古代における松島湾の塩づくりと多賀城のくらし

古代における松島湾の塩づくりと多賀城のくらし

勉強会開催日:2017年7月18日

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松島湾周辺で縄文時代から行われていた製塩は、奈良時代から平安時代にかけて、急激に盛んになっていきました。その背景には、多賀城を拠点として蝦夷(えみし)と戦う律令政府のまちづくりが深く関わっていました。

724年に成立したとされる多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれ、行政の中心地であると同時に、蝦夷と対峙する軍事の中心地でもありました。

762年、多賀城は藤原朝獦(ふじわらのあさかり)によって改修され、大きな外郭施設と強固な塀を備えることになります。そして同じ頃、多賀城の南側には東西大路、南北大路という2本の大きな道がつくられました。当時の都と多賀城を結ぶ東山道にあたるこの道は、そこを通る蝦夷に強大な多賀城の姿を見せるという目的もあったものと思われます。道と城の間に障害物があれば多賀城が見えないので、この時点では道の周囲に建築物はなかったと考えられます。

その後、774年の衝突を皮切りに、律令政府と蝦夷との争乱の時代に入ります(38年戦争)。780年には伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)らの襲撃により多賀城が焼け落ちるなど、激しい戦いが繰り返されるのです。そしてこの長期の戦いに合わせて、多賀城の南側の地域に変化が生じてきます。

788年に行われた征夷で、5万2千の兵力を投入した政府軍が大敗しました。その敗因の一つとして、大軍を受け入れる兵站機能が多賀城に不足していたことがあげられます。そこで政府は、多賀城南側の南北大路と東西大路の周辺に町をつくり、さらに川を改修して両大路の交差点に水陸の結節点をつくりました。このように兵站基地、輸送基地としての多賀城の機能を強化することで、最終的に政府軍は勝利するわけです。

松島湾周辺の製塩の歴史は、この蝦夷との戦いと連動しています。

この地域では、8世紀の遺跡にも製塩土器が出土していますが、9世紀の遺跡でさらに多くの製塩土器が見つかっています。このことは、蝦夷との戦争が本格化するのに合わせて、製塩がさかんになっていったことを示唆しています。

そして同じ頃、塩の消費地である多賀城でも、都市空間の成立と時期を合わせるように、塩づくりを示す資料が城の内外から出土しています。城外の都市空間では、水陸交通の結節点である東西・南北大路の交差点とその周辺から、製塩土器が多く出土しています。さらに別の特定のエリアでは、製塩土器とともに、多賀城の役人の装飾品や硯などが出土しています。このことから、製塩が国府の役人の仕事と関係があったと考えられています。

また、城内にあたる多賀城跡からは、製塩用の竈について記された木簡や、「厨」と書かれた土器などが出土しています。厨は台所を意味しますが、単なる厨房施設ではなく、食材や塩の調達も担う、厨という役所が存在したと考えられています。

以上のようなことから、蝦夷との戦争で兵站機能を増強しようとした国府が、厨という役所を中心に塩づくりにも関与していたと考えられるのです。

なお、七ヶ浜にある神社では、厨という役所で使われていたと思われる「国府厨印」という印が見つかっており、とても貴重な資料の一つと考えられています。

まとめ:加藤貴伸 / イラスト:篠塚慶介

  • 古代における松島湾の塩づくり
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講師紹介
講師:村松稔さん(多賀城市埋蔵文化財調査センター 発掘調査員)