西と東のつながりを知る
−「西の太宰府・東の多賀城」と言われる理由−
勉強会開催日:2015年8月31日
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遠く九州にある太宰府と、東北にある多賀城。この2つの史跡は、実はとても深い関係にあります。古い遺跡を調べて分かった古代の日本の様子と、松島湾を望む当時の多賀城の姿について、お話をお聞きしました。
太宰府と多賀城は、ともに約1300年前の古代の遺跡です。太宰府は当時の日本の西の最前線で、大陸に対する防衛の役割を果たし、多賀城は北の最前線で、東北各地を管轄するとともに、朝廷の傘下に入らない蝦夷(えみし)の住む地に支配を広げるための拠点でもありました。多賀城と太宰府は奈良の平城宮跡と並んで「日本三大史跡」と言われ、日本の古代国家を形作っていました。もしかすると、多賀城から北へ行くのは“海外旅行”だったのかもしれません。
太宰府と多賀城はとてもよく似ています。太宰府では博多湾、多賀城では松島湾を望む丘陵地に防衛拠点が築かれ、平地には碁盤の目状の道路で区画された街が広がっていました。政庁の中の建物の配置も、付属の寺院の内部の建物の配置(伽藍配置)も、よく似ています。もとは朝鮮半島の百済(くだら)の都をモデルに作ったと考えられ、両施設が当時の国家にとってとても重要だったことがうかがえます。
現在の多賀城は海とは遠いイメージですが、航空写真で見ると塩竈港や仙台港がすぐ近くにあることが分かります。さらに古代は、海岸線は現在よりも2kmほど内陸にあったことが分かっており、多賀城へはこれらの港を利用して人がやってきたり、物資が運び込まれたと考えられます。当時は政庁からも、輝く海を眺めることができたのでしょう。
古い時代の施設はたいてい、地名から名前がつけられます。しかし太宰府の「太宰」はもとは中国の官位で、「太宰府」は「地方行政長官のいる役所」という意味です。では多賀城の「多賀」は?はっきりしてはいませんが、中国で出土した古い鏡に「喜びを多くすることで支配する地域の人々を安らかに治める」という意味の「四夷服多賀國家人民息」という文字が刻まれており、ここから「多賀城」という名前がつけられたのではないかという説があります。
宮城県の「宮城」は「天皇がいる場所」という意味です。地方にこんな地名がつくのはちょっと考えられないことですが、いつからこう呼ばれるようになったのでしょう? 多賀城の創建と同時期の土器にすでに「宮城郡」と書いた文字が見られることから、「宮城」の名は「天皇の代理がいる場所」である多賀城の存在から名付けられたとも考えられるのだそうです。
多賀城の史跡では現在、当時の建物の跡を見ることができますが、政庁の正殿の礎石のうち11個は、奈良時代に置かれた正真正銘の「本物」。太宰府や平城京の史跡では盛土してかさ上げした上にダミーの石を置いているそうですが、多賀城だけは本物の奈良時代の地面が出ているのだそうです。そう思って現場に立つと、1300年前の人々の足音が聞こえてくるかもしれません。
まとめ:谷津智里 / イラスト:篠塚慶介
- 講師紹介
- 講師:高倉敏明さん(多賀城市観光協会事務局長)