空間の記憶をつなぐ

海をテーマにしたアートプロジェクトでありながら、陸に掲げられた2015年度の「そらあみ –多賀城–」。

アーティスト・五十嵐靖晃さんは、「海からの視点」に共通するものを、舞台となった「多賀城」に見出していました。

連綿と続く時間を経てきた空間の記憶を、アートプロジェクトがどうつなぐのか。
そのことが、どんな未来をつくるのか。
地域の考古学の専門家と一緒に語り合いました。

聞き手:小野 史典(多賀城市地域コミュニティ課長)

バード

多レ賀城

小野
小野
今日のイベント「海辺の記憶をたどる旅展2015」のサブタイトルが「多レ賀城」となっていて、地名である「多賀城」の多と賀の間にレ点が入っていますね。「よろこびおおきしろ」と読むんですが、僕はこれをとてもいいコピーライティングだと思っています。この「多レ賀城」について、高倉さんに解説していただければと思います。
チラシ画像
高倉
高倉
たぶん、「何て読んだらいいんだろう」とみなさん思ったと思います。各地にある史跡の名称について、由来がいろいろ研究されていますが、ほとんどのものは地名に由来すると考えられているんです。ところがこの「多賀城」というのは、違う経緯でつけられたんじゃないかと。「賀」というのは「賀正」という言葉でも分かるように「喜び」という意味なんですね。「多レ賀城」で「よろこびおおきしろ」と読めます。実は中国の中華思想に「多賀国家人民息(たがこっかじんみんをやすんず)」という言葉がありまして、つまり「喜びを多くして国も人民も平和な生活ができる」という、そういう言葉です。この言葉から「多賀城」という名前がついたと考えられています。
「多賀城」というのは1200年前に今の多賀城市にあった日本の要衝です。当時、奈良に都ができて、南の九州には大陸からの進攻から日本を守るために大宰府ができた。一方で、当時の東北の、まだ日本という国家に組み込まれていない地域に住んでいた人たちを「蝦夷(えみし)」という蔑称で呼んで進攻した。その中心の役割を果たしたのが多賀城なんです。つまり大宰府と多賀城はその頃の日本の、外地に対する最前線だった。その場所に、中華思想をもとに「よろこびおおきしろ」という名前がつけられていたんですね。
小野
小野
塩竈の港は、多賀城の津(港)、「国府津」だったんじゃないかという話がありますね。
高倉
高倉
多賀城の東の門から下っていくと塩竈の港に着くんですが、ここに香津(こうづ)という町の名前があります。「こうづ」というのは国府の港という意味の「国府津」が変化したと考えられています。つまり塩竈港は多賀城の港、多賀城を支える港だったわけです。1200年前から多賀城と塩竈の港は切っても切れない関係にあると考えていいわけです。
おさらいノート
小野
小野
つながる湾プロジェクトは「海から見た視点」を軸に活動している訳ですが、この地域で海から陸を見る、という場合の海は松島湾です。松島湾は仙台湾の支湾の一つで、さらに松島湾の支湾として塩竈湾があります。
高倉
高倉
私はもともと考古学の専門家なので、スコップ片手に遺跡の調査をして、調査結果の評価をしながら歴史を体系づけるという世界にずっといたんですね。なので、陸地からしか物事を考えていない。最初につながる湾プロジェクトの「海から見ると陸地は全部つながって見える」、どこからどこまでが多賀城でどこからが塩竈で松島でっていうのは関係無いんだという概念、つまり「海の視点から陸地を見る」という話を聞いたときに、なるほどなと思いました。私は自分の仕事の中で、歴史という過去の事実を現代の生活とどうつなげていくかを追求していきたいと考えているんですが、「つながる湾」の概念は実は歴史ともつながるんですよ。さきほどお話した奈良時代には、今の多賀城市よりももっとずっと広い範囲が「多賀城」だったんですね。それはやはり地形に基づいて決まっている面が大きくて、だから「つながる湾」の考え方には非常に大きな意味があるので、とても面白い、とってもいい視点だと思っています。

いのちを育み続ける松島湾

松島湾
小野
小野
五十嵐さんはアートプロジェクトで全国各地いろんなところを回っていますが、松島湾は他の地域と比べてどんな印象でしょうか?
五十嵐
五十嵐
ちょうど昨日は、富山湾の氷見市にいました。富山湾から松島湾へと移動して来たわけなんですけど、この2つは「世界で最も美しい湾クラブ」に登録されていて、日本で登録されているのはこの二つだけなんですね。そういう二つの美しい湾を2日間で見ているわけです。富山湾には氷見から見ると立山連峰が見えます。海の上に水平線があり、水平線の上に3000m級の連峰があり、その上に空があって、朝日が昇ってくる。急勾配の山の斜面がそのまま富山湾につながっているので、平たいところがとても少ない湾なんです。港から出たらすぐ何百mっていう深さがある。逆に松島湾は、遠浅の海が広がって多島海が形成されていて、この世とあの世をつなぐ彼岸のような、まさに極楽浄土のような風景があります。深くて山がどーんとある富山湾と、遠浅の松島湾、縦軸と横軸のような対比ができますね。漁の仕方も違っていて、富山湾は定置網漁でイワシからクジラまで同じ網で獲るんだそうです。松島湾は海苔の養殖だったり牡蠣の養殖が盛んですが、共通点は「海の畑」みたいなイメージ。定置網漁をする人たちも、朝一で網に入った魚を市場に揚げたら午後は農業をする半農半漁みたいなスタイルで暮らしていて、海はハンティングしにいく場所ではなく育む場所、育てる場所みたいな感覚を持っている。そういうところには共通点がありますね。
小野
小野
漁網を使った漁はものすごく昔からあったと思うんですが、この辺(松島湾)には縄文遺跡も多いですね。
高倉
高倉
松島湾は貝塚の数が日本で第3位なんです。縄文時代からとっても人が多く住んでいた、住みやすい場所だということですね。人が集まるということは、食糧があって生活に不安を感じない場所だということです。また、松島湾は海だけじゃなく背後に山もありますので、交易が発達するような場所なんですね。日本の貝塚の中で一番大きいと言われるのがこの松島湾の宮戸島にある里浜貝塚です。ここは縄文時代から非常に長い間人びとが生活していて、今、宮戸島に住んでいる人たちの先祖は縄文人だと思ってもいいくらいの場所です。食糧が豊富なのと、塩ですね。塩作りが盛んに行われたのも松島湾の特徴です。縄文時代の晩期から古代、中世、ずっと引き継がれて今でも「藻塩焼神事」として残ってますよね。塩作りの文化は松島湾で古い時代からずっと受け継がれてきた。塩が無ければ人間は生きられません。人間が生きるために欠かせないものが海の恵みで作られている。これはまさしく松島湾の文化の成り立ちにつながっていると思いますね。

視点が交錯する場所

小野
小野
五十嵐さんは漁網を使ったアートプロジェクト「そらあみ」を松島湾でやっていて、これまで浦戸諸島、松島町と舞台を移し、2015年の夏は多賀城でやっていただきました。一方で多賀城市は、さきほど高倉さんのお話にもあった九州の太宰府市と友好都市になっていて今年10周年を迎えたんですが、 五十嵐さんはその太宰府でも「くすかき」というプロジェクトを以前からやっていらっしゃいます。多賀城と太宰府でのプロジェクトについてお聞かせいただけますか?
五十嵐
五十嵐
今ご紹介いただいたように、太宰府天満宮で継続的に続けている「くすかき」というアートプロジェクトがあります。本当に不思議なご縁で、先に太宰府でやっていて、気がついたらつながる湾プロジェクトで多賀城で「そらあみ」をやることになった。自分でも面白いなあと思ってやっています。
僕はふだん、土地に入っていって一定期間滞在しながらその場所の人たちと一緒にその風土に合うものづくりだったり、参加型のイベントのようなことをしています。このトークのテーマである「空間の記憶をつなぐ」というキーワードで考えると、その場所を機能させるソフトとしてのアートプロジェクトをその土地にインストールすることで、その土地が輝いたり魅力的に見えたり、ふだん見落としがちなことを見つめ直すきっかけを作るようなことをしています。「そらあみ」は、漁師さんたちや一般の方と一緒に漁網を編むことで人と人がコミュニケーションしてつながっていって、同時に土地の記憶、歴史もつないでいく。一連の行為を通して、漁網を編むという縄文の頃から続く所作をつないだり、土地の歴史について振り返り、出来上がった網の目を通して土地の風景を見直すというアートプロジェクトです。
そらあみ
五十嵐
五十嵐
多賀城での「そらあみ」のテーマは「南北大路をつかまえよう」ということでした。今回の作品は最終的に多賀城政庁跡に展示させてもらったんですけど、多賀城政庁には南北大路という幅12メートルもある道路があったそうなんです。当時、こんなに広い道は必要無かったらしく、意味合いとしては、中央権力に従わない蝦夷に対して威厳を示すために作られたそうなんですね。ということは、当時、太宰府の海の向こうが外国だったように、多賀城より北の地域は外国だった。まさにここは国境線だったのかなと。視点とか価値観の違う人たちが考えや視線を交錯させていたのが多賀城だったのではないかと。その象徴が南北大路だったのかなと思って。そうしたかつての南北大路を網越しに見つめることで、今の時代と重なる部分と変わった部分を考えてみたら面白いのではないか、という試みでした。実際に海が見えなくても、外から自分たちのいる場所を見るという「海からの視点」を持てる背景を持った場所、ここが波打ち際だとイメージすることもできる場所が多賀城なのかな、と思いました。
小野
小野
私も展示された「そらあみ」を見たんですが、空に掲げられた「そらあみ」を通して遠くを見ると、風景が違って見えるんですよ。「そらあみ」の話を聞いた時点で五十嵐さんの表現方法に何かしら共感できるところはあったんですけど、実際に自分の目で見ると、見慣れた政庁跡の風景が本当に新鮮に見えました。
そらあみ

空間を活かす「場」をつくる

五十嵐
五十嵐
去年は松島町で瑞巌寺や雄島に展示して、それなりにハードルが高かったんですけど、多賀城政庁は国の特別史跡で、これね、許可出ないんですよ(笑)編むのはみんな楽しんでくれて、盛り上がって行くぞっていう雰囲気になるんですけど、最後の最後まで、果たして我々が編んだ網は掲げられるのかってヒヤヒヤしましたね。小野さんを初め、行政の方が協力してくださって最終的に展示することができたんですけど。史跡になっちゃうと何も出来ないのってちょっともったいないなって。大宰府政庁でこないだ「ももいろクローバーZ」がライブしたの知ってます?ちょうど僕、あの頃太宰府に行ってて、お宮の人ともお話したんですけど、いろいろ大変だったんですやっぱり。でも、僕の意見としては、場所の可能性を広げるという意味で重要な挑戦の一つなんじゃないかと。表層だけをとらえて歴史的にうんぬんとか言うことより、重要なのは、事を起こすことでその土地のことについて、史跡のことについて考えるきっかけになることかなと。もちろん、そこに暮らしている人たちや、歴史をつないできた人たちが気持ちを重ねられる量が多いものの方がいいとは思うんですけど、全くノータッチでただそこに史跡がある状態よりは、時折考えたり関わったりできる、そういう「幅」を広げる挑戦だったんじゃないかなと思っています。
太宰府天満宮「くすかき」
五十嵐
五十嵐
その太宰府天満宮で「くすかき」というプロジェクトをやらせていただいているんですけど、太宰府には千年ぐらい生きている樟がたくさん生えていて、春になると、葉っぱが新芽に押されてたくさん落ちてくるんです。1994年まで、その中でも特に大きな樟が生えていたんですけど、参拝客が増えて根踏みされて枯れてしまったんです。毎年1回、春、落ち葉が落ちる時期に、地元の人たちと朝のラジオ体操のように落ち葉を集めて、その樟を思い起こすような風景を作り上げるということをやっているのが「くすかき」です。集めた樟の葉っぱで匂い袋を作って、それを配って寄付金を集める方法でプロジェクト運営をしていて、樟が千年生きるようにプロジェクトも千年続いていくように、大きな声では言えないんですけどお祭りを作りたいなと思って。千年続くお祭りにもきっと1年目があったと思うので、「くすかき」は今年で6年目なんですけど、続けながらちょっとずつステップアップしていって、去年から、集めた樟の葉から取り出した香りを神様に奉納するようになりました。ラジオ体操みたいに地元の小学生とかお父さんお母さんに来てもらって、葉っぱをはわいた子たちがスタンプを押していく。実際にこの写真の真ん中の円ぐらいの大きな樟があったんですけど、最後に根っこの形を箒を使ってみんなで作って、一年で一日、この日だけ、そこにあった木の記憶をつないでいく場を作っている、という風景です。
太宰府天満宮
五十嵐
五十嵐
多賀城もそうですし太宰府もそうですけど、連綿と続く時代の続きに我々も生きていて、それを次の時代にどうつないでいくかと考えたとき、いろんなアプローチの一つとして、みんなで関わることで「場」を作っている、というイメージです。その「場」で、「多賀城ってこうだよね」っていう話も聞けたり、みんなで語り合ったり。多賀城は政庁跡の史跡の中に住んでる人たちがいますよね。びっくりしたんですけど。そういう方はいずれは減っていく方向なのかもしれないですけど、「昔ここで運動会してたんだよ」なんていう話を聞くと、「そらあみ」が、あの場所を機能させていくための挑戦になっていたり、地元の人にとって可能性が広がるきっかけになったらいいなというのは、多賀城で「そらあみ」をさせてもらって思ったことですね。 
小野
小野
高倉さんは今、観光協会の事務局長をされています。五十嵐さんがやっているようなアートプロジェクトを観光と融合させると、もっと面白くなるんじゃないかと思うんですが。
高倉
高倉
私と小野さんは30年前上司と部下の関係だったんですけど、実はその時に「闇に蘇る多賀城」っていうイベントをやったんです。暗くなってから、かつての政庁の南門の姿をレーザー光線で復元したんですね。今、縁があって観光協会というところに籍を置いていますが、子どもたちが年に何回か多賀城に行って楽しめるようなことができたらいいし、彼らが大きくなった時に郷土を愛する力につながるような環境づくりをやっていかなくちゃいけないんじゃないかと思っています。

懐かしい未来

小野
小野
アートって、五十嵐さんがおっしゃったようにコミュニケーションのきっかけにもなるし、歴史を次の世代に伝える術になったりもしますよね。2020年に開催される東京オリンピックでは文化プログラムの充実を図ろうという動きがあって、地方自治体も少しずつ文化芸術をもとにしたまちづくりということをあらためて考えるようになってきています。そんな動きを五十嵐さんはどのように見ていらっしゃいますか?
五十嵐
五十嵐
僕の爪に青い色が残っていると思うんですけど、実は最近、東京オリンピックの文化ブログラムを推進するためのリーディングプロジェクトとして東京都がやっている「TURN」という事業で藍染めをしているんです。TURNでは、障がいを持った方だったり、いろんな個性、個を持った人が関わり合いながら暮らしていける社会づくり、場づくりをしていこうという一つの概念があって、僕らみたいなアーティストが福祉施設や障がい者の方のコミュニティに飛び込んでいって、関係性を作りながら作品を産み出していくという試みをしています。東京の町田の森の中に、古民家を改築して藍染めや機織りをしている福祉作業所の工房があって、今、そこに行っているんですね。そこで働いている人たちは、ずっと歌っている人がいたり、ずっとしゃべっている人がいたり、逆にじっと黙っている人がいたり、いろんな人がいるんです。最初、そこへ行くのにちょっとドキドキしてたんですけど、実際に中に入ってみると、いろんな個性のグラデーションの中に自分の居場所が見つかって、居心地のいい空間になっていって。僕は五十嵐靖晃というんですが、他にも五十嵐さんという人がいたので「やすあきさん」と呼んでもらうことになって。「やすあきさん」というみんなに呼んでもらう名前と、藍染めのあるセクションの役割を担うことで、そこに居場所ができていく。みんな得意なこと、不得意なことがあって、藍染めをしている人も織物をやっている人も、10年くらいずっと同じことをしていたりする。それぞれができることとできないことのバランスを施設長の人が見ていて、適材適所でやってるんですね。そうすると、結果として緩やかなつながりみたいなものがそこに生まれていて、言葉は交わさないんだけど、そこでできあがる染織品のように、複雑で鮮やかな色が折り込まれて1枚の美しい布が仕上がっていくような世界があって。こういう社会のあり方ってあるんだなと。言葉にすると「懐かしい未来」みたいな場所に出会った感覚があって。
TURN
五十嵐
五十嵐
これって、「海からの視点」に似ているんです。20代の頃に太平洋に出て海から日本を見た時と同じような新しい発見がそこにあった。ポイントになっているのは、いろんな個性に応じたいろんな居場所があるということと、手を使ってものを作っているということです。手を使って作業することで、いろんな仕事が生まれ、関わりしろが多くなる。畑を耕して綿花を作って、綿花から糸を紡いでそれを染めて…手間も時間もかかるんですけど、関わりしろがある分、自分の居場所が生まれて、豊かな時間がそこに生まれてくる。「そらあみ」や「くすかき」でやろうとしていることも、そういうことなんです。関わりしろがたくさんあって、みんなでゆるやかにつながりながら場と物ができていく。歴史的背景があったり、手を使ったもの作りの技術が残っているような場所ほど、そこに光を当てられれば、これからもっと力を持てる時代が来そうだなという感じがすごくしていて。多賀城は太宰府に比べたらとってもマイナーなので、もったいなくて。多賀城らしさを、身の丈にあった歩幅で作っていけると、もともとのポテンシャルが高いので、暮らしている人たちが豊かさをより感じられる場所になっていける気がします。
高倉
高倉
今の話を聞きながら思ったんですが、私たちは現代の生活にどっぷり浸かって、何の不自由もなく生活できますよね。20分で行けるところに仙台があって、仙台に行けばなんでもあるし。そういう生活に浸かっていてはダメなのだろうなと。太宰府ではムラサキグサの根っこで染色をしているんですけど、それを今、実は多賀城でもやってるんです。友好都市として太宰府市を訪問した時にムラサキグサの根っこをいただいてきたのがきっかけなんですが、そういうつながりを活かしたこれまでに無い場づくりっていうのはいろいろなところでできるんだなと思っています。それから、もっともっとみなさんが多賀城について知る機会を作らなくちゃいけないと思います。その思いで、今、多賀城の街の中に千年前の南北大路を作っています。当時の街並のデザインを今の街並の中に存在させることで、日常の中で歴史を感じてもらいたい。「歴史のまちです」と言っているだけではダメで、生活の中に溶け込ませるようなことをしなくちゃいけないということを考えています。
五十嵐
五十嵐
僕、今ひらめきました。多賀城って「よろこびおおきしろ」じゃないですか。僕らが生きている時代は、幸せについて考え直さないといけない時代、そういう巡り合わせにいると思うんです。だから提案したいのは、多賀城を「喜びとは何か」ということについて日本で一番、世界で一番考える土地にしていく。なぜならここは、1200年前からずっと「喜びについて考える城」だったから。いろんな時代を経てくる中で、常に人は、喜びとは何か、幸せとは何かをずっと考え続けていたと思うんです。多賀城が「喜び多く生きる」ことについて考えるための場所になっていけたら、未来に向かいながら、1200年の歴史もつないでいけるんじゃないでしょうか。
小野
小野
「つなげる」とか「つながる」っていうのは、紐で結んだから、箱に入れたから、一つの空間にいるからつながっている、ということじゃない。人の営みとか行動から生まれてきたコトでつながっていくということなんですね。それを、今日のお話を聞いて心から感じました。お二方、ありがとうございました。

※このページでは、2015年12月19日に行われた「海辺の記憶をたどる旅展2015 –多レ賀城–」で
行われたクロストークの内容を掲載しています。

対談者紹介

五十嵐 靖晃
五十嵐 靖晃
(アーティスト)
東京藝術大学大学院修了。土地に住み、そこで出会う人と共に、普段の生活に新たな視点と人の繋がり をつくる試みを行う。代表作は、福岡県太宰府天満宮との協働プロジェクト「くすかき」、住民たちとともに新たな風景をつくり上げる「いろほし」「そらあみ」など。
高倉 敏明
高倉 敏明
(多賀城市観光協会事務局長)
東北学院大学卒(考古学専攻)。多賀城市の文化財専門職員として遺跡の発掘調査、文化財の指定保存や多賀城南門復元事業に従事。退職後、平成26年から現職。「文化財を活かしたまちづくり」を提唱し、多賀城市の遺跡と都市計画の共生および新たな歴史観光都市としての再生を目指している。
小野 史典
小野 史典
(多賀城市地域コミュニティ課長)
多賀城市役所入庁27年目。企画課、政策秘書などを経て現職。「迷ったらとにかくやってみる!」をモットーに、自治力の高いコミュニティづくりやシビックプライドのあるまちを目指し、目下奮闘中。