「古代都市多賀城から出土の製塩土器〜内陸から出土する製塩土器とは〜」

「古代都市多賀城から出土の製塩土器〜内陸から出土する製塩土器とは〜」

勉強会開催日:2020年11月19日

> > >

奈良時代から平安時代にかけて多賀城に形成された古代都市では、製塩がさかんだった海辺から塩を入れて届いたと思われる製塩土器が出土しています。それらの土器からは、当時の塩の流通、製塩土器の用途、多賀城周辺の生活の一端を垣間見ることができました。

松島湾周辺には縄文時代から古代の製塩遺跡が多く分布し、たくさんの製塩土器が出土しています。これらのうち多賀城の時代、つまり古代の遺跡を調べると、製塩を行なっていた場所は奈良時代の末ごろから平安時代の初めに急増したことがわかっています。これは、蝦夷との戦いが激化したことで律令政府が塩を大量に必要とするようになったことが要因といえます。
一方、製塩がさかんだった沿岸部ではなく海から離れた多賀城の周辺の遺跡でも製塩土器が見つかっていることは注目に値します。

律令政府が東北地方を制圧・統治するための拠点として多賀城を設置したのは724年のことです。奈良時代の終わり頃になると政府は多賀城の南側に道路で区画された町をつくります。多賀城南門から南に延びる南北大路沿いには公的な空間が整備され、南北大路より西側の東西大路沿いには上級役人の邸宅が建設されました。これらの邸宅跡からは膨大な土器のほか、貴重な陶器、庭園の跡なども発見されており、貴族のような生活が営まれていたと考えられます。そして、製塩土器が出土しているのもこのエリアなのです。

多賀城周辺の町の遺跡から出土した製塩土器は、塩作りが行われていた沿岸部から運ばれたものと考えられます。しかし重量のある土器は本来、大量の塩の長距離輸送には向きません。他地域の民俗事例などを見ても、塩は押し固められて籠や俵などで運ばれたことが多いようです。多賀城周辺で出土する製塩土器は、わざわざ重い土器に入れてコストをかけて運ばれた特別な塩の存在を示唆しているのです。

海水を煮詰めて作られた塩には苦汁(にがり)が含まれています。苦汁を含む塩を再度焼く「焼き塩」を行うと、苦汁成分の少ない白くてサラサラした塩を得ることができます。多賀城周辺で出土する製塩土器に加熱の痕跡が見られることから、上級役人らは土器で運ばれた塩に「焼き塩」の工程を施して良質な塩を作ろうとしたと考えられます。
また多賀城周辺では、多量の祭祀の遺物と同じ場所からも製塩土器が発見されています。このことからは、それらの製塩土器が、宗教行事に使用するような特別な塩を運び、「焼き塩」によって白く清らかな塩を作るのに使われた可能性が考えられるのではないでしょうか。

  1. ※ ここでいう古代都市とは、多賀城およびその周辺に広がる山王・市川橋遺跡を指す。

まとめ:加藤貴伸

  • 古代都市多賀城イラスト
    遺跡調査をもとに描かれた古代都市多賀城の様子(画:早川和子氏)
講師紹介
講師:鈴木孝行さん
(多賀城市市長公室参事市長公室長補佐・市民文化創造担当)