松島湾沿岸の貝塚群と塩づくり

松島湾沿岸の貝塚群と塩づくり

勉強会開催日:2013年12月3日

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松島湾には湾内に流れ込む大きな河川が無く、縄文時代以前から地形がほぼ変わらずに残っています。そのため沿岸には貝塚が多く確認され、中でも東松島市宮戸島にある里浜貝塚は縄文人の生活を紐解く上で貴重な史跡とされています。奥松島縄文村の菅原弘樹さんのお話で、縄文時代の松島湾に思いを馳せました。

貝塚とは単なるゴミ捨て場ではありませんでした。貝の殻や魚の骨の他にも、 割れた土器や工作くず、儀式祭具や死者の埋葬まで、縄文人の生活の全てを自然に帰す場所だったのです。そのため、貝塚の調査から当時の生活を驚く程に細かく明らかにする事ができます。

例えば、縄文時代の食生活は意外にも豊かでした。季節ごとに違う木の実やキノコを採集し、旬の魚介を食べていました。現在と同じように春にはアサリを、夏にはウニを、秋には牡蠣を食べ、スズキやアイナメを釣っていたのです。また、縄文人は「生業カレンダー」を持っていたことが分かっています。貝塚が示す食の季節サイクルと同じ層から出土するもの を調べることで、その季節に何をしていたかを確認できるのです。

松島湾沿岸一帯で製塩土器が出土するため、この地域で縄文時代に製塩が行われていたことが分かっていますが、製塩は夏頃に行われていたと推察されます。大量の薪燃料を必要とする製塩は、薪を求めて浜から浜へ周期的に移動しながら行われました。生成量を見ると、当時の集落規模に必要な分を大幅に越えた量が製塩されており、塩と塩蔵品を用いて交易を行っていた事が考えられます。内陸では塩の産出がないのでたいへんな貴重品であり、もしかしたら、松島湾産の塩は一種のブランド品となっていたのかもしれません。山形で産出する石材でつくられた石器が里浜貝塚から出土する他、内陸部で製塩土器の破片が出土するなどしており、塩の交易を裏付けるものとして、今後の研究により明らかになるかもしれません。

松島湾沿岸の貝塚群の調査はまだほんの一部しか進んでおらず、縄文人の残した営みの歴史が今尚眠っています。それでも解ってきた事は、この地に生きた人々は穏やかで豊かな湾の恵みを頂いてきたということです。それは数千年を経た現代でも変わることなく続いているのではないでしょうか。

まとめ:大沼剛宏 / イラスト:本田千華

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講師紹介
講師:菅原弘樹さん(奥松島縄文村歴史資料館館長兼学芸員)
菅原弘樹
多賀城市出身。専門は考古学。松島湾を中心に、縄文人の生業や食生活の解明が主な研究テーマ。震災後は、地中に残された震災履歴の確認と縄文時代以来受け継がれてきた宮戸島の自然や景観、歴史、文化を活かした復興まちづくりの実現に向けて取り組んでいる。