中世の人々の想いを知る
−松島雄島のはなし−
勉強会開催日:2015年7月14日
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松島を「景勝地」として多くの観光客が訪れるようになったのは明治時代以降のこと。 それ以前の松島は、千年以上前から「霊場」として極楽浄土を願う人びとが参詣する場所でした。今回は、現代ではあまり知られていない中世の松島の姿を学びました。
神や仏、祟りに幽霊。多くの現代人は、これらを「実在しないもの」と考えています。しかしほんの数百年前までは、これらは「確実に存在するもの」と考えられていたようです。「この世のものとは思われない」ほど美しい松島湾の景観は、中世の人々に「極楽浄土に近い場所」と捉えられていました。
雄島は、陸地からほんの20mの距離に浮かぶ南北200m、東西40mの細長い島です。中世の人々は雄島を「陸と海の狭間にある島=この世とあの世をつなぐ島」と考え、火葬骨を納骨する習慣が始まったことが分かっています。この習慣はなんと明治期まで続き、今でも、骨粉と思われるものが多数発見されます。
雄島には「見仏上人」の伝説があります。見仏上人は1104年に雄島に入ると、一歩も島を出ずにお経を唱え続け、霊力を得てさまざまな奇跡を起こしたとされています。ただしいくつかの伝説を調べてみると、見仏上人は時代をまたいで何人かいたようです。当時、霊験あらたかと思われていたお坊さんが、人が変わっても「見仏上人」と呼ばれたのかもしれません。
雄島では、13世紀から15世紀にかけて建てられたと考えられる「板碑(いたび)」が多数発見されています。板碑とは、死後、極楽浄土に行けるようにと願って建てる供養碑です。当初、板碑は上流階級の人しか建てられませんでしたが、時代が下るに連れ、小型化したり簡素化され、庶民も建てるようになったようです。江戸時代の紀行文に「白鷺が島に群がっているように石碑が見える」と書かれたくらい、石碑だらけの島でした。
板碑の中には「逆修供養」といって、生前に建てられた碑も多く見られます。これは、板碑を建てることで得られる功徳のうち、7分の6は供養する人=建てた人が得られると考えられていたためで、特に、一度男性に生まれ変わらなければ決して極楽に行けないとされる女性が建てたものが多いようです。
「霊場・松島」が「観光地・松島」に変わるきっかけを作ったのは松尾芭蕉だと考えられています。江戸時代になって庶民にも旅行ができるようになり、さまざまな地域から松島参りに訪れる人が現れましたが、半分信心、半分物見遊山の状態になり、明治時代頃には、松島は「霊場」よりも「景観の良い場所」と捉えられていったようです。
2006年、雄島周辺の海底に大量の石碑が沈んでいることがわかりました。これは、明治時代末〜大正時代にかけて雄島の公園化事業が行われた際、邪魔になった板碑を海に捨てたものだと思われます。現在までに回収されたものは2800点を超えており、かつての雄島が現在とは全く違った様相であったことを示すとともに、その時代を境に、人智を超えたものに対する私たちの認識がガラリと変わってしまったことを物語っています。
まとめ:谷津智里 / イラスト:篠塚慶介
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- 講師:新野一浩さん(瑞巌寺学芸員)