水の記憶をつなぐ

2014年に実施した「そらあみ —松島−」では、松島町 産業観光課の佐藤綾さんのご協力により、
「霊場・松島」の原点である雄島と、伊達政宗が中秋の名月を眺めた瑞巌寺の参道に「そらあみ」を掲げることができました。

佐藤綾さんはつながる湾プロジェクトと「そらあみ」をどう捉えていたのか。
「そらあみ」で実現したものは何か。つながる湾プロジェクトは何を目指すのか。

「そらあみ」の作者である五十嵐靖晃さんと、つながる湾プロジェクトのコンセプトを
提唱した津川登昭を交え、語っていただきました。

聞き手:谷津 智里(つながる湾プロジェクト)

バード

ここで何かやるには湾で考えればいい

谷津
谷津
2013年にTANeFUNeが松島湾にやってきたのをきっかけに「つながる湾プロジェクト」が始まりました。「海からの視点」をテーマにしようと決めたものの、漠然とし過ぎていて「何をやったらいいんだろう?」という感じだった時に「湾」のコンセプトを提示してくださったのが津川さんでしたね。
津川
津川
僕の考えの根底にあるのは地形なんです。この地域は湾を持っていて、それは美しい景色を生み出してますし、調べてみたら湾の水で塩を作っていたり、全国に出荷する種牡蠣を養殖していて、広島 の種牡蠣の多くはこちらのものだとか、地元の僕らがあまり知らないけれど、自慢したいことがどんどんどんどん出てくるので面白くなって、“湾”というテーマで活動したいと思っていたんです。
谷津
谷津
津川さんは塩釜市のご出身ですが、今住んでらっしゃるのが多賀城市で、お勤めは仙台市です。津川さんご自身も、以前は、塩釜市が地元だから地元に対して何かやりたいという気持ちを持ちながら も、なかなか出来なかったとおっしゃっていましたね。
津川
津川
そうですね。塩釜の人には「なんで多賀城に住むの?」とか言われましたし、僕も多賀城にいくと多賀城の顔、塩釜にくると塩釜の顔という風に、知らないうちにスイッチが切り替わってたんですけ ど、なんかおかしいな、一緒にできないのかなとずっと思ってました。震災の前はあまり海に出たことは無かったんですけど、震災後に友達の牡蠣漁師の船に乗って海に出て、湾の中心から「塩釜はあそこだよ」と言われて見た時に、地形が全部つながっているのが分かって、多賀城だとか塩釜だとか、なんて小さいことを言っていたんだろうと。ここで何かやるには湾で考えればいいんだと、言葉ではちょっと足りないくらいの力強いメッセージを、風景が僕に与えてくれました。そこから「湾」で考えるようになりました。
谷津
谷津
行政区が違ったり、住んでいる場所、働いている場所が違うと もう、私たちは違う地域だと思いがちですが、「実は人間が引いた行政区とは異なる一つの文化圏というものがあるんじゃないか」というのがこのプロジェクトの根底の部分なんですね。そうしてスタートし た「つながる湾プロジェクト」ですが、その一つとして、去年は塩釜市の浦戸諸島で「そらあみ」というプロジェクトをしました。今年は、場所を移して松島町で「そらあみ」を行いました。その辺りの経緯と、どういう作品かということを五十嵐さんからお話しいただければと思います。
クロストーク

網を編みながら人と地域を編む「そらあみ」

五十嵐
五十嵐
「そらあみ」では、訪れた土地でその土地の人たちと漁網を編みます。「網を編む」というのは大昔から人類の歩みとともにある所作なんですけれど、編んでいるとその土地に流れている風の音や空気に触れたり、おじいちゃんおばあちゃんの井戸端会議が聞こえてきたり、土地の声を聞く時間があるんです。編み上がると、最後、空に向かって展示するんですけど、背後が青空だと水色の糸で編んだ部分が透明に見えたり、白い雲が漂ってくると今度は白い糸で編んだところが透けたり、逆に赤なんかの色は飛び出して見えたり、眺めていると、普段見ている風景が少し違って見えるというかズレて見えるような感覚があって。ともに編み、時間を過ごし、最後に、空に掲げた網越しに立ち上がった風景を眺めて、今生きている世界をもう一度見つめ直すきっかけにしてみよう、という作品です。去年は浦戸諸島で編んで、最後に朴島の牡蠣棚の上に展示させて頂きました。で、高田さんだったり津川さんと今度は松島でやってみたいと話していたところで、綾さんに出会った。
谷津
谷津
綾さんは、最初お話を聞いた時はどんな印象でしたか?
佐藤
佐藤
私、「つながる湾プロジェクト」のパンフレットを事前に拝見させていただいていて、「そらあみ」のことも知っていたんです。それで、高田さんに「松島でできないでしょうか?」と言っていただいてすごく嬉しくなっちゃって。漁網を編むことでその土地の文化も編むというコンセプトがすごく私の中で響いて。松島はいわゆる日本三景ということですごく有名になってますけど、もともとは「霊場」で あり人々が祈りを捧げる場所だったという歴史があるんです。「そらあみ」でそういうところを伝えられたらすごく素敵なんじゃないかと考えて、「雄島を見ながら編んではどうですか?」とご紹介して。雄島は元々瑞巌寺さんと深く関係がある場所だから、雄島と瑞巌寺で「そらあみ」の展示を実現するお手伝いができたらなと。それが始まりでした。
そらあみ
谷津
谷津
五十嵐さんは全国各地をプロジェクトで回っていらっしゃって、行政の方とお話をすることも多いと思うんですが、綾さんの印象はどうでしたか?
五十嵐
五十嵐
話が分かるというか、共通言語が多いですよね。いろんなところで「そらあみ」を編んできたんですけど、その土地で編む理由というのがやっぱり必要なんです。「何故編むのか」という。最初にお会いした時に、雄島だったり瑞巌寺だったりを案内していただいたんですが、どれもすぐに響くものがあって。綾さんは土地の声を引き出す、声を通訳して下さる存在だというのが、最初出会った時の印象でした。
佐藤
佐藤
私は松島生まれ松島育ちで松島をすごく好きなので、外から寄り添ってくださる方がいるということ自体、すごく嬉しくて。松島は平安の頃から霊場としての歴史があるんですが、雄島はその原点と言われている島なんです。雄島から見る松島の景色があまりにも綺麗なので、この世とあの世の境目だということで、多くの人が祈りを捧げたり、家族の成仏を願って遺骨や遺髪を持ってきたり、僧侶の方々が 修行をして生活していた場所だったんです。江戸時代に瑞巌寺が伊達政宗公の菩提寺になってそちらが有名になったんですが、実は原点は雄島だということがなかなか皆さんにお伝えできていなくて。
五十嵐
五十嵐
雄島に連れて行ってもらってその説明を受けて、ああ、かつての人はここに極楽浄土を見たのかと。現代を生きる我々は松島の風景から極楽浄土を見出す力を持ち合わせていないと思うんですが、で も何かきっかけがあったら辿り着けたり、瞬間的には想いを馳せることが出来るんじゃないかと思って、今回、「そらあみ」で極楽浄土をつかまえたいなと。でも極楽浄土をつかまえるって言っても抽象的すぎるので、もうちょっと具体的なものはないかと考えていた時に、もう一つキーワードとして出てきたのがお月様だったんです。瑞巌寺は伊達家の菩提寺で、政宗公が約5年をかけてリニューアルオープンさせたそうなんですね。京都から職人を呼んで、柱が一回でも地面に付いたら縁起が悪いから使わなかったとか、いろいろ話が残っているんですけど、中でも一番驚いたのが、参道が中秋の名月が昇る角度に合わせてあると。
佐藤
佐藤
政宗公は本当に松島でのお月見が好きだったみたいで、お月見を楽しんだ島とかもあるんですけれども、瑞巌寺の設計をするときに、参道の真ん中から中秋の名月が愛でられるように作ったそうなん ですね。
五十嵐
五十嵐
わざわざ瑞巌寺をリニューアルオープンさせて、わざわざ南東方向に参道を位置づけて、多くの人がそこを歩いて参拝し、帰っていく。政宗公がそうまでして遺したかったもの、未来を生きる人達に 伝えたかったものは何なのかと考えると、実はそれは「霊場松島」の風景なんじゃないかと。中秋の名月が参道の先に上がってきて、穏やかな波間にキラキラと波が輝くまさに極楽浄土、あの世とこの世をつなぎ、人の思いが集う瞬間。そういう視点、感覚みたいなものを未来に繋げたかったがために、参道を月のための角度にした。未来を生きる我々が受け取るべきメッセージはそこにあるんじゃないかと思って、今回は極楽浄土をつかまえる=お月様をつかまえる「そらあみ」をしてみよう、ということになりました。
そらあみと月
谷津
谷津
実際に「そらあみ」を展示してみたら、思っていた以上にすごく瑞巌寺の参道の空間に似合いましたよね。
津川
津川
衝撃でしたよ。僕の中では瑞巌寺ではこういうことはできないと思っていて。
五十嵐
五十嵐
僕がいきなり行っても門前払いだと思いますけど、綾さんは、役場職員としてきちんと、文化財や施設のことを分かっている上に「地元の人」っていう顔があるんですよ。瑞巌寺の人が昔からのお友達であったりとか、県の担当者の方とか、文化財担当の方もみんな仲間という感じで。
佐藤
佐藤
ご近所さんであったりとか、子どもの頃からの知り合いとかも多いですからね。そういう意味では、お役に立てることは多いかもしれません。
五十嵐
五十嵐
編んだ場所は松島のヨットハーバーで、雄島の付け根のようなところなんですけど、向かいにいかぽっぽ屋さんがあって、かき氷の差入れとか、看板をもっとこっちに置いた方がいいとアドバイスし てくれたり、いろいろ応援してもらいました。夏休みだったので、松島水族館に遊びに来たご家族だったり、ヨットハーバーに来た方たちだったり、関西の方からたまたま旅行に来てた美容師さんだったりとか、 通りすがりの人から地元の方まで参加してくれました。
津川
津川
編み方というのは全国共通なんですか?
五十嵐
五十嵐
それが面白くて、世界共通なんです。現存する最古の網は中石器時代の遺跡から出ているらしいんですが、網というのは植物の繊維を編んで作っていたので形が残りにくくて、遺跡からもなかなか出て来ないらしいんです。が、おそらく海伝いに伝わっていたであろうと。今年の6月にブラジルでも編んで来たんですけど、
津川
津川
ブラジルでも!
五十嵐
五十嵐
そう、地球の裏側でもちょっとやってみようと思って。そしたらね、ブラジル人漁師も編んでました。同じです。道具も同じ。網針(アバリ)っていう道具を使うんですけど、この網針のデザインも 同じなんです。東松島に里浜貝塚っていう約7千年前の遺跡がありますけど、瀬戸内海で出会った海洋考古学者の人に聞いたら、どうやら日本で一番古い網針は里浜から出てるらしいんですよ。その頃からデザインが変わっていない。完成されてるんです。縄文時代の人たちもこれを見たら「ああ、網針だ」って思うわけですよね。
津川
津川
縄文人も「そらあみ」をしてた(笑)
五十嵐
五十嵐
当時は生きるために網を編んでいて、「そらあみ」は違う目的ではあるんですけど、ああやって水際で人が集い、網を編んで、小さい子たちが糸を巻いてたり、年配の方達が教えに来てくれたりって いう光景は、おそらく縄文時代と相通ずるものがある。編んだ人だけがわかる、指のちょっと食い込む感じとかも、多分縄文人もわかってくれる。
津川
津川
そう思うとすごいですね。
そらあみ
谷津
谷津
「そらあみ」について説明する時によく話すんですが、現代アートのプロジェクトって、やっていてもなかなか地元の年配の方には関わっていただけないことが多いと思うんですけど、「そらあみ」はやっていると地元の方が話しかけてくれるという特徴がある。一緒に作品を作ることもできるし、そこからいろいろなお話を聞いて関係性を作っていくこともできるんですよね。
五十嵐
五十嵐
そうなんです。やっている間にいろんな人との出会いがあって、綾さんに出会い、漁師さんやヨット乗りに出会い。結果、網を編みながら人を編んでいくことになる。最後、出来上がった網を使っ て月をつかまえようということで、中秋の名月の日にみんなで再会して、松島湾のあなごの白焼きをさっきのいかぽっぽ屋さんで焼いてもらい、ヨット乗り達はそばが好きなので、そば打ち職人さんに来てもらって手打ちそばを食べて。さらに、去年浦戸諸島で編んだ時に協力してくれた漁師さんが蟹を山ほど持って来てくれて、おいしい日本酒に舌鼓を打ちながらみんなで網越しに月を眺めるっていう、そういうつかまえ方ができたんですよね。それは最初に松島に入ったときに思 い描けていたものではなくて、ちょっとずつ話がつながっていって最後にあの日が出来上がったんですけど。去年お会いした浦戸の方だったり、塩釜の方も松島に来てくださって、今年新たに出会った松島の方たちもそこにいて、「つながる湾」らしい夜だったなと思います。

「今の価値観」から自由になるきっかけを開く

谷津
谷津
綾さんは前年の浦戸諸島の「そらあみ」は実際にご覧になっていたんですか?
佐藤
佐藤
残念ながら見ていなくて、「つながる湾」のパンフレットで知ったんです。「そらあみ」もそうですし、「つながる湾プロジェクト」の、行政のボーダーを越えて湾でつながるというコンセプトが、もう私にとって心を打つものだったんです。
谷津
谷津
じゃあもう、待っていましたという。
佐藤
佐藤
本当に待っていましたという感じですね。震災の次の日に仕事で湾岸エリアを歩いたんですが、そのときに、松島湾がものすごく綺麗だったんです。これくらいの被害で松島湾が守られていることにはやっぱり意味がある。湾の向こう側の浦戸の被害はひどかったわけで、島々が緩衝材になってくれたから私たちは助けられたというところがあって。そういうことを考えると、やはり松島湾は私たち松島町だけではなく多くの人が共有していて、そこにはいろんな暮らしがあるということを私も再認識して。湾を深く知ってみんなで共有するための何かをしていかないといけないんじゃないかと感じた震災後の数年だったので、このプロジェクト自体が私自身のやっていきたいこととすごく合致していたんですね。
津川
津川
もともと「湾」で考える発想をお持ちだったということですよね。「つながる」というのは単純な言葉なのでいろいろな解釈の仕方があると思うんですけど、「僕とあなた」とか、「塩釜と松島」とかの 二点間というのがすごく重要で、合併しようっていうことじゃなく、それぞれの立ち位置、地域文化をお互いに知って、認め合った上で同じ方向を向く。一緒にプロジェクトをやれば利益が出るとかそんな話ではなくて、一番大事なのは、お互いを知ることで自分をより知ることができるということなんですね。それが僕の思う「つながる」です。
五十嵐
五十嵐
ここに来る前は熊本の不知火湾にいたんですが、そこで面白い話を聞いて。今の行政区画というのは廃藩置県の時にできたわけですよね。今も「群」という住所が残ってますけど、あの「群」というのは廃藩置県以前からある地域の区分で、川の流れとか水の動きをグループ化したものらしくて。水の動きというのはつながりであると同時に、隔たりでもあるわけですよね。その後、今の行政区画に切り替わっていく中で、道路や線路を作った。水のつながりによってグルーピングされていたものに対して、新しく経済状況を生み出すためのグルーピングをし直し、水の代わりに電車であったり道路を通したと。今、湾という水の流れをベースに、行政区画を越えてアクションを起こしていこうという動きがあるのは、何か時代がそうさせていると言うか、資本主義の行き詰まりみたいなことだったり、さまざまな閉塞感みたいなものだったり、未来をどう見出していけるのかが問われていく時に、自分たちの中にDNAとして刻まれている「水の記憶」みたいなものが自由になることを求めているんじゃないかとちょっと思ったりして。我々の身体は7割くらい水でできてるらしいですし。
津川
津川
陸ではない交通ということで言うと、この地域には昔「三陸汽船」というのがあって塩釜と釜石を結んでいたんですけど、そういう海を中心にした文化を知るとはっと気づく部分があるというか、現代 とは見方、ものさしが違いますよね。
五十嵐
五十嵐
今日のイベントに「海辺の記憶をたどる旅」という名前がつ いてますけど、網もそうだし、船を漕ぐこともそうだし、水に関わる行動をすることで、自分の中にある水の記憶を開くみたいな。昔の人がやっていたことをそのまま現代で使うということではないし、過去の歴史を読み解くとか、昔はよかったよねということでもなく、でも僕らは何か、今の価値観から自由になりたくて、そこを開くきっかけがあるんじゃないかなって思う。今の時代だからこそ、水とどうつきあっていくかを考えながら、内側にあるものにもっと目を向けなければならないんじゃないかなと。
谷津
谷津
「海辺の記憶をたどる旅」というのは、去年、このプロジェクト全体を説明したパンフレットをつくる時に、報告書みたいな名前にするのは嫌だねと話し合って、出て来た言葉なんですよね。やっぱりこのプロジェクトは、今言ったような表に出て来ない記憶、自分たちの遺伝子の中に知らない間に引き継がれているものを感じとるとか、 そういうものを探す作業をしているのかなと思います。
五十嵐
五十嵐
伊達政宗も海が好きだったんだなって思うとなんかちょっと嬉しくなるとか、政宗公もここから月を見ていたんだ、という風に視線を重ね合わせられる楽しさというのはありますよね。
佐藤
佐藤
松島湾の形はその時とほぼ変わっていないので、本当に政宗公と同じ景色が見れちゃう。それだけでも「松島湾てすごい」って思ってしまうんです。
谷津
谷津
松島湾には大きな河川が流れ込んでいないので、土砂が堆積せず、縄文時代からずっと同じ地形だと。なので、今現在私たちが見ている風景を縄文人も見ていたし、縄文人も同じように松島湾の魚を食べていたし、同じように網を編んでいたということなんですよね。
五十嵐
五十嵐
やってることは一緒だという。
佐藤
佐藤
今も変わらずにやっている。
そらあみ
谷津
谷津
地域資源を生かす取り組みって、今あちこちで盛んにやられて いますが、観光資源にするためにやるパターンがほとんどですよね。私たちのような考えで地域を知ろうとする行為というのは、津川さんが「自分を知ることが一番大事」とおっしゃっていたように、ある意味自分のためにやっている面があります。
津川
津川
一回来れば終わりの「観光松島」ではなくて、何回も来て欲しいだとか、もっと言えば住んで欲しいという気持ちが「霊場松島」という言葉に現れてるのかなと思っているんですけど、観光をやるにしても、来てもらう人以前に住んでる人が自分の土地の文化を知った上で迎え入れられたらいいし、来る人も、地元の人と同じ目線で観光してもいいのかなと思ったりもします。
佐藤
佐藤
本当にそう思います。また、松島を伝えるためには多賀城の存在も大きいんですよね。多賀城に国府があったからこそ鹽竈神社があり、松島に瑞巌寺前史の松島寺ができたわけなので。
津川
津川
多賀城は当時の日本では外に対する防御の拠点だったので、この辺りの中心だったんですよね。時代とともに軍事的な役割が薄れて、衰退してしまったようなんですが。
佐藤
佐藤
「宮城」という地名は、多賀城があったことからきているので、多賀城は宮城の原点なんです。
谷津
谷津
たどっていくと全てに理由があるんですよね。もとは里浜に何千年も縄文人が定住していた、人が住み続けてきた土地だという下地があって、だからこそ塩が作られていて、だからこそ多賀城がここに来たんだと、私もこのプロジェクトを通じて学びました。
津川
津川
そういったことを考えると、歴史と今の両方を汲み取って「湾」という発想のもとに連携していくのは正解じゃないかなと思います。
佐藤
佐藤
地域の人がそれを再認識すると、生まれてくるもの、出来上がるものも変わってくる気がします。
五十嵐
五十嵐
面白がれる仲間を増やすのも大事ですよね。こういうアクションとか考えとかを一緒に面白がれる、湾を楽しめる仲間が増えていくのが大事だと思います。それが一番のエネルギーというか、原動 力になっていくんじゃないかと思います。
湾

※このページでは、2014年12月21日に行われた「海辺の記憶をたどる旅展」で行われたクロストークの内容を掲載しています。

対談者紹介

佐藤 綾
佐藤 綾
(松島町役場産業観光課観光班長)
松島町の国宝瑞巌寺の参道のすぐそばで生まれ育つ。職業として観光振興に取り組むと共に、生まれ育った素敵な町の魅力を多くの人に伝えることをライフワークとして活動中。好きな言葉は「袖振り合うも多生の縁」。
五十嵐 靖晃
五十嵐 靖晃
(アーティスト)
東京藝術大学大学院修了。土地に住み、そこで出会う人と共に、普段の生活に新たな視点と人の繋がり をつくる試みを行う。代表作は、福岡県太宰府天満宮との協働プロジェクト「くすかき」、住民たちとともに新たな風景をつくり上げる「いろほし」「そらあみ」など。
津川 登昭
津川 登昭
(一般社団法人チガノウラカゼコミュニティ理事長)
塩釜市生まれ、多賀城市在住。仙台の広告制作会社へ所属しながらチガカゼを主宰。湾地域の兄弟性を感じ、地域の自慢観光や自慢教育の拠点としての「湾の駅」構想を提唱している。
谷津 智里
谷津 智里
(つながる湾プロジェクト事務局)
東京都出身、白石市在住。2011 年、Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)のスタッフとなる。2013 年より同事業コーディネーターとして、塩釜のメンバーとともにつながる湾プロジェクトを作り上げてきた。2015年より、つながる湾プロジェクト事務局を担当。