佐藤 李青 / 嘉原 妙

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佐藤 李青 / 嘉原 妙
Risei Sato / Tae Yoshihara
アーツカウンシル東京プログラムオフィサー

『“予期せぬこと”が起こる方がいい』。
被災地支援事業としてのつながる湾プロジェクト

立ち上げ前のリサーチの段階から10年に渡り、つながる湾プロジェクトに伴走し続けてきたアーツカウンシル東京。東京都内や、他県の被災地でも多数のプロジェクトを展開しつつ、当初からつながる湾プロジェクトの担当者であり続ける佐藤李青氏と、2016年頃から加わった嘉原妙氏に、これまでの歩みをどう見ていたのか聞いた。

戸惑いながら始まるも、
地域の魅力と表現方法を徐々に発見していった

谷津
最初、被災地支援事業担当者として宮城に来たばかりの頃の印象から教えてください。
佐藤
最初はASTT※1の宮城県全体の協議会の委員に高田さんに入ってもらって、初めてお会いして。委員の人に企画を出してもらう中で、高田さんが伊保石の仮設住宅の話をしたんです。それで塩竈のプログラムをやることになった。当時は、もともと高田さんのチームがやっていたことに後追い的に関わっていく形だった。その後、浦戸諸島の被災が大きく、支援が必要だから行ってみよう、となったのが始まりですね。それで、2012年度にリサーチプログラムを立てて。
谷津
8/12の最初のリサーチは少人数で行って、12/17に日比野克彦さん※2、五十嵐靖晃さん※3、山城大督さん※4と一緒に行きました。
佐藤
もともとこの頃、東京で「三宅島大学」というプログラムをやっていて、そのイメージもあり、いろんな人と島に行ってみようというのがあって。リサーチ後、夜にビルドスペース※5で話しましたよね、日比野さんがTANeFUNe(以下「タネフネ」)の話をしたり…。
谷津
五十嵐さんと山城さんにもそれぞれ、それまでにどういうプロジェクトをしてきたのか話してもらいました。
佐藤
10人くらいの人が聴きに来てて。日比野さんが話をした後に、津川さんが、市町村にとらわれず湾全体の文化を発信する「湾の駅」の構想を話した気がします。それで「これだ」という感じになったんですよね。で、活動範囲が浦戸諸島に広がり、さらに湾全体へと広がった。
谷津
最初の高田さんの企画は、地元の人の要望から、浦戸諸島にある寒風沢島のお祭りの復活に向けてアートプログラムをしたい、というものでした。でも、8月にリサーチをした時に、ASTTディレクターの森司さんから「こういうところは一島だけに支援をするんじゃなくて全体で見ていかないと」ということを言われ、12月のリサーチプロジェクトを組み立てた。ただ、浦戸全域を対象にするということについて、最初、高田さんは戸惑っていました。それはどういう風に見えていたんでしょう?
佐藤
「アート側のことはできるけど地域側(浦戸諸島全体)のことはできない」と言っていましたね。おそらく、震災後に地域との関わりの中でいろんな要望に対応していたことで、大変なこともたくさんあったんだろうと思っていました。戸惑いもありながら、地域に何らかの可能性を残すために受け入れた方がいいと思われていたのではないでしょうか。それで、「地域側の話ができる人と一緒にやればいいんじゃない?」ということになって、津川さんの名前が挙がった。
谷津
その流れで、12/17の夜のミーティングに高田さんが津川さんを呼びました。
佐藤
あの時に日比野さんがタネフネの話はしたけど、タネフネを持ってくる話はまだなかった。少し後に六本木アートナイトというイベントでタネフネが展示されて、次にどうするってなった時に「塩竈に持って行けないか?」と。で、「どうですか?」と高田さんに電話したら「駐車場に置けます」と言われて。船が塩竈に行ってから、あるんだったら動かそうということで「のりフェスティバル※6」で動かすことになった。当初、船関係はタネフネのオーナーの舞鶴チーム※7が動かし、高田さんは受け入れ側で。その後、日比野さんからの指名でタネフネの二代目船長になった喜多直人※8さんが浦戸諸島を回ってお茶っこをやった。で、五十嵐靖晃さんの「そらあみ」も始まったのかな?
谷津
そうです。タネフネで浦戸を巡回しながら、同時に「そらあみ」もやっていました。高田さんが用意した家に五十嵐さんと喜多さんが滞在して、舞鶴チームも後から来て共同生活をみんなでしながら。
佐藤
あれは大変でしたよね…家の手配なども高田さんが奔走して。あの状況だからできたのかもしれないけど。でもまあ、喜多さんや五十嵐さんが長く現地にいる状態で何かをやることで、やってることどうこうより、個人的な関係ができて変わっていったんじゃないですかね。
谷津
五十嵐さんとの出会いが大きかったみたいですね。その一方で、勉強会も大きかったんです。津川さんが講師を連れてきてくれて話を聞いて、みんな「面白い!」ってなって。高田さんも、高田家のルーツとつながる話があったらしく、盛り上がっていたのを覚えています。自分たちの地域の知らなかったことを知るのが面白いと。
佐藤
その後、「語り継ぎのためのリーディング」が、高田さん企画で始まったんですよね。次の年もそらあみ、勉強会、語り継ぎが継続する。「そらあみ」は3島シリーズになった。旅展は…
谷津
旅展は、2014年度からですね。2014年度はすごく関わってる人が多かった印象です。8月にやったツアーもよかった。勉強会で学んだことを活かして、観光視点ではなく浦戸の生きた文化をめぐるツアーを企画して、関わっていた人たちがそれぞれの役割を果たすことができた。みんなで学んだことを活かしてみんなで作ることができたツアーでした。
佐藤
アサヒ・アート・フェスティバルに参加したり、いろんな展開が一気に広がっていった時期ですよね。年度の集大成の展示だった「旅展」は、記録や作品を展示するだけでなく、感覚的な共感を生むような場の作り方だと思いました。あの展示を見に行くことで、つながる湾プロジェクトの現場に参加している気分になれた。エリアのこと、学んだことをわかりやすくレイアウトして伝えるだけでなく、たとえば湾ツアーを体験できる「すごろく」をつくってしまう。それで提示されているのはすごろくそのものではなく「すごろくを作ることって楽しいよね」みたいなことだと思うんです。ものをつくる技術を使って「こういうことができるよ」みたいな。つくることそのものを提示されている。だから、その背景に人がいることも見えてくる。
谷津
他の現場ではそういう感覚は無いんですか?
佐藤
ああいうアウトプットや場の雰囲気にならないことが多い気がします。同じようなことをやろうとしている人たちは、これを見て欲しいってすごく思った。集まっている人達の関係性や、地域のことを考えながら活動している人達がいることも。少し時間が経つと分業化が進んで、みんなでやれなくなる感じとか、そういうリアリティも含めて(笑) 最近は、他の事例につながる湾のことを重ねて考えることが多い気がします。「つながる湾で言えばあれか」みたいな。
谷津
そうなんだ!先行事例ですね(笑)デザイン力があったり、すごろくも、ああいう風にかわいく作れてしまう人は、普通はそんなに地域にいなくて。それがある程度の数が集まって存在していたのは、高田さんが以前から若手アーティストのネットワーキングをしてきた成果だと思います。それに加えて、もともとの塩竈のお祭り好きな気質もあって…、さらに震災があったのも大きい気がします。
嘉原
つながる湾の良さというか強みだなと思うのが、クオリティを保つことに背伸びをしていないことだと思います。いわゆるデザインでまちづくりをしているところのアウトプットって、どうしてもちょっと無理している感じがする。でも、つながる湾でつくられるものは、技術は確固としてあるんだけど、それを使う時に「このプロジェクトだったらこうだよね」とか、「この水準は絶対ずらしたくない」というせめぎあいの中でちゃんと作っている感じがして、無理している感じが無いんですよね。
佐藤
それはやっぱり、そこで暮らしていて、自分が実際に体験したものを伝えるっていうリアリティが裏付けとしてあるからな気がします。
<脚注>
  • ※1 「東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業(Art Support Tohoku-Tokyo)」の略。「つながる湾プロジェクト」は同事業のひとつ。
  • ※2 アーティストの日比野克彦氏。 https://www.hibinospecial.com/
  • ※3 アーティストの山城大輔氏。 http://the.yamashirostudio.jp/
  • ※4 アーティストの五十嵐靖晃氏。 http://igayasu.com/
  • ※5 「つながる湾プロジェクト運営委員会」のメンバーである高田彩が2006年に開設したアートギャラリー。
  • ※6 「塩竈浦戸のりフェスティバル」。浦戸諸島の復興支援を目的に市民有志によって開催された。
  • ※7 「種は船プロジェクト」の主催者でありTANeFUNeを所有する一般社団法人torindo(京都府舞鶴市)のメンバー。
  • ※8 写真家の喜多直人氏。石川県金沢市出身。2013年よりTANeFUNe船長。2014年より宮城県七ヶ浜町在住。

個人的な動機と、対象への愛

佐藤
最初の「旅展」をやった2年目(2014年)あたりは、つながる湾のメンバーからやりたいプログラムが出てきて、「何をやるか」という議論はあまりなかったですよね。
谷津
みんなが形にしたいものをどんどん形にしていた時期ですね。
佐藤
「やらなきゃいけないもの」はなくなって「やりたいもの」をやれる状態。方向性のベースは1年目でできていたから、その上でプログラムがバババッと生まれていったと思います。だから、方向性を話し合うことはあまり無かったし、出張に来た記憶もそんなに無い。むしろ一個一個やってることの位置づけをどうするか、どう整理するかという話の方が多かった。この年はまだビルド・フルーガス+チガカゼが主催だったのかな?でも津川さんと高田さんがだんだん忙しくなってきた。
谷津
杉村惇美術館※9が2014年度の最後にできて、高田さんが統括になり、そちらが忙しくなったんですよね。一方つながる湾プロジェクトは、2015年度は2014年度の流れを引き継ぐ感じでやっていたんだけど、同じ熱量で同じようにプログラムをやり続けることはできないよねっていう感じになってきた。で、2016年度に五十嵐さんが来られないことになって「そらあみ」ができなくなり、今までの流れが決定的にできなくなって、じゃあどうしよう、ということになった。
佐藤
この辺は、だんだん、みんな忙しくなって、集まってミーティングするのが難しくなった頃ですよね。しょっちゅう集まらなくてもそれぞれやることは分担できていた。けど、それでいいのか? と問い直す時期にもなっていた。
嘉原
プロジェクトとしてどうしていこうかという問題と並行して、それを動かしていく体制をどう考えていくかについても議論が始まっていました。プロジェクトをこの地域に根付かせていくというか、自分たちが得てきたものをもっと地域に還元していく仕組み、やり方を考えたいねという話が出ていて、そのアイディアの一つが図鑑※10だった。
佐藤
図鑑を作ってどう使うのか、というときに大沼さんから、教育の場で活用し、「これからの世代の人に伝えたい」という話が出てきて。大沼さんが軸になった会議があった。終わった後に谷津さんが「大沼くんからああいう発言が出てきたのがよかった」と言っていたのを覚えてます。
谷津
それまで大沼くんは運営に関する発言をぜんぜんしてなかったんですが、「最初の頃みたいに、またいろんな人が関われるプログラムをやりたい」ということをこの時に言ったのをすごく覚えています。その後、大沼くんが組み立てたプログラムとして、2016年の後半かりら「松島湾とハゼ」が始まっているんです。
佐藤
高田さんと津川さんが組んで進んでいたそれまでの形ではなく、「つながる湾って何するの?」という議論からつながる湾運営委員会ができた。単純に、運営委員会とアーツカウンシルで直接組む方が、えずこホール※11を通していたそれまでよりも動かしやすくなるということもありましたが。この頃、運営についての会議をしに行くのが多かった気がします。他の事業もそうで、「そもそもどうしてこれやってるんだっけ?」という議論をすることが増えて。出張が初年度に近いくらい多かった。
嘉原
そうですね。この時期、補助金が無くなるという話を各地で聞き始め、どういう形で継続するのか、継続しないのか、転換の年だったなあという感じがします。『ノック!』ができたのもこの時期ですね。
佐藤
「そもそもなんでやってるんだっけ?」ということを『ノック!』を作りながら確認したところもあった。そして『ハゼ図鑑』が登場し、あとがきで衝撃を受ける。
嘉原
覚えてますよ。初稿が来たときに向かい合って座ってたんですけど、李青(佐藤)さんに急に「あとがき読んだ?」って言われて。よっぽど衝撃だったんだなと(笑)
佐藤
「つながる湾の人が出てきた!」って思った。自分の生まれた土地から一回外に出て、帰って来て、図鑑を作るプロセスを経て、もう一度その土地と出会い直す。「本当にそういう人が出てきたんだ」っていう衝撃を受けたんですよ。それによって、つながる湾がやろうとしていること、それまで言葉で説明していたことを実感した感じがあった。
嘉原
加藤さんの巻末エッセイ、いいですよね。牡蠣図鑑の、漁師さんに「生牡蠣食べれない」って告白するところとか、すごくいい。図鑑を作っている本人も体験して、実感している。今ある風景と、その土地で時間をかけて培われてきたことと、個人が数十年生きてきた時間が合わさっていくんだなって、毎回巻末エッセイを読んで思います。象徴的ですよね。
佐藤
言い過ぎかもしれないけど、つながる湾プロジェクトはそのためにやっているともいえる。200人がハゼを釣れるようになるのも大事だけど、1人の人がここまでして自分の経験を振り返ってハゼと出会い直したり、自分の住んでいる場所と出会い直したりする。それは、その場所で暮らし続ける理由にもなるくらい大きなこと。そういったことが、こういう事業をやることの大きな目的であるはず、ということをすごく実感しました。
谷津
『ノック!』の漫画のモデルになっている藤崎さんもそうです。つながる湾の「お客さん」とも違う、「メンバー」ともちょっと違うんだけど、もっとも「つながる湾をちゃんと体験してくれた人」ですね。そういう人が生まれていることが重要だと。アーツカウンシル東京のみなさんは図鑑シリーズを毎年楽しみにしてくださっているということですが、みんな東京で働いていても、それぞれ地元があったりしますよね。津川さんも塩竈出身で仙台で働いてて、地元に対しての気持ちはあるんだけどどう関わったらいいのか分からなかったと言っていた。そういう、みんなが自分が育った土地に持っている気持ちのようなものを呼び起こす効果が図鑑シリーズにはあるんでしょうか。
佐藤
『松島湾のハゼ図鑑』だからそうなんじゃないですか。ただの「ハゼ図鑑」だったらそうはいかないかもしれない。個人の動機と紐付いているのが大事なんじゃないですか。つながる湾にはそれがある気がする。
谷津
個人的な動機は、確かにありますよね。
佐藤
デザイン的な処理でかっこよくまとめるなら、ハゼじゃなくてもいいかもしれない。大沼さんのハゼに対する想いがあるからハゼが選ばれている。
谷津
そうですね。高田さんも若宮丸※12に対する愛はある。
佐藤
対象への愛がある。「つながる湾って何なの?」って議論していたものが形になって、より「つながる湾とはどういうものか」が確認された。そこがすごく大きい。
<脚注>
  • ※9 2014年に開館した塩竈市杉村惇美術館 http://sugimurajun.shiomo.jp/
  • ※10 リンク先には「ハゼ図鑑」のみ紹介されているが、2017年度に「牡蠣図鑑」、2018年度に「船図鑑」、2019年度に「遺跡図鑑」を制作している。
  • ※11 ASTT発足当初、同事業の宮城県事務局を担当していたのは宮城県大河原町の「えずこホール(仙南芸術文化センター)」であった。
  • ※12 江戸時代の千石船。遭難して漂流し、浦戸諸島出身の乗組員が帰国するまでの途上で日本人で初めて世界一周したと言われる。高田はこの物語を題材に「語り継ぎのためのリーディング」を展開した。

時間を超えて遺るものをどうやって創るか

佐藤
自分たちのエリアで何かをやろうとする時、何をプログラムとしてやるかよりも、「どういう人たちと、どういう関係でやったらいいか」が、実はいちばん難しい。つながる湾の場合はそれが揃っていると思うんです。状況に押されたものだったとしても、最初、この事業をやるために高田さんと津川さんが組んでスタートしたのはけっこう大きかった気がします。まちづくり側の人とアート側の人が対等に同じテーブルを囲んで議論する状態って他のエリアでは簡単なようで難しい。だから、始め方はすごくバタバタしてたけど、無理矢理でもいいからやらなきゃいけないことがあることによって、人は自分が今までやらなかったことをやろうとするんだと、今となってみれば思う。そうじゃないと新しい人とやれないし、新しいことって作れないと思うんですよ。やっぱりきっかけが必要で、普通の状態だったら「そんなのやらないです」って言ってたことも、被災後だったからやらざるを得なかった面もあったと思うんです。でも今となってみれば、それがあったからいろいろな人が集まっている状態が生まれているような気もする。
谷津
その状況を作り続けるためにはどうしたらいいのか。2014〜2015くらいまでの時期は、メンバーが個人的な興味と動機からプログラムを作ることをひたすらやっていたんだけど、それをずっと作り続ける運営体制を作るのは難しかった。それで、じゃあもうちょっと、松島湾に関してすでに活動している人たちと連携する、その人たちが乗っかれるようにしようと。そのプラットフォームづくりをつながる湾がやればいいんじゃないかと。2016年度から大沼くんが体験を重視したプログラムとして「松島湾とハゼ」を作ったけど、他の人が実働部隊になれない中で、大沼くん1人だと大変すぎてどうにもならなくて。構想としては「季節ごとに日常の中で土地の恵みだったり文化を体験できるようにしていきたい」というのがあって、カレンダーのようなものを作りたいと言っていた。でもどうもうまくいかなくて、「パスポートにしたらいい」という話が昨年度(2018年度)の頭にまとまったんですよね。必ずしもつながる湾のメンバーがやるのではなくて、土地にいる人達に表現者になってもらおうと。旅展のときは「つながる湾のメンバーによる表現」だったけど、パスポートと、そのプログラムが集まる場としての「文化交流市場」に進化して、つながる湾とは違う枠組みで活動してきた人たちにも、李青さんが旅展で感じた「こんなやり方ができるよ」という感覚を伝えられる場になったのかもしれない。
佐藤
それぞれの人が表現するのを後押ししていくようなやり方ができるといいのかもしれないですよね。図鑑じゃない何かを、誰かが作れるように。新しいプログラムを新しい人で作っていくことが必要なのかな。
谷津
次年度で10年で、東京都と組むのもそろそろ終わりだろうかという感じがありますが、アーツカウンシル東京としては意図していたことが起こってるんですか?つながる湾は。
佐藤
ある意味で意図したことが起こってるんじゃないですか。でも「意図したことが起こるとこうなるのか」っていう驚きもある。
嘉原
私たちは、「こうなるといいな」というおぼろげなイメージというか、「方向性はこっちだよね」というのはあっても、明確に「こういうのを起こそう」という感じでもないんです。だから各プロジェクトにおいて独自の変化が起こることを喜んでもいるし、その変化が起こることで「そう来たか」と思ったり。発見してるんじゃないですか?私達も。「そうか、こうやってやるんだ」「そういう手法があるんだ」とか。
佐藤
あとこれは被災地支援事業なので、災害からの時間経過によって起こることが、まさに起こった事業でもあった気がする。その時々の変化に常に応答しながら展開していくのがこの事業のやり方で、「予期しないことが起こることが大事」という前提がある。意図したことが起こったら「やらされている」ことになっちゃうから、そこにはこだわりはないですね。このインタビューの前に全員で振り返りをして「最初の頃大変だったよね」って話していたことも驚きで。それを共有できるタイミングが来るなんて、って。それだけ時間が経ったんだなと。
嘉原
時間と、その間に共有してきたものがあるから話せるようになったんでしょうね。
佐藤
時間をかけるって大事だなと思ったことは要所要所でありました。時間軸での変化も、この事業で強く感じたことの一つかもしれないです。「なんでつながる湾をやってるのか」という話をする中で、「自分たちの土地のことを知らなかったから知りたい」とか、それを「次の世代に伝えたい」みたいな話が出て、それに気づいたのはやっぱり震災があったからからかもしれないという話をしてて。その時にすごく考えさせられた。福島県会津エリアの事業も同じような時に同じようなことを考えていたんだけど、つながる湾でもすごく長い時間の尺度で話をしているなと。今やることに対して、過去の話をしたり未来の話をしたり。それは「文化」の時間の尺だなと。人が生きている時間を越えていく、自然の時間に近い長さを持つ人の営みを「文化」だとすれば、つながる湾は文化に触れようとしている。でも同時に「アート」という言葉を積極的に使っている理由もある。現在の人間が生きる範囲の中で、他者と何かを共有するための表現の技術が「アート」なんじゃないかと思ったんです。「アート」は作品を指すんじゃなく、人間が生きる有限性の中で、過去だったり未来だったり、あるいは違うあり方だったり、複数のあり方を他者と共有する技術みたいなものなんじゃないか。その時に、「ああ、文化とアートってこう考えればいいのか」みたいなことがスッキリしたというか、初めて考えた。そういう意味で、私達も自分がよくわからないものに出会っていたのかもしれないですよね。
谷津
震災が時間軸を長くしたというのはありますよね。高田さんが「どんどん失われていってしまうから残さないと」言っていたのを聞いたことがあるし、大沼くんもハゼの文化についてそういう危機意識を持ってやっているし。それはすごく大きい部分かもしれない。
佐藤
教育や未来の話をするのは、いずれ同じことが起こるという前提に立っているからだと思います。津波は周期的に来るもので、過去にもあったもの。それをつながる湾の話し合いを聴きながら強く意識しました。
谷津
それで言うと、まだまだこれからですね。ハゼのプログラムはある程度形ができましたが、今年白菜をやり始め、古代米もやり始めている。塩は、やりかけていろいろな問題があって止まってるけど。扱いたいテーマはもうちゃんとあって、それを伝えていくにはどういうプログラムにしていくかの試行錯誤になっている。最初の頃のリーディングにしてもタイムカプセルにしても、時間を超えて残るものにするためにはどうしたらいいか考えてますよね、みんな。共通項はそこかもしれない。

始まり方と、続き方

谷津
事業の話に戻りますが、大きな括りで言うと、つながる湾プロジェクトは意図したものになっているということですよね?一つずつ全部「こうしたらこうなる」ってやってきたわけじゃないけど、「こうなったらいいな」というビジョンに対してはその通りになっていると。
佐藤
だから事業を続けているんじゃないんですかね。ダメだったらやめてるはずなので。なんやかんや言ってつながる湾自体が軌道修正をしてきた。停滞しそうになっても持ちこたえたり、ハゼが出てきたり…(笑)。
谷津
他のところで、そうしたタイミングでそのまま消えていく例も見ているんですか?
佐藤
どんな活動でも担い手が変わっていく時期があり、そうすると、新しく登場した人たちと組んだ事業に移行してくことこともあります。また、メンバーのライフスタイルが変化していって、それぞれが忙しくなってプロジェクトが重荷になるなら、積極的にやめることもある。違うプロジェクトを始める選択肢もあるかもしれない。でも、つながる湾はそこまでにはならなかった。プログラムがもし1つだったら、終わってたかもしれないですよね。図鑑を3冊くらい作って終わりみたいな。だからプログラムは複数取り組むのは大事なのかもしれません。どれかが生き延びるということがあるし。都内でやっている事業も、いろいろやってみる中で自分たちにとっての適正規模を発見し、細くとも長く続くことが多いです。つながる湾でも「やめた方がよくない?」みたいな時期もありましたよね?
谷津
そうですね。大沼くんの意思があったから続いたと思います。あそこで大沼くんが「まだやれてない」っていう意思を示さなかったら、終わっていたかもしれない。
佐藤
アートのアプローチとしてやる事業が立ち上がることによって、担い手チームが生まれてくるというのはそもそも事業が狙っていたところでした。そのチームメンバーの手によってプロジェクトが自律的に展開している状態は、被災地支援事業がスキームを援用している「東京アートポイント計画」でも目指していることです。そういう意味では理想的な展開の仕方なんじゃないかなと思います。
谷津
アート側と地域側がタッグを組むという点でも、被災地支援事業という意味でも。
佐藤
自分たちが住んでいるエリアで自分たちがやっている、というところも大事ですね。事業によってケース・バイ・ケースですが、基本は、そのエリアで持続的に文化事業が展開していくあり方、体制を作るのが目的なので。それが東北の各エリアで生まれてくることが復興にも大事だという前提でやってきました。そういう意味でも達成すべきことを達成している事業という評価になると思います。
谷津
なるほど。よかったです。最初の頃、高田さんがすごく悩んでいたので、私は私で「ものすごく悪いことをしてしまったんじゃないか」って悩んだりしてたので(笑)
佐藤
今となってみれば、どの現場でも、始まりは状況に押された面が大きかったけれど、実践を介してしか共有できないものがあるのも分かった。ここでの「始まり方」は、日常の中で新しいことを始める時のヒントになると思います。でも、あの経験をもう1回しましょうって推奨はできないなあ(笑)。
谷津
震災後じゃなかったらそれも通用しなかったかもしれないですよね。「タネフネ持って行っていい?」って言って「わかりました」って言わないですよね(笑)最初に来たアーティストが五十嵐さんじゃなかったらダメだったかもしれないし。
佐藤
震災があったことによって、否が応にもいろんな要素が勝手に入ってくる状況ではあったと思うんです。異質なものを呼び込むのは、平常時でも始まりにはすごく重要なんだけど、それをどういう風にこの経験から伝えていくのかがすごく大事な気がします。全員、震災というそれまでにない共通体験をした状態から始まっているけど、そこから先に起こったとは、やってみることで気づいたことを共有する積み重ねが大きい。平常時はやる前になんとなくわかってることをやるけど、震災で、やってみないとわからないことがいっぱいできた。その経験ってけっこう大事なことのような気がするんですよね。

区切り

インタビュー日:2019年10月7日
インタビュー・まとめ:谷津智里

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