谷津 智里

谷津 智里
谷津 智里
Chisato Yatsu
事務局、広報、被災地支援事業コーディネート

地域を愛する人たちとの活動を通して
「つながる湾」の価値を強く感じた

2019年秋現在「つながる湾プロジェクト運営委員会」の事務局を務める谷津智里は、2011年からさまざまな立場で塩竈・松島湾周辺の活動に関わってきた。居住する宮城県南部の町から片道1時間かけて現地に通いながら「つながる湾プロジェクト」発足に至る過程を並走し、プロジェクト始動後も運営に尽力してきた谷津の思いを聞いた。

東京都の被災地支援事業で塩竈に関わり始めた

加藤
谷津さんは東京生まれ、東京育ちなんですよね。
谷津
はい。高校、大学も、就職も東京です。
加藤
では、日常的に海に親しんでいた感じではない?
谷津
そうですね。子供の頃は家族で千葉に海水浴には行ってましたが。
加藤
海のあるところに出かけていく感じですね。就職は出版社。編集職でしょうか。
谷津
いえ、営業や販売管理、広報、通販事業などを担当していました。30歳のとき、夫が家業を継ぐために宮城県白石市に戻るということで、私も退職して引っ越しました。
加藤
その3年後に東日本大震災。どうしてASTT※1に関わるようになったんですか?
谷津
2011年の7月に東京都でASTTが立ち上がり、宮城県で事業をする上での事務局を大河原町にあるえずこホール※2が引き受けました。そのころ私は沿岸部に絵本を届けるボランティアに携わり始めたのですが、活動の中でえずこホールの所長さんと縁があり、えずこホールの臨時職員として雇ってもらうことになったんです。
加藤
なるほど。えずこホールの職員としてASTTに対応する担当になった。
谷津
そうです。2011年の9月から。宮城県内のいくつかの地域でASTTの事業が動いて3、えずこホールが東京都と各地域のつなぎ役をしてた感じなんです。私は各地域の人と企画の調整をしたり契約書を交わしたり、現地の様子を東京都側に報告したりしていました。
加藤
その「各地域」のひとつが塩竈だった。2011年の段階で、ASTTと塩竈との協働って何なのでしょうか?
谷津
その時点ですでに高田さん(高田彩)たちが、塩竈市内の仮設住宅や避難所に絵本や文房具を届けたり、ワークショップをしたりしていたんです。その高田さんたちの被災地支援の延長でASTTが関わり始めました。アーティストと一緒に仮設住宅内で聴けるラジオ番組を作ったのと、仮設住宅のテーマソングを作ったのがそれにあたります。
加藤
ではその時点で、東京都のASTTと、塩竈の高田さんたちとのやりとりを谷津さんが仲立ちしていた。2012年もですか?
谷津
そうです。塩竈での2年目の事業について検討しているとき、高田さんから、寒風沢島※4で秋祭りを復活したいという声があるからそれをアーティストの力でサポートしたいという案が出た。それで8月に、ASTTの李青さん(佐藤李青)たちと一緒に浦戸諸島をリサーチしたんです。その結果ASTT側としては、寒風沢1島じゃなくて浦戸諸島全体で考えた方がいいという話になった。それで、地域を舞台にしたアートプロジェクトの経験がある日比野さん※5や五十嵐さん※6と一緒に12月にもう一度浦戸諸島を視察したわけです。
加藤
その12月のリサーチの夜にビルド※7で打ち合わせがあったのですね。 津川さん(津川登昭)も参加したと聞いています。
谷津
はい。高田さんはそれまで、あくまで地元の人の要請に応じて自分にできること(アート)で支援しようとしていたので、地域全体をフィールドにする東京都側の考えに戸惑っていて。地域全体のことを考えられる人として高田さんが津川さんに協力を仰いだんです。
加藤
そこで津川さんが示した「湾」の視点が、のちの「つながる湾プロジェクト」の軸になっていくことになるわけですね※8。谷津さんは8月、12月のリサーチも、ビルドでの打ち合わせもずっと一緒だったんですよね。その当時谷津さんは、宮城県内の各地域のプロジェクト全てにそれぐらいの深さで入り込んでいたのですか?
谷津
いえ、プロジェクトによって東京都の関わり方も予算規模もいろいろなんです。単発のイベントもありましたし。だから私の関わり方も対象地域によっていろいろでした。
加藤
その中で塩竈に関しては、2012年度の時点で「浦戸諸島全体をフィールドに」みたいに「これから」の話をしてる。東京都としては、他の地域よりも長期的に支援する地域として捉えていたということなんでしょうか?
谷津
その可能性がある地域として考えていたのだと思います。
加藤
だけど現地側にはあまりそういう意識はない。
谷津
はい。でも、12月の打ち合わせで津川さんが「湾の駅※9」の話をしたときには、みんな、そのコンセプトなら共感できるという感じがあったんです。その後、話を重ねていく中で、TANeFUNe(以下「タネフネ」)を浦戸諸島に持っていこうという話が東京都側から出て、高田さんが船を預かることになりました。
加藤
それで、翌2013年5月の「塩竈浦戸のりフェスティバル」※10のときにタネフネが松島湾に登場することになる。
谷津
高田さんとしては、復興イベントとして「のりフェス」を企画している人たちがいたから、それをタネフネが盛り上げてくれたら、と考えたのだと思います。だから「のりフェス」が終わったらタネフネは帰るものと思ってた。でもタネフネは、旅すること、現地の人と交流することも含めたアートプロジェクトなので、東京都側や日比野さんはすぐに帰らせるつもりではなかったんです。
加藤
とはいえ、ASTTとして現地に何をさせたいかがハッキリしていたわけでもない。
谷津
ASTTの考え方としては、東京都側が決めたものを地域で受けてもらうんじゃなくて、現地の人の主体的な活動を支援するというスタンスなんです。
加藤
でも現場側としては「何かやらなきゃいけないの?」ってなりますよね。
谷津
そうですよね。「何をやらせようとしてるの?」みたいな。そのギャップはあったので、最初はなかなか両者が噛み合いませんでした。
<脚注>
  • ※1 「東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業(Art Support Tohoku-Tokyo)」の略。「つながる湾プロジェクト」は同事業のひとつ。
  • ※2 宮城県南部の大河原町にある文化施設「えずこホール仙南芸術文化センター」。
  • ※3 ASTTが関わる事業は石巻市、女川町、山元町など宮城県内各地で実施されていた。
  • ※4 松島湾の湾口部に並ぶ浦戸諸島のうちの1つ。浦戸には寒風沢島を含め4島の有人島があり、すべて塩竈市に属する。
  • ※5 アーティストの日比野克彦氏。 https://www.hibinospecial.com/
  • ※6 アーティストの五十嵐靖晃氏。 http://igayasu.com/
  • ※7 高田彩が2006年に開設したアートギャラリー「ビルドスペース」。
  • ※8 のちの「つながる湾プロジェクト」のコンセプトは、2011年に津川が松島湾エリアに着目したことがベースになっている。
  • ※9 津川が唱えている、松島湾周辺に7つの「湾の駅」を設置してネットワーク化する構想。
  • ※10 浦戸諸島の復興支援を目的に、市民有志によって開催されたイベント。

2013年、プロジェクトが一気に動き出した

加藤
そんなギャップの中なのに、いきなり「そらあみ」と「タネフネカフェ」が始まる。8月の1ヶ月間。そのための構想、準備をその年の初夏ぐらいに進めたことになりますね。
谷津
そうです。あまりよくわからない間に「とにかくやるのね?」みたいな感じで一気に進んでいった。高田さんは1ヶ月間運営するため奔走して、いろんな人に声をかけてスタッフを集めた。大変だったと思います。
加藤
結局、「そらあみ」はうまくいったというか、大沼さん(大沼剛宏)も高田さんもとてもいい経験だったって言ってますよね。
谷津
作品もよかったし、五十嵐さんという人物との出会いもあって、刺激を受けたみたいです。
加藤
それから2013年には「チームwan勉強会」(以下「勉強会」)も始まっています。
谷津
勉強会が始まったきっかけはちゃんと覚えてないんですが、タネフネを受け入れるにあたって現地はどうしたらいいのか、という話の中で、津川さんが「船といえば三陸汽船(※11)っていうのがあって」と話題にして、みんながそれに興味を持ったから勉強してみようということになった気がします。最初は勉強会を連続でやろうという感じではなかったかもしれないけど、やってみたら面白くて盛り上がった。
加藤
で、次は何を勉強しようかと。
谷津
そうそう、続いた。地域ネタは津川さんがたくさん持ってましたから。
加藤
「そらあみ」「タネフネカフェ」「勉強会」に加えて、高田さんの主導で「語り継ぎのためのリーディング」も始まった。そんなふうにいろいろなプログラムが次々と形になったのが2013年。そしてこの年に「つながる湾プロジェクト」という名称も決まっている。翌2014年はその勢いのまま各プログラムが継続され、さらにツアーや旅展も始まっていく※12
<脚注>
  • ※11 明治時代に岩手県釜石市に設立された海運会社。三陸沿岸(釜石、宮古、久慈など)と塩釜、東京を結び、米や海産物、旅客などを運んだ。
  • ※12 2014年度に実施されたプログラム「湾の記憶ツーリズム」「海辺の記憶をたどる旅展」。

原点にあるのは「ふるさとがなくなった」経験

加藤
谷津さん自身は2011年からここまでの経緯をずっと並走してきた。
谷津
そうです。現地側の話と東京都側の話を両方聞いて、それぞれに説明するみたいなこと。
加藤
ずっとえずこホールの職員として?
谷津
そうではないんです。私、2011年からえずこホールでASTTの担当をしている間、塩竈も他の地域のプロジェクトも、現場を見なきゃダメだと思って頑張って現地に通っていたんです。震災後だったから使命感もあったし、震災前から「地域」に関わることをしたいと思っていたこともあって、一生懸命やってました。でもえずこホールとしては臨時職員にどこまでやらせるかの難しさなどもあって、私の現地への出張も次第に許可されにくくなった。それで私は、えずこホールを離れて、2013年度からASTTのコーディネーターの役割を東京都から直接請け負うようになっていたんです。
加藤
最初はえずこホールの担当者として、県内各地で動いていたASTTの事業に携わり、塩竈はそのひとつだった。でも2013年度からはその中の塩竈だけが松島湾域をフィールドにする「つながる湾プロジェクト」となって残った。そして谷津さんはえずこホールを離れて個人で委託を受けてでも松島湾域に関わり続けた。それって、谷津さん自身、このエリアに何か思い入れがあったからなのでしょうか。
谷津
さかのぼって話しますね。私にとって子どもの時の思い出とか原風景がある場所は、生まれ育った東京・乃木坂なんです。父の勤務先の社宅である古いアパートに住んでいて、中庭で虫を取ったりしていた。でも13歳のときに引っ越さなきゃいけなくなって、その場所にはソニーミュージックエンターテインメントのビルが立ちました※13。ザリガニを釣ったりして遊んでいた公園は東京ミッドタウンになったんです。
加藤
えー、約30年前に、都心で虫取り、ザリガニ釣り。
谷津
そう。そういう思い出がある場所なのに、風景もガラリと変わって、私には故郷と言える土地がなくなってしまった。乃木坂から引っ越した先も、山を切り崩して全部マンションにしたようなニュータウンで、自分の生活と土地のつながりが感じられなかった。だから私には、地域の文化や自然環境とのつながりの中で人が暮らし続けて町並みができる、みたいなことへの憧れがずっとあったんです。それで、20代で会社で働いているころから、まちづくりに関わることをやりたいと思うようになっていました。
加藤
なるほど。「私、故郷なくなっちゃった」というところから始まって、まちづくりに関わりたい気持ち。
谷津
そうです。だから白石に引っ越すことになったときも、そういうことができるんじゃないかという期待が少しあったんです。でも来てみたら、知り合いもいないし土地勘もなくて動き出せず、震災前には「私、何もできないな」って落ち込んでいました。だから震災後、このASTTの仕事で各地域に携われるのはありがたいと思っていました。それに、ASTTの支援のスタイルにも共感したんです。アーティストが被災者を元気づける、みたいな一方的なものじゃなくて、現地の人とのやりとりを重ねて長い目で何が必要かを一緒に考え、支援する。
加藤
谷津さんがそうやって関わった各地域のなかでも、結果的には塩竈、松島湾エリアとの縁が深くなったわけですよね。
谷津
そうですね。学生時代の旅行で観光遊覧船に乗ったときは、私にとって松島は観光地でしかなかった。でも2012年の8月、ASTTのリサーチで汽船に乗って初めて浦戸に行ったとき、なんて素晴らしいところなんだろうって思ったのを覚えています。「ここは観光のためだけの場所ではなく、人が生活している土地なんだ」ということを強く感じました。
加藤
2013年夏の「タネフネカフェ」とか「そらあみ」のときは浦戸に通っていたんですか?
谷津
はい。浦戸、素敵だな、って思いながら通っていたし、勉強会でも、塩竈は面白くて豊かな土地だな、と思っていました。それに勉強会では地域を愛する人たちや地域に関する活動をしている人たちにたくさん会えた。だから「つながる湾プロジェクト」でその人たちと一緒に地域をテーマに活動できることがうれしかったです。
加藤
そして、2019年現在まで関わってきている。
<脚注>
  • ※13 インタビュー時点で同ビルはジャニーズ事務所の所有となっている。

「つながる湾」には続けていく価値があると思った

加藤
2013、14年度、「つながる湾」のたくさんのプログラムが動いている間、谷津さんは東京都から委託を受けたコーディネーターという立場だったわけですよね。
谷津
そうです。東京都側の考えと現地の状況とをすり合わせ、各プログラムが形になるように調整していました。
加藤
そして2015年度から「つながる湾プロジェクト運営委員会」が立ち上がる。
谷津
現地ではその頃、関わっていた人たちが「そらあみ」や「勉強会」を通じて思いついた企画をどんどん具体化していましたが、まとまったプロジェクトとしての「つながる湾」を担っていくイメージは誰にもなかったんです※14。でも東京都側としては最終的に活動が現地に根付くことが理想的と考えていたので、今後も続けるなら現地の団体に主催者になってもらったほうがいい、という流れがありました。
加藤
それで、現地に「運営委員会」を立ち上げることになった。
谷津
はい。そして私は「運営委員会」から事務局として雇われる立場になりました。それまで中心になってプログラムの運営を担っていた高田さんが本業で忙しくなっていたので、現地の事務的なことを私が引き受ければ、他のみんなのスキルとアイディアでプロジェクトが動いていくんじゃないかと思ったんです。私自身、豊かな地域資源と、素晴らしいコンセプト、いろいろなスキルやアイディアを持つ人が揃う「つながる湾」には、続けていく価値があると思っていましたから。
加藤
谷津さんの、活動への関わり方は変わりましたか?
谷津
2013、14年度は自分は東京都側の人間で、活動をサポートする立場だから、あんまり現地に入り込めずにいました。でも継続的に関わる中で、もっと自分自身が体験したかったし、現場の、「つながる湾」の人として関わりたい、って思うようになっていたんです。だから2015年度は「そらあみ」にたくさん通ったり、勉強会を企画したり、積極的に活動しました。
加藤
「運営委員会」の体制になって、「つながる湾プロジェクト」に変化はありましたか?
谷津
「つながる湾プロジェクト」という枠組みを運営していくつもりはない、という点では、みんなの気持ちは変わらなかったように思います。あるときメンバーの1人に、地元の人が地域のことを伝えるためのプログラムを形にしているんだからそれでいい、「つながる湾プロジェクト」としてどうあるべきかを考える必要はない、という意味のことを言われたのを覚えています。でも私としては、東京都の事業の枠組みでお金が出ていて、共同主催という形で話し合いながら進めているものなのだから、やっぱりその枠組みも踏まえて、あるべき形を考えないといけないと思っていました。
加藤
「運営委員会」では当時、それ以降の活動内容の方向性についても議論されていたんですよね。
谷津
はい。その議論でもメンバーの意見がまとまらないことが多くなっていました。その中であるとき大沼くんが「今後もいろんな人が関わって楽しめる現場を作りたい。それが『つながる湾プロジェクト』らしい活動だと思う」という意味のことを言ったのが、強く印象に残っています。
加藤
大沼さんの話だと、大沼さん自身も2014年ぐらいまでは「つながる湾プロジェクト」自体にはあまり関心がなかった。「そらあみ」とか「タネフネカフェ」とか個別の企画で積極的に動いてはいたけど。でも2015年ぐらいのどこかの時点で、そういう発言が大沼さんからあったんですね。2015年は大沼さんが運営委員会の代表になった年でもありますね。
谷津
代表になったのは成り行きの面もあったと思います。でもその発言で、「つながる湾」に対して「こうしたい」という意思を持っているんだな、ということを知れた。もし誰も「つながる湾」という枠組みに関心がない、ということだったら、私は「それなら東京都の事業を受けるのはやめよう」と言っていたと思うんです。でも大沼くんに限らず運営委員会の意思としても、東京都との共同事業を継続していくという流れであると私は感じていたので、そのなかで自分が果たせる役割を考えていました※15
加藤
2016年の前半、僕が打ち合わせに参加するようになったころ、もうプロジェクト自体をやめたら、的な話の余韻を感じたのは印象に残っています。ただ、前年までの話の流れは詳しくはわからないけど、2016年も事業が継続していたから僕も仲間に入れたし、その年に始まった「松島湾とハゼ」を体験し、「松島湾のハゼ図鑑※16の制作にも関われた。そして谷津さんは2016年度の最後で「ノック!」※17を作った。
谷津
私は「つながる湾プロジェクト」にはすごく価値があるとずっと思っていました。ほかの地域から見たらうらやましい事例だし、ほかの地域に参考にしてほしいという思いもあった。だから自分ができることとして、「つながる湾」の価値を外の人に伝える本を作ることに意義があると思ったんです。
加藤
谷津さんが「ノック!」を作るにあたって、「つながる湾」がやってきたことの価値というか意義についてメンバーに訴えていたのは僕も覚えてます。
<脚注>
  • ※14 この点について当時のメンバーの1人は、「『つながる湾』の目的は『地域での活動を通じて地域の魅力を伝えていくこと』であり、そのこと自体は他のメンバーも続けようとしていた」との見解を示している。
  • ※15 これについて当時のメンバーの1人は「自分を含む複数のメンバーは、『東京都の予算を前提としない形でのプロジェクトのあり方を考えよう』と発言していた。しかし当時の議論自体が東京都の事業の枠内で『つながる湾』を動かすことを前提として進められていたので、話が噛み合わなかった」と述懐する。
  • ※16 2016年度以降、K.Sが中心となって「松島湾のハゼ図鑑」「松島湾の牡蠣図鑑」「松島湾の船図鑑」を制作・発行した。本インタビュー日の時点では4冊目となる「松島湾の遺跡図鑑」を制作中であった(「遺跡図鑑」は2020年3月に発行)
  • ※17 「ノック!-じぶんの地域ともう一度出会う10の扉

「つながる湾」が築いたものを地域に残せる気がする

加藤
最後に、ASTTが支援する形での「つながる湾プロジェクト」はどこかの時点で終わるわけですが、どんな形で終わるのがいいと思いますか。
谷津
今の流れなら、いい形で残せるような気がしています。そもそも継続するための壁って、誰がどうやってプログラムを作り続けていくのか、ということだったわけです。それでメンバーを増やそうとしたりもしていたけど、なかなかうまくいかなかった。でも「湾をめぐるパスポート」や「文化交流市場」を通して、自分たちで全部の企画を作ろうとするのではなく、すでに松島湾で活動している人たちをつなぐ場として「つながる湾」が機能する、という方向性が見えてきた。松島湾近辺の人たちの個別の実践をつないでいくことで、地元の人たちが日常的に湾の文化に親しめるようなしくみを作ることができるような気がしています。
加藤
そうなっていった時に、谷津さん自身はどういう関わり方になっていくのでしょうか。
谷津
かつて一緒にやってた仲間、みたいな感じかな。イベントなどに参加することはあると思うけど、今までのようにプロジェクトの中に自分がいるというイメージはないですね。ASTTの出口と一緒に私の出口もあると思っています。

区切り

インタビュー日:2019年10月9日
インタビュー・まとめ:加藤貴伸

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