで話していたことも驚きだけどね。当時は思いもよらかなかったよね。みんなが大変だなと思ってるんだろうなっていうのは思ってたし。それを共有できるタイミングが来るなんてって。それってやっぱり時間が経つとしゃべれることがあるとか、あの頃はいい思い出になるよみたいなのがあったけど ほんとにそうなんだなっていうのが起こるとか。だからあれはけっこうびっくりした。
嘉原
時間と共有してきたものがあるから。
佐藤
谷津さんがインタビューしたときも高田さんは最初の頃わかんなかったとか大変だったって書いてたじゃないですか。そうだよなって思うけど。でも生身であそこで議論してる時に「あの時大変だったよね ははは」みたいな感じになってるのってすごいなっていう。時間をかけるって大事だなって。そういうのは要所要所であったな。ああ、でもそのビルドで「なんでそもそもつながる湾やってんだっけ」みたいな話をした時に、文化とかアートってなんなんだろうってすごく考え始めた。そんなこと考えもしなかったんだけどそれまでは。文化とは何かとかって議論あるじゃない?アートとは何かみたいな。別にどうでもよくない?って思ってた。それを定義することにそんなに意味があるとはと思ってなかったし、その都度変わるものだし、それを議論として議論することにそんなに意味があると思ってなかったけど、なんか、あのビルドの時に、なんでつながる湾をやってるかみたいな話をした時に、伝えたいからとか、今まであった土地のことを自分たち知らなかったから知りたいとか、それを次の世代に伝えたいみたいな話をしてて、なんでそれに気づいたのか、それは震災のことなんですかねみたいな話をしたらやっぱりそれがあったからからかなみたいな話をあの時してて。でやっぱりそういうのに関心が出るっていうのは、震災とかきっかけがあるんだなって思いつつ、その時に本当につながる湾がやってることって何なんだろうなってすごく考えさせられて。さっきのデザインなのかアートなのかっていったときに、このトークが。会津のやつも同じような時に同じようなことを考えて、そこでやっている時間軸ってすごく大きいなって思ったんですよ。ビルドの時も図鑑に何入れるかで定規作るかみたいな話が出てたりとか 時間の尺度の話をしていて。その時間てすごく長いなと思った。今やってるのに、過去の話したり未来の話したりっていう時間の長さがすごくあって。でもアートの議論をする時ってけっこう現在の話が大きかった気がするから。その時に文化ってそれぐらいの尺だなって。文化ってすごく時間がが長くて 人が生きている時間を越えていく長さがあって、かつ自然の時間に近いような人の営みを文化って呼んでいて、つながる湾がしている話は文化に触れようとしているっていうのはある気がしたのね。でもアートっていう言葉を積極的に使っている理由もあるような気がして、その時に、それぞれの人が表現する技術みたいなものを持っているなと思ったんですよ。その時の技術ってここにあるものをここで見せたり、こっちにあるものに使えるものを今作ってるっていったりしたときに 現在の人間が生きる範囲の中で何か他者と共有するものを作る技術みたいなものがアートなんじゃないかとその時に思った、その時に。かつアートっていう言葉を使ったときに何かちょっとズレたものをやってしまうみたいな感じがあって。アートっていったときは作品とかを指すんじゃなくて、そういう、人間が生きる有限性の中で現実を過去とか未来とか、違うあり方とか、複数のあり方を見せていく、他者と共有する技術みたいなのがアートなんじゃないかみたいなことをその時すごく考えて。やっぱり震災があったことによって、すごく自然的なこととかに気づくことによって震災の後にやっぱり 震災の後にアートって言葉を使うときに すごく時間の尺が長くなって 文化って言った方がいいやすいものをやっている人達が多くて ハゼ図鑑もハゼっていうのは文化だけど図鑑みたいなものを作る技術はアートで、みたいな。その時に、「ああ、文化とアートってこう考えればいいのか」みたいなことがスッキリしたというか、初めて考えた。そういう意味でよくわからないものに出会っていたのかもしれないですよね。出てくるものとしては。地域をアートにとか、そういういろんな人が出会っていって地域をよりよくしていくことが大事だよみたいなことを言ってるけど、そこで生まれてくるものって謎なものが多すぎて、そういうことを考えたのかもしれない。「ハゼ図鑑?」みたいな。
谷津
震災が時間軸を長くしたっていうのは絶対ありますよね。震災が無かったら、みんなもっと短いスパンでしか見られなかったものが、震災があったことによってスパンが広がって、過去から未来へのつながりが意識の中に否応無しにあるようになって。「失われるものなんだ」って思うようになったっていうことも多分大きくて。それは高田さんが言っているのも何回か聞いたことがあるし、どんどん失われていってしまうから伝えないととか残さないととか。大沼くんもハゼの文化についてそういう危機意識を持ってやっているし。そういう時間軸でものを考えるようになったっていうのはすごく大きい部分かもしれない。
佐藤
教育とか未来の話とかするのは もう1回来るからだっていう。先にもう1回同じことが起こるということによって先を見る そういう意味で前後の時間軸が変わった 津波の被害があったところは特に 周期的である 過去にもあったんだっていう。次のために、みたいなのがあるなあっていうのがビルドのやつやった時にすごく覚えてます。「なんでこんなことを真剣に議論してるんだろう」って。最初の頃、ハゼでこんな議論するなんて思ってるわけないから。
谷津
確かに。この勉強会のときに今の形になるなんて思ってないですよね。
佐藤
こんなに大事なことになるなんて思ってないという意味では、予想し得ないものが生まれて来てますよね。
谷津
それでいうとまだこれからだな(笑)ハゼほどのものは他には生まれていないですよね。今年白菜をやり始め、古代米も今月やりますけど。塩はやりかけていろいろな問題があって止まっちゃってるけど。扱いたいテーマはもうちゃんとあって、それを伝えていくプログラムにどういう風にしていくかの試行錯誤になっている。でも最初からそうですけどね、リーディングにしてもタイムカプセルにしても。時間を超えて残るものにするためにはどうしたらいいかっていうものを作って来てますよねみんな。共通項はそうかもしれない。時間を超えて伝わるためにはどうしたらいいのか。
谷津
李青さん自身がつながる湾と関わって来る中でどい変化したかっていうことについてはさっきのだけでいいんですか?「つながる湾の場合は」て考えるようになったっていう。
佐藤
「つながる湾の場合は」はけっこう考えますよね。なんですかね。
谷津
大きな括りでいうと意図したものになっているっていうことですよね?一つずつ全部「こうしたらこうなる」ってやってきたわけじゃないけど、「こうなったらいいな」っていうビジョンに対してはその通りになっている。
佐藤
だから続けてやってるんじゃないんですか。ダメだったらやめてるから、きっと。なんやかんや言って軌道修正けっこうしてきてるんじゃないですか?つながる湾自体が。停滞しそうになっても、何か持ちこたえたり、ハゼが出てきたり。
谷津
他のところでこういうタイミングでそのまま消えていくみたいな例もたくさん見ているんですか?
佐藤
担い手が変わっていく時期があるじゃないですか、大沼さんが出てくるとか。じゃあ大沼さんと新しいプロジェクトやればいいみたいな話でもあるから、場合によっては。最初に出会った層の人って忙しかったり、自分たちが担い手になるっていうよりも、そこに呼び込まれた次の世代が担い手になるパターンがあったりするので、そうするとその人たちと次をやるっていう選択肢もあるだろうし。停滞してくるっていうのはそれぞれが忙しくなってプロジェクトが重荷になっているっていうことでもあるから、それはそれで積極的にやめるとか、違うプロジェクトを始めるっていう選択肢もあるかもしれないし。つながる湾はそこまでにはならなかった。プログラムがもし1つだったら、それは終わっちゃうみたいなのもありますよね。もし最初から図鑑を作ってたら3冊くらい作って終わりみたいな。意外と多角的にやるというのは大事だったりする。どれかが生き延びるということがあるし。都内でやっている事業も、続いていく形って 組んでるときは予算があったりするからいろいろなことをやって、その中で自分たちにとっての適正規模を発見したり、このプロジェクトだったら身の丈にあって続けられるみたいなのが 残っていくパターンが意外としぶとく続くパターンが多くて。一緒に組むのをやめたとしても いろんなプログラムをある一定の規模感で実践するとか、ああやって複数人の人が定期的に関係が変わりながらそれなりに動いていくっていうのは、アートポイントの事例でも盤石なというか、「やれている」というラインを超えている動き方だから。この辺「やめた方がよくない?」みたいな時期もありましたよね?
谷津
そうだな…高田さんがそれぐらいの感じの時があったかもしれないですね。そして篠塚くんも「つながる湾プロジェクト」っていう形自体の存続にはあんまり興味が無かったんですよね。「これまでのものでこういう考え方を知って影響を受けた一人ひとりがそれぞれに表現してるんだからもうそれでいいじゃないか」みたいな感じだった。大沼くんの意思があったから続いたと思います。あそこで大沼くんが「まだやれてない」っていう意思を示さなかったら、やっぱりここで終わりだったかもしれない。
佐藤
難しいですね、これが意外と。
谷津
岩手福島の被災地支援事業は、どうなったんですか?
佐藤
ケースバイケースですけど、岩手の場合はエリアがけっこうずっと変わらず 釜石大槌 あそこはずっと続いてるんですよね 通っているメンバーが変わらないから 外から行く人と地元にいる人がうまくやっている感じ。それはあそこの特性のような気もしますけどね。もともとアーティストがいるわけでもないし。
谷津
でも運営をやる人はいるってことですよね
佐藤
運営をやる人はいr。じんじんさんが毎年通ってるけど、受け入れをしているメンバーはもともと商店街のNPOのメンバーだったりするから そうやって一緒にやっていく名感でアートってこうなのか 津川さんに近いような変化をしているのが岩手の動きかな福島の場合は県とやってたりしてたので 行政の人が変わっちゃうとできなくなったりっていうので終わっていったりとか ただ会津エリアは最初に出会うべき人に出会って、仙台のトークに来たようなメンバーは震災後の世代として出てきている人たちで ある程度実践で関係ができたんだけど、 プロジェクトは県のやつで終わっちゃったんだけど それぞれはそれぞれで今、次の活動を展開しているみたいな状態があって やってなくても勝手にいろんなことが起こってるみたいなのが生まれて来ているかな。だからつながる湾のイメージはやっぱり会津のメンバーが近いけど、やっぱり同じような時期があってそれぞれの人が忙しくてみんなで同じ実践をするというよりはバラバラに行くタイミングみたいなのが、ちょうどプロジェクト終了と重なってた部分はあったと思う。それはそれなりにやりようはあったと思うけど、あれは物理的にプロジェクト終了っていうのはあったけど、でもそれぞれに今もネットワークがつながっているというのはあるから。…みたいな感じでつながる湾を例えとして「津川さんみたいな感じです」とか、岩手どう続いているかっていったときに地元でやるっていうよりも じんじんさんみたいな通うタイプの人がいて 川原さんが津川さんみたいな感じでアートってなんだって言ってたけど でも最初からエリアに両方の人がいるわけじゃないですもんね、釜石も。もしかしたらいたのかもしれないけど。なんやかんや言ってつながる湾はみんな、震災前から関係があったって言ってますもんね。震災前に出会っていたと。
谷津
津川さんは震災後なんじゃなかったでしたっけ?大沼くん、篠塚くんは高田さんとずっと一緒にやってるけど。

(2:31:57)
嘉原
李青さんがさっき言ってた文化とアートの話はけっこう大きな変化だなと思って。李青さんにとって。
佐藤
震災の後そういう大きなことを考えるようになったっていうのは全般の変化としてはある気がする。近代とかね。そんなこと議論すること自体嫌だなと思ってたけど。結局近代の話なんじゃないかとか。でも最初の方は語りにくいですね(笑)語りにくいというよりも覚えてない。忘れたかったみたいなことがある(笑)わかんないね。今だからそういう風に言えるけどみたいな。
嘉原
李青さんもアーツカウンシルに入ってすぐの時ですよね。
谷津
忘れてくるってありますよね。私も最近そう思って。やっぱり濃いんですよね。すごくいろいろなことがありすぎて「あれどうだったっけ?」ってなるみたいなのはあるなあと。
佐藤
ここもあったんだけどこっちと比較すると薄いんだよね相対的に。だから忘れてる。プログラムとしては一番やってるはずだから。
谷津
そうですね、数はやってる。なんか忙しかった。最初のうちはあんなにどうしようどうしようって言ってたのに、なんか次から次へと企画が出てきてどうしようみたいな感じだった(笑)
佐藤
この辺はたぶん水面下でいろいろあったんだな。
谷津
そうです、高田さんと喜多さんが喧嘩して泣いてたりとか(笑)
佐藤
五十嵐邸で朝まで話するとかあった。歩いて実家に帰ったり。
嘉原
えーーっ。「納得いかない!話しましょう」みたいな?
佐藤
いや、そういう感じじゃなくて。ただ朝まで(笑)
谷津
それでどうなったのかあんまりよくわかんないんだけど、朝までしゃべってるみたいなことありましたよね(笑)
佐藤
日比野さんと五十嵐さんとスマイルホテルでワールドカップについて、五十嵐さんが対戦表書いて日比野さんとずっと話してて「ほんとに好きなんだなあ」と思って(笑)
谷津
アーツカウンシルとしてのスタンスは他の事業に関しても全部同じだっていうことなんですよね。「こういう風になったらいい」っていうイメージみたいなものは共有しながら。
佐藤
そういう意味ではこの事業では最初に高田さんと津川さんが出会ったというか出会わせたみたいなところはけっこう大きいんじゃないですか。それはある程度意図していたところというか。 アートがアート側だけじゃなくて、一方で地域づくりでもなくみたいな。ただアートのアプローチとしてやるっていうのが一つ事業として立ち上がることによって担い手みたいなチームが生まれてくるみたいなのはそもそも狙ってたところだから そこがつながる湾一体としてつながる湾運営委員会ってなったりとか 大沼さんが軸になっていったりだとか 今も高田さんと津川さんもいて動いてるっていうのは、ある意味で最初に意図していたところではある。自分たちなりで自分たちのプロジェクトを展開してるっていうのは、都内でやってるアートポイントもそいういうことをやろうとしているから、そういう意味では、ある種理想的な展開の仕方ではあるんじゃないかな。そういう意味での事業としての成果の説明もしやすいからこそ続いているということもあると思います。一番シンプルに成果として説明しやすい事業ではあると思う。
谷津
なるほど。アート側と地域側がタッグを組んでということでもあるし、被災地支援事業という意味でも震災があったから時間軸を長くとって伝えていくということに対して意義を感じてやっているということでもある。
佐藤
あと、外から人が来てるわけじゃなくて自分たちが住んでいるエリアで自分たちがやっているっていうところも大事だし。その辺は事業によってケースバイケースにはなってくるけど、基本はそのエリアで持続的に文化事業が展開しているみたいなあり方、体制を作ったりっていうのが目的だから、それが東北の各エリアで生まれてくるっていうことが復興としても大事だっていう前提でやっている事業でもあるから、そういう意味では事業目的としては、狙っていたことというか、達成すべきことを達成している事業という評価にはなると思うんですよね。
谷津
なるほど。よかったです。最初の頃、高田さんがすごく怒ってたりしてたから、私は私で「ものすごく悪いことをしてしまったんじゃないか」みたいな気持ちになったりしてたので(笑)
佐藤
基本的に悪いことですよ、始まりはすべて(笑)難しいですね。
谷津
どこでも基本的に最初は悪いことをしてるんですか(笑)
佐藤
まあ、基本的に「被災地支援事業」っていった時点でいいことをしてるっていうのは無いなあっていうのはすごく。うーん、どうですかね(笑)「被災地支援事業」っていう言葉もよくないけどね。「芸術文化を活用した被災地支援事業」って聞いた時「ええっ??」って。「マジすか。愛称つけましょう」みたいな。ASTTって事業名じゃないんですよ。通称でつけただけなんで、正式な文書は全部 なんです
谷津
訳してないですしね。
佐藤
名前をつけるっていうのがいちばん最初だった。なかなかですよね。「芸術文化を活用した被災地支援事業で東京から来ました、東京文化発信プロジェクトの…」みたいな(笑)「お前は何を発信しに来てるんだ。東京の文化を発信しにして来てるのか」と。
谷津
そうですよね、「余計なお世話だよ」って感じですよね(笑)
佐藤
ダメ押しみたいな(笑)名前が変わってよかったですよ、余計わかんなくなったけど(笑)
始め方じゃないですか?今となってみればどの現場でも始まりは無理矢理感がすごくあったけど、今となってみればやらないとそれから45年経ったあとに津川さんの語りの変化みたいなものもたぶん ある一定自分がコントロールできない状況の中で始まって、実践を介してしか共有できないものがあるっていうのも分かったし。だからといって始め方がああいう感じでいいのかっていうところはどうなんだろうなっていうのと、逆に被災した状況じゃない場合の始め方ってより無理やりな感じになるじゃないですかたぶん。ていうのを最近になってより考えるようになったことですね。時間をかけたことによって生まれることが多くなってきてるから。なんやかんや言っても「最初の頃たいへんだったね」っていう話もできるようになるから(笑)もちろんそれができない状態になってる事業もいくつもあるから。前も「つながる湾これからどうする」って話でも出てた気がするんですけど、次始める時にけっこう重要な気がするんですよね、ここでの始まり方って。これから何かを始めるときのヒントにもなると思うんだけど。でもここを通過してきた身だとあの経験をもう1回しましょうって推奨はできないなあ、みたいな気持ちもあるし。震災という状況を無しにしてもちょっとあのやり方がアリなのかっていうのは分からないですけどね。
谷津
震災の状況が無かったらそれも通用しないかもしれないですけどね。「種船行けばいいじゃん」って言って「わかりました」って言わないですよね。最初に来たアーティストが五十嵐さんじゃなかったらダメだったかもしれないっていうのもあるし。
佐藤
震災があったことによって否が応にもいろんな要素が勝手に入ってくる状況ではあったと思うんですよね。それがある意味でいいように作用したっていうのはこの場合はあるだろうし。だから平常な状態でも異質なものを呼び込む状態っていうのは始まりにはすごく重要なんだけど、それをどういう風にこの経験から伝えていくのかっていうのがすごく大事なことな気がするんですけどね。全員ベースで今まで経験したことがないことを経験したという状態から始まっているっていうのももちろんあるんだけど、そこから起こったことっていうのは、それぞれが経験し得ないことを共有しつつ、やってみることで気づいたことを共有するっていう積み重ねもやってきたと思うんですよね。普通はやる前になんとなくわかってるけど、やってみないとわからないことみたいなのがいっぱいできた状態があって。それってけっこう大事なことのような気がするんですよね。難しい、始め方って。つながる湾は「達成できてますね」って話が最終的にある程度できるからいいけど。この辺で終わってる事業もけっこうありますからね、その辺の話ってしづらいですよね。