古代の湾のつながりを知る –国府・多賀城と外港・塩釜–

古代の湾のつながりを知る
−国府・多賀城と外港・塩釜−

勉強会開催日:2015年5月26日

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多賀城市には海がありません(実際にはほんの少しあります)。でも「多賀城」の成り立ちには松島湾が深く関係しています。宮城県の地形や歴史に詳しい木村浩二さんから、松島湾と塩釜、多賀城の関係をお聞きしました。

松島湾には、湾の入り江のいたるところに貝塚があり、実は、全国でも有数の貝塚立地エリアです。縄文時代、この地域は今の千葉県くらい暖かかったそうです。数千年に渡って人が定住していたと思われる集落跡も見つかっており、食物が豊富で暮らしやすい豊かな場所だったことをうかがい知ることができます。

弥生時代以降、大規模な水田を経営する技術が定着してくると、地域の中心は松島湾の沿岸部から平野の多い内陸部へと移りました。でも松島湾から人がいなくなったわけではなく、沿岸部の暮らしはずっと続いていました。その証拠に、沿岸部から弥生時代や奈良時代の土器も出土しているそうです。

奈良時代になって、内陸部に「多賀城」が築かれました。多賀城は大和朝廷の国府(こくふ)で、大和朝廷に従わない蝦夷(えみし)と闘うための軍事拠点だったと思われがちですが、地方行政を担う県庁所在地のような役割も果たしていました。当時は約500人の役人が働いていたようです。不思議な事に、今の多賀城市の職員数とほぼ同じです。

現在、塩竈市に香津(こうづ)という地名があります。漢字を置き換えると国府津(こくふづ)となり、国府=多賀城の、津=港だった事がわかってきます。地名でわかる古代の関係。多賀城跡から塩釜神社までの道のりには、そういう痕跡がたくさん残っているようです。

国府多賀城の港=津として使われていた塩竈港付近の集落(現在の香津町?)には、「千軒もの家があった」という記述が古い文献にあります。塩竈の港町としての歴史は、1300年も前から始まっていたのです。

七ヶ浜町にある鼻節神社では「国府厨印(こくふくりやいん)」と刻まれた銅印が見つかっており、国府多賀城の廚=台所として、海産物の調達を担っていたのではないかという説があります。七ヶ浜町も、多賀城と深いつながりがあったようです。

多賀城には、京の都から赴任してきた位の高い役人が20名ほどいました。彼らは風光明媚な松島湾の姿を歌に詠み、松島湾は都の人びとにとって憧れの地だったようです。一生のうちに訪れることもままならないであろう遠い異国の地を、当時の人びとはどのように思い描いていたのでしょう。

まとめ:谷津智里 / イラスト:篠塚慶介

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講師紹介
木村浩二さん(仙台市教育委員会文化財課専門員)
1952年、宮城県塩竈市生まれ。東北学院大学卒業後、福島県教育委員会文化課、仙台市教育委員会社会教育課を経て、仙台市文化財課に勤務。地底の森ミュージアム学芸室長を務めた後、現在、仙台市教育委員会文化財課専門員。 2014年11月に監修を務めた『宮城「地理・地名・地図」の謎』(実業之日本社)http://u111u.info/kS6I が発行された。