「石器時代にも稲あり〜弥生稲作を証明した多賀城市大代桝形囲貝塚出土土器〜」

「石器時代にも稲あり〜弥生稲作を証明した多賀城市大代桝形囲貝塚出土土器〜」

勉強会開催日:2020年11月17日

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かつて日本の考古学の世界では、「弥生時代に東北地方で稲作は行われていなかった」といわれていました。その定説を覆すきっかけとなったのは、多賀城市で発見された土器の破片でした。

紀元前4世紀ごろに九州地方北部で農耕社会が成立すると、水稲栽培は本州へと広がり、紀元前200年ごろまでには東北地方北部の津軽地方にも稲作の技術が伝わりました。水稲農業と金属器の使用を特徴とするこの時代を弥生時代といい、紀元3世紀ごろまで続きます。
しかし今から100年ほど前までは、日本の弥生時代とされる時期に東北地方では稲作が行われていなかった、と考えられていました。その定説を覆すきっかけになったのが、大正時代に多賀城市で実施された発掘調査でした。

日本の考古学の幕開けは1877(明治10)年にアメリカ人の動物学者・モースによって行われた大森貝塚(東京)の発掘調査です。それ以降、各地で貝塚の調査が進められ、明治時代後期には東北地方でも発掘調査が行われるようになりました。多賀城市でも、1919(大正8)年、橋本囲(はしもとがこい)貝塚と桝形囲(ますがたがこい)貝塚で初の発掘調査が実施されました。このとき、研究者の1人である山内清男が桝形囲貝塚の出土品の中から稲籾の痕跡がある土器(籾痕土器)を発見しました。今から2100年ほど前のものと推定されるこの土器は、東北地方で弥生時代に稲作が行われていたことを示すものであり、山内はこの成果を「石器時代にも稲あり」という論文にまとめて『人類学雑誌』という研究書に発表しました。

山内の発見は考古学的にきわめて重要なものでしたが、東北地方で弥生時代の水田跡が発見されるのはそれからずっと後のことで、1980年、青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡での調査を待つことになります。そしてこのときあらためて、多賀城で数十年前に発見された籾痕土器がクローズアップされることになるのです。その後、東北各地で弥生時代の水田跡が発見されるようになり、1994(平成6)年には多賀城市の山王遺跡で、地下3mの場所から水田跡や足跡が発見されています。

多賀城市は市域の約4分の1が遺跡となっていて、1919年の初調査以降、900回にも及ぶ発掘調査が行われています。その草創期の研究成果は、弥生時代に東北地方で稲作が行われていたことを定説化するきっかけとなる、極めて重要なものだったのです。

まとめ:加藤貴伸

  • もみこん土器
    桝形囲貝塚で発見された、底の部分に籾の痕跡が見られる土器(資料提供:多賀城市教育委員会)
  • 山王遺跡水田跡山王遺跡で発見された水田跡(資料提供:多賀城市教育委員会)
講師紹介
講師:鈴木孝行さん
(多賀城市市長公室参事市長公室長補佐・市民文化創造担当)