文学に描かれた松島湾の塩づくり
勉強会開催日:2018年7月13日
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かつて、多くの文人墨客が塩釜、松島、多賀城を訪れ、和歌や俳句などの形で言葉を残してきました。いま、それらの言葉を読み解くと、言葉が紡がれた当時の情景が浮かび上がってきます。
古代、律令政府は東北地方に住む人々を「蝦夷」とよんで征討の対象とし、そのための拠点として724年に国府・多賀城を設置しました。これにともない、今の塩竈、七ヶ浜、松島は国府に食料や塩を供給するエリアとしての役割を果たすようになりました。
その後平安時代にかけて、都から多くの人々が多賀城を訪れました。彼らはもともと東北地方に暮らす人々を抑圧・迫害する一方、この地の風景の美しさを和歌に詠み、あるいは口伝てで、都の人々に伝えました。するとその言葉は歌人たちに歌い継がれ、みちのくの風景への憧れを宿した言葉として定着したのです。このようにしてできたのが、「末の松山」「野田の玉川」「まがき島」「しおがまの浦」などの「歌枕」です。
たとえば塩竈に関する歌枕は、「きみまさで煙たえにししほがまのうらさびしくもみえわたるか(※1)」(紀貫之)、「わが背子を都にやりて塩竈のまがきの島のまつぞ恋しき(※2)」(東歌)のように、侘しさ、恋しさの情感を孕む言葉として使われました。この傾向は、紫式部が夫の死を悼んで詠んだ「みし人のけぶりとなりしゆうべよりなぞむつましきしほかまのうら(※3)」などの歌にも鮮明にみることができます。
江戸時代に入ると、仙台藩の文化事業に尽力した俳諧師・大淀三千風(おおよどみちかぜ)が全国の文化人に呼びかけ、松島や塩竈に関する句、歌、詩を募集して『松島眺望集』としてまとめました。
同書に収められた「松嶋は月一本のながめかな(※4)」(三千風)、「武蔵野の月の若生えや松島種(※5)」(松尾芭蕉)、「松しまや大淀の波に連枝の月(※6)」(井原西鶴)などの作品からは、このころの松島が月と一体となったイメージで捉えられていたことが伺えます。
なお、芭蕉が東北を旅した目的も、「松島の月まず心にかかりて」(『おくのほそ道』)と、松島の月を見ることでした(ただし芭蕉はほかに、塩竈の桜、および象潟への憧れにも言及しています)。
芭蕉は塩竈で抱いた物哀しい情感を「つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとど哀れなり」(『おくのほそ道』)と書いていますが、これは古今和歌集の東歌「陸奥はいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱手かなしも(※7)」を引いたものです。また子規が「塩焼く煙かと見るは汽車汽船の出入りするなり」(『はて知らずの記』)と書いたのは、塩竈を象徴する光景として藻塩を焼く営みがあることを意識したものです。芭蕉も子規も、古歌に描かれた情景を自身の表現に効果的に取り入れているのです。
古典に残された言葉は、当時の匂いや空気、情景などを現代に伝えてくれています。そのことを意識して先人たちの言葉を読み解くと、過去から現在に続くこの土地のストーリーをより鮮やかに感じることができるのではないでしょうか。
- ※1 あなたが亡くなって、煙の絶えた塩竈の浦が寂しく見わたされます
- ※2 夫を都に送り出して、塩竈の籬島の松のように待つのは恋しいことです
- ※3 夫が亡くなって煙になってしまった夕方から、(製塩の煙が立ち上るという)塩竈の浦の名が身近に感じられます
- ※4 松島の眺めは、一筋の月光が輝く夜が素晴らしい
- ※5 見慣れた江戸の月は、松島の月の種から出た若芽のようなものだ
- ※6 松島の海の波に、連なる枝と月が映えて美しい
- ※7 みちのくは、どこでもいいところがあるけれど、塩竈の浦を漕ぐ船を綱で引く様子がしみじみと趣深いなあ
まとめ:加藤貴伸 / イラスト:篠塚慶介
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- 講師:渡辺誠一郎さん(俳人)