谷津 智里

谷津 智里
谷津 智里
Chisato Yastu
事務局、広報、
被災地支援事業コーディネート

インタビュアー:加藤

加藤
谷津さんの場合は、誰目線、というか、どの立場でどういう風に関わってきたのかなというところが多分他の皆さんと全然違うポジションだと思うので。その目線でどう感じてきたのかというところが一番の話しどころになるのかなと思うんですけど。
谷津
はい
加藤
えっと、東京生まれ?
谷津
そうです。
加藤
東京育ち?
谷津
はい
加藤
高校も東京、大学も東京。
谷津
会社入ったのも東京です。
加藤
あーそっか
谷津
30歳までずっと東京です。
加藤
あの、手帳の、
谷津
そう、高橋書店です
加藤
そこで、手帳じゃなくて本の編集だよね?
谷津
いやそれが私編集やってなくて。営業と販売管理やって、その後広報とか通販事業とかやってました。
加藤
書籍なんですか、扱ってたのは?
谷津
いや、手帳なんですよ。基本的には出版社なので書店で売る手帳を作ってるんですけど、本革手帳というのをやってて、それは直売してたんですね、お得意様に。それのカタログを作ったり、案内して予約承ったり。あと自社のウェブサイトをリニューアルするのにそれを担当したりとかしてましたね。
加藤
手帳そのものの企画とかは、
谷津
手帳そのものの企画はやってなかったです。
加藤
高橋書店にいる間はずっとそういう仕事?
谷津
最初が営業で書店まわりしてたんですよ。書店にその、新刊置いてくださいとか、これなくなっているから補充してくださいとか。っていうのが一年目。
加藤
それ書籍の?
谷津
書籍も手帳も両方です。どっちも高橋書店の商品として、書籍もあれば手帳もあるんで。書籍は年中やってますけど、手帳はその時期、1月始まりだったら秋から年末くらいがメインなんですけど、その時期に手帳の注文も取ってきて、(取扱店に)入ってきたら並べるのを手伝って、どれくらい入ってきているかチェックしてっていうのを毎月書店廻りするっていうのを会社入って一年目はやっていて、二年目からは販売管理で、そういう風に営業が全国廻ってるんで、その目標数を決めるとか、どれぐらい売れているのか全国のデータを集計して、営業の会議に出して、というのを二年目にやってて。で、三年目から広報とかウェブサイトリニューアルとか通販事業の部門とかをやってたんです。
加藤
それを30歳まで
谷津
30まで。ちょっと、育児休暇の時とかも挟んでますけど。長男を間で産んでいるので。休んでいる時期もあるけど、退職するまでその仕事をしてたんです。
加藤
宮城に来たのがその後?
谷津
その後です。宮城に来たのは長男が3歳の時なんで、
加藤
それまでは?
谷津
それまではずっと東京で、
加藤
旦那さんも東京にいたんですか?
谷津
そうですそうです。旦那さんも東京で働いていて。向こうで会って結婚して、家業を継がなくてはいけないから戻る、というので一緒にきた。
加藤
それが…
谷津
30歳の時
加藤
とすると、 働いている時・大学・高校・中学・子供と時っていうのは、あんまり海っていうのは、
谷津
そう、関わりはないけど海水浴は行ってました、家族で(笑)千葉に。私育ったのが超都心で、乃木坂なんですけど。13歳、中学校1年生まで乃木坂の社宅だったんです。
加藤
へぇ
谷津
父親が国鉄だったんで社宅がそういう中心部にあって13歳までそこにいたんですけど、やっぱ、民営化で社宅とか持てなくなったんで、もう出て行かなくてはいけなくなったんで、郊外に家買って引っ越して、今もうちの実家は南大沢っていういわゆるニュータウンにあるんですけど。中1までそこの乃木坂にいて、その後1回場所は変わっているんですけれど、郊外の方のニュータウンに中学校2年生以降は住んでて、
加藤
西暦で言うと何年にここに、
谷津
2008年です。
加藤
2011年、震災までは何をしてたんですか?
谷津
震災前までは、ミニコミ誌を作ってたりとかしてました。
加藤
あくまでそこまでは新聞店の社員というか、
谷津
いや、社員ではないですね。子供も小さかったし。で、その3年間の間に2人目産んでるんですよ。だから、社員ではないんだけど、
加藤
新聞店の家族として、
谷津
そうですね。までも、そんなにやってない、これしかやってないんですけどね。これ以外の新聞店の仕事はやってないんですけど、
加藤
じゃあ、こっち来てちょっと落ち着いたぐらいで、なんかやろうかみたいな。
谷津
そうですね。こういうの作り始めて、
加藤
で、それがなんで震災があってASTTっていう関連で、
谷津
まあ、話ややこしくなってしまうんですけど。最初大学院行ってたんですよ。東北大のそういうこともやってたりして。子供できて大学院最後まで出ずに終わったんですけど。もともと仕事したかったんですよ。こっちに来てその、新聞店じゃない仕事、まちづくり系の仕事に関わりたいなっていう気持ちは元から持ってて、だけど来たばかりだから、知り合いもいないし、土地勘すらないし、車の運転も慣れてないし、んで、子供も小さいし、みたいな状況だったんで、ちょっとどうにもなんないなと思って、で大学院行こうかなと思って行ったりとかしてたんですけど。二人目生まれてちょっと落ち着いたらちゃんと働きたいなという気持ちがすごい出ていたんですよね。で、ちょっと就職活動してたんですよ、震災前に。だけど、まあなんかあまり上手くいかなくて。白石だとやりたい仕事がないし、遠くに行こうと思うと子供も小さいし。だから雇う側も、なんでそんな子供小さいのにやろうとするんだ、って感じだったりとかしてて、あんまり上手く行ってなかった時に震災があって。で最初大学院に行ってた時の知り合いの繋がりでボランティアをやり始めたんですよ。震災あって、どうにも就職活動とかそういうんじゃない状況になってた中だったんで、知り合いのつてで絵本を沿岸部に届けるというボランティアに参加し始めて、その倉庫番みたいなことをやってたんですね、2011年の夏に。で、その時期にこの東京都の、Art Support Tohoku-Tokyoっていうのが東京の方で立ち上がって、この人たちが宮城県でやりたいっていう風に来た時に、現地の事務局で受けるということになったのが、大河原町にある、えずこホールっていう公共のホールがあるんですけれど、そこが事務局をやるってことになったんですね。で、そこの所長さんていうのが、その私がやってたボランティアのグループのネットワークの中にいたので、なんか私のことを知ってくれてて、今度こういう事業が始まるんだけど、もともとの職員だけだと人手が足りなくて臨時職員探しているからやらない?と言ってもらって、臨時職員としてえずこホールに入って、この仕事の担当になった。
加藤
えずこホール側の職員としてASTTを受け入れる、対処する担当だったんだ。
谷津
そうです。一年ごとの契約で、(2011年)9月からえずこホールに行き始めて、ASTTの担当やり始めて、翌年の秋ぐらいまで、えずこホールの所属だったのかな。うん。東京都がパートナー探していたんですよね。その、宮城県内でどこと組めばいいかなっていうのを、東京都側が探していて、えずこホールが繋ぎ役をしてた感じなんですよ。県内にこういう人いるよっていう、紹介を、ま、えずこホールだけじゃなくて他にも何人かいたんですけど。仙台の人とかもいたんですけど。まあ最初、宮城でどういう事業をやったらいいかっていう協議会みたいなのをがあって、そこの人たちが、こういう人いるよーとか、こういうことやったらいいんじゃないの?っていう中から東京都がやる場所を決定して行ったという。組む相手とやる場所を決定して行ったっていう感じなんですよね。
加藤
じゃあ、塩釜も東京側がピックアップしたってことになる?
谷津
高田さんが最初にその協議会の中にいたはずです。もうすでにビルドで活躍してたから、その宮城県内でアートで被災地支援事業をしようと言った時に、誰に話を聞いたらいいかっていうので、最初から高田さんがその中にいたんですよ。
加藤
えずこホールの所長さんが選んだ?
谷津
いや、わかんないです。そこの経緯はわからないんですけど、えずこホール所長、高田さん、仙台の演劇工房10-BOXの工房長だったヤマキさん、宮城大のムラカミタカシさんというアーティストであり教授である方、その辺りのメンバーが協議会のメンバーだったんですよ。
加藤
えずこホールは入ってないの?
谷津
入ってないです。自分自身でプロジェクトやってないから。事務局はやってたんですけど。
加藤
そのえずこホール側で東京都があちこちでやりたいよっていうのを取りまとめたり、案内したりっていう
谷津
そうです。私は臨時職員だったんで選んだりっていう立場にはいなかったんですけど、協議会でやるって決定するじゃないですか、決定してこの人たちと最初は企画書の調整して、契約書作ったりとかしてたんですよね。契約書作ってこの人たちに送って、ハンコ押して送り返してください、とかっていうのをやり、予算の管理もしてたんですよ。
加藤
予算っていうのは、東京都の予算が2011年の後半段階からあるってことですか?
谷津
あるある、あります。宮城県全体でいくら、というのがあって。で、ここにいくら、こっちにいくら、というのがあって、それを契約書作ってそれぞれの共同先と契約書交わして、事業スタートして。報告上げてもらって、その都度都度、今ここのプロジェクトでこういうことがありましたみたいなのを、東京都に報告して、東京都が何か打ち合わせ必要だなと言ったら、私が日程とか場所とか調整してついて行ってみたいな感じで。
加藤
結構受け入れ側っていうか、わからない感じですよね。なんの金で、なんでお金もらえるのか。一応契約書書けって言われてるから書いてるけど、みたいな感じで。
谷津
そういうとこはあったんじゃないかな、まあでも、いろんな支援が入ってた時期でもあるので、そういうののひとつっていう感じで受け取ったんじゃないかな、とは思いますけど。
加藤
2011年の段階では、塩釜市内で言うと、伊保石で炊き出しとか、そういう話、
谷津
炊き出しはなくて、高田さんがすでに絵本持っていくとか、文房具持っていくとか、ワークショップ持っていくとかやってたんですよね。それで伊保石仮設住宅との関わりがすでにあって、で、伊保石で住民の交流の場が必要だよねっていうことで、ラジオ番組作ったりしたんですよね、初年度。
加藤
2011年
谷津
でもその、仮設住宅内だけで聴けるラジオみたいな感じでやってた。最初はつながる湾じゃなくて高田さんがやってた被災地支援事業の延長でそういうことをやってたんですよ。
加藤
ラジオ作りは主宰の高田さん
谷津
共同主催なんですよ。ビルドとえずこホールと東京都かな。
加藤
その段階で入っていると
谷津
そうそう。そういう枠組みでやってたんですね。最初はその伊保石仮設住宅の支援でアーティストを入れて、あと、あれか、歌作るのやってたかな。‘みなとみなと’っていう仮設住宅の歌を作るっていうのを初年度はやってたと思いますね。
加藤
中島佑太さん
谷津
そう、中島佑太さんと首藤健太郎さんっていう人たちがアーティストで入って、仮設住宅内で聴けるラジオ番組を作るっていうのと、伊保石のテーマソングを作るっていうのをやったんです。初年度。
加藤
じゃあその時点ですでに東京都のASTTさんが入ってて、そのやりとりを谷津さんが仲立ちして
谷津
そうです。
加藤
2012年の開いたってのは、関係性としてはそのまま?
谷津
そのままです。2012年の段階で、ASTT側からすると2年目になって、じゃあ2年目何やろうかって話になって、高田さんがその時寒風沢で秋祭りの復活をしたいという声があるからそれをアーティストの力を使って助けたい、みたいなことが高田さんさんから出てきたんですね。それでじゃあ浦戸諸島見に行ってみようって言って、東京都の森さんとか李青さんと一緒にしサーチしたっていうのがあったんですよ。で、これやって、東京都側から、浦戸諸島は寒風沢一島だけ支援してもダメだみたいな話が出てきて、全体で考えた方がいいよっていう話が出てきたんです。そこからだから、じゃあどういう風にやったらいいかっていう調整が始まった。で、まあ高田さんはその浦戸諸島全部やるっていうイメージを持てなかったから、ちょっと反発みたいなのもあり、っていうなんかどういう風に作ろうかうーん…ってみんな悩むみたいな時期があって。
加藤
その、島を支援するノウハウを、その、もらうというか、教えてもらう為に来てもらったていう、最初は。
谷津
そう。最初はそうですね。最初は結構この日比野さんと五十嵐さんていうのがすでに他の地域で、地域でのアートプロジェクトというのをやってる人たちだったんで、なので東京都側からするとその人たちを連れてきて、浦戸諸島を一緒に周ってみて、そうしたらこの人たちからどういう案が出てくるかなっていうのを知れる、というか、一緒に回ってみて考えようみたいなことでこの12月の視察があったんです。
加藤
そっか、どっちかっていうと、きてもらった感じなの、日比野さんたちに?
谷津
そうそう、まあでも、高田さんはその時呼んだわけではない。東京都側が浦戸でプロジェクトこれからやるにあたって、この人たち、地域プロジェクトやってるからこの人たちと一緒に視察してみたらいいんじゃないのっていうことであった。
加藤
なんかTANeFUNeのイメージがあったんでTANeFUNeの行き場を探していてここに来たがったのかなと思ってたんですけど、
谷津
ではないと思います。もしかしたらちょっとあったかもしれないですけど、そのために来たって感じではないと思う。
加藤
結果的にそうなったっていう。
谷津
うんうん、そうですね。
加藤
で、津川さんの話だと、その、この時ですかね。リサーチプロジェクトの後にビルドに集まったんですかね。
谷津
そうですそうです。その日の夜。
加藤
の日の夜に。その時に津川さんがいきなり呼ばれて、津川さんの言い方だと、なぜか呼ばれて、
谷津
(笑)
加藤
「彩ちゃんに呼ばれてさぁ」とかって言って、なんかプレゼンしたんだよ、とかって。なんでかわかんないけど行って、たまたまその、話が進まないからじゃあ俺の考えてること言ってみるって感じのことを言ったっていうんですけど、高田さんは津川さんがそういうこと考えているの分かってて呼んだって、その話をしてもらうために呼んだって言ってて。そこはなんか、
谷津
伝わってなかった?
加藤
伝わってなかったのか忘れてるのかわかんないですけど、
谷津
一番最初のこのリサーチをした時点で高田さんの思惑と東京都の思惑は食い違っていたわけですよ。高田さんは寒風沢からお祭り復活したいという声があったからそれを支援したいんだったんだけど、東京都側は、そうじゃなくて浦戸諸島全体でなんか考えてやろうっていう話で、まあそこが食い違ってて。で、高田さんは、私はアートのことはできるけど地域のことをやるつもりはないみたいなことを最初言っていて、そこがどうしても、それは私にはできないからということを言い続けてたんですよね。で、それでじゃあ、地域側のことを考えられる人を入れたらいいんじゃないんですかっていう話をしてたんですよ。それでそういう人誰かいないですかっていう風に聞いてた時に高田さんから名前が出てきたのが津川さん。だから津川さんをその場に来てもらったんですよね。
加藤
なるほど。それで、谷津さん自身は寒風沢行ってみんなで見に行ってみた時も、この時の昼も夜もずっと同行して、
谷津
同行してます。
加藤
ちょっとそれるけど、谷津さん結構さっき地図にあったいろんなところ、関わってたけど、各場所にそれぐらいの深さで入って行ったんですか?
谷津
そんな深くないですけどね。いっぱいあるので東京都の関わり方も、予算規模もスタイルもいろいろなんですよ。だから、気仙沼のアートインクルージョンとかは単発のイベントだったし、でも山元町の方はアーティストさんを連れて行って定期的に通って、毎月アーティストさんがくる時にその人を乗せて一緒に行ってとかやってたし。って感じで、物によって濃さはバラバラでした。
加藤
松島湾で島全部見ましょうみたいな話になってる時点で、結構長期的なイメージなってきてる感じなんですかね?
谷津
東京都側はそうじゃないですかね。ある程度数年間はっていう。
加藤
ラジオ作って終わりとかでなくて、
谷津
そう。その時にイベントやって終わりじゃなくて。この東京都が持ってきたプロジェクト自体がもともと東京でやってるんですよ、実践を。東京文化発信プロジェクトっていう名前で、元々都内でやってて。要するに、美術館がなんかアートのことやるってだけじゃなくって、街中のNPOだったり市民団の主催になって日常空間の中でその、アートに触れるだとかアートの力を活かす場を作るっていうのがこれからは必要だっていうことで、東京都で先に実践をやってたんですよね。
加藤
お金とかノウハウとか
谷津
両方ですよね。つながる湾プロジェクトと同じでお金出してどういうことやろうかっていう話を一緒に組み立ててっていうのをすでにたってたんですよ。で、その手法で被災地支援事業したいっていうのがASTTなんですよ。
加藤
ASTTの前は、どっかに書いてあったなぁ。なんとかっていう別のプロジェクト名だったわけですよね。その、
谷津
東京文化発信プロジェクト。
加藤
これがASTTの前からあって、で、震災があってこれがart support tohoku tokyoという形でなんかその部屋を立ち上げたというか
谷津
部屋というか新しい事業を立ち上げたんですね。被災地支援事業を。
加藤
担当が李青さん。塩釜だし。
谷津
そうですよね。まあ、李青さん全部やってますけどね、その、岩手も福島も全部。ASTTの担当者として来たんですけど。最初、支援受ける側にはそんなにちゃんと伝わってなかったのかもしれないんですけど、東京都側としては元々ただお金を出すってことじゃなくて、現地の市民団体と共同して、その市民団体が自分たちで、自分たちの文化を味わったり発信したりする場を作っていくために来ている、って元々東京都は思ってるんですよ。
加藤
で、李青さんもそのために来ていて、谷津さんはそのコンセプトを解っているから、
谷津
私は参加したばっかりで、文プロの人間じゃないけど、そこに雇われてるから、その趣旨を理解して間に入んなきゃなっていう気持ちでやってたんです。
加藤
ただ、現場に谷津さんが行くと、まああなたたちの団体お金くれるけど、結局そのギャップはあるわけですよね。
谷津
ギャップはありましたね。
加藤
どっちかっていうと谷津さんが東京都側のコンセプトをちゃんと伝えようとする側にいて、
谷津
伝えて一緒にやるにはどうしたらいいかっていう側にいて
加藤
塩釜に限らず結構その辺で何か苦しんだっていうか、
谷津
いやでもね、塩釜ほど苦しんでないです。
加藤
(笑)
谷津
それは東京都側が塩釜に注力しようとしたからなんですよ。他のところはそんなにその後も長いスパンでガッツリ拘ろうとしてないから。それが塩釜になったってことなんですよね。長期的に組めるのは塩釜だろうっていう風に東京都側でなったからそうなったんですよ。
加藤
他のところとはわりと、じゃあこれやっておしまいみたいな?
谷津
そうですね。単発じゃなくて2、3年やったところはあるけれど、でも2、3年やって、ああもうこれだけできたからいいねって感じで終わったんですよね、他のところは。つながる湾プロジェクトだけが残ったんです、最終的に。3年目くらいまでは他のところもあったと思うんですけど。2013年からつながる湾プロジェクトだけなのかな?かもしれない。
加藤
2013年度?
谷津
2013年度からがつながる湾プロジェクトだけになったんじゃないかなぁ。11年度と12年度は他のところもあったんですよ。他のこともやってた。
加藤
今から見ると、その2012年度とか13年度の段階で、今年限りとかじゃないなっていう感じですよね、塩釜に関しては。
谷津
そうですね。
加藤
東京都側の扱いというかビジョンとしては、ちょっと何年か先までやるだろうなっていう、
谷津
そういうつもりだと思います。
加藤
2012年段階ではまだつながる湾プロジェクトじゃなくて、
谷津
そうですね。リサーチしてた、
加藤
リサーチしてて、東京都側としてもなんかここで面白いことできるみたいなことを考えてて。で、現場とのギャップというかそこで谷津さんはちょっと、
谷津
どうしたもんかと思ってました(笑)
加藤
その後2013年からつながる湾プロジェクトが決まった、ここでTANeFUNeが来たことも関係が、
谷津
あるかなぁ。もう結局、この12月の時に、日比野さん五十嵐さん来た時に、結局その東京都側がそうやって新しくプロジェクトを立ち上げたいというつもりで来てたけど、高田さん側にはそういうつもりはないわけです。っていう感じで噛み合っていなくて、話が進まなくて、でその時に津川さんが湾の駅の話をして、その話だったらなるほどねって。日比野さん側も結局その、何をどうしたらいいのかわからない状態だったのですよ。でも湾の駅のコンセプトを津川さんが出して、「あ、なるほどね。」ってみんななったわけですよ。そのコンセプトでやるっていうのはわかるっていう、共感できるっていうか。それならいけるんじゃないかみたいな感じがあったんですよ。でも具体的に何やるかっていうのはこの時決まってなくて。この後仙台での打ち合わせっていうのが、津川さんと高田さんと森さん李青さん、みたいな感じでやってるはずなんですけど。2月4日。で、話を重ねていく。多分この間にもあったと思うんですけど、ちゃんとわかんないんだけど。で、どうしようかどうしようかみたいな話がある中で、森さんと日比野さんからTANeFUNe浦戸諸島に持っていけばいいんじゃない?みたいな話になった。
加藤
そういう流れなんですね。TANeFUNeっていう事業自体は別の事業なわけですよね。
谷津
別の事業です。つながる湾プロジェクトのためにやったわけじゃない。一般社団法人torindっていうところがやっていた事業で。舞鶴の団体で。舞鶴でTANeFUNe造って航海するっていうのをやってたわけですよ。ていう事業が別事業であってその後に、この六本木アートナイトでTANeFUNeの展示っていうのがあって。この丸がこういう風に動いていくんですけど、船の動きとしては。TANeFUNeの京都から舞鶴から新潟までやってるのが2012だから震災後ですね。で、六本木に船があったやつを塩釜に持っていけばいいんじゃない?てみたいな話になって。船受け入れられますか?って話が高田さんさんに行って。
加藤
で、置けるところあるかみたいな話になった。
谷津
そうです。
加藤
まあでも、それはそれとして、塩釜側としては、別にいいんじゃない?っていう、
谷津
別にいいんじゃない?っていうか、多分この間李青さん達来た時も話したんですけど、高田さんとしてはその時この話だけじゃなくて、いろいろ話が来ていたのの窓口になってたわけですよね。震災後の、その支援したいっていうのが、いろんなのがくるのが、窓口になっていたから。高田さんとしては多分その一つというつもりでやっていたのだと思います。
受け入れなきゃ、みたいなね。感じでやってたと思う。
加藤
その一方で、塩釜なり松島湾側としては、津川さんがいろいろそのこう言う勉強会のネタを提供したりとかしてって言う、
谷津
うん、それはTANeFUNeが来て最初、ビルドのと言うか仙台湾燻蒸の駐車場にTANeFUNeが置かれたわけですよ。で、TANeFUNe来たはいいけどどうする?みたいな。で、その時にこの浦戸諸島のりフェスティバルというのがあることが決まってたから、高田さんとしては、当時こういうのを復興で頑張ろうって言ってやっている人たちがいたから、のりフェスでTANeFUNeを動かしてもらって盛り上げてもらえたらいいんじゃないかっていうことだったと思います。それでのりフェスでどうやってTANeFUNe動かすかみたいな話で五十嵐さんが運転するのに来たりとかっていう感じだったんですけど、この時もまだ食い違ってて(笑)日比野さんからすると、塩釜側がTANeFUNeのことをどういう風にするか企画してくれてるんでしょ?みたいな。多分そういう感じだったんですよ。私の認識では。でも高田さん側としてはTANeFUNeが来たいっていうから受け入れたんだよっていう感じだったわけですよ。
加藤
TANeFUNe側の事業で
谷津
っていうことでなんかまたここでも食い違ってて、みたいなことがあったんだけど、まあ来ちゃって動かしたから、この後飲んだりとかして、ここで滞在させようみたいなって話になったんだと思います。高田さんはのりフェスでTANeFUNeを動かしたらもうそれで終わりで帰るもんだろうと思ってたんだけど、東京都側とか日比野さん側とかはそうじゃなくて、TANeFUNeをしばらく動かす。単発でそのイベントに出すだけじゃなくて、TANeFUNeを使って地元の人たちと交流するっていうのをなんとかしてやらなきゃ、持って行ったからにはやらなきゃ。TANeFUNeっていうのは元々そういうものだからっていうことだったわけですよ。で長期滞在できる場所探してっていう話が高田さんに行ったんですね。
加藤
2013年はASTT側は塩釜で何をやろうとしてたんですか?
谷津
多分何をやろうっていうのがうまく決まらないから、TANeFUNeやるといいんじゃない?っていう感じだったと思うんですよね。TANeFUNe自体が元々こうやって沿岸部旅することで、旅してこの各地の人と交流することで各地を繋ぐみたいな役割、そういうプロジェクトの船だったから、浦戸諸島のことリサーチした時に、浦戸と本土塩釜との被害の差がすごくあったりとか、塩釜の人が浦戸のことを同じ市内なのに全然知らないとか、そういうことがリサーチした段階で浮かび上がって来てたんで、じゃあTANeFUNeがあってるんじゃないみたいな、この地域でやることにはTANeFUNeがいいんじゃないのっていうのがあったんですよね、東京都側は。
加藤
その同じ時期に、なんかいろいろ話し合ったりとかしてたわけですよね、五十嵐邸で夜な夜な。
谷津
そうそう、「どうしようか」みたいな。
加藤
その一方で勉強会とか始まって。その勉強会はASTTが音頭取ったんですか?それとも、
谷津
いや、これは違いますね。ここで津川さんも入りながらなんかあーでもないこーでもないって話をしたわけですよね。TANeFUNeはなんなのかとか、東京都何やりたいんだとか、なんかどうしたらいいんだとか。そういうことを、結局みんなよくわかってないみたいな感じで集まっている中で、喋ってて。で、勉強会始まった最初のきっかけって私もちゃんと覚えてないんですけど、でも津川さんがすでにネタ持ってたんですよね。こういうネタを持っていたから、その地域のこと、TANeFUNeを受け入れて地域のこと、地域繋ぐとか、地域の事考えていく風になった時に、ちょっと勉強会やったらいいんじゃないの見たいな感じで始まったんですよ。津川さんが最初は勉強会連続でやろうっていう感じでももしかしたらなかったと思うんですけど、その津川さんが多分三陸汽船っていうのがあってさみたいな話を多分この中でして、その話聞いてみたい、みたいなところから第一回目はやったと思う。船つながりで。三陸汽船というのがあって、昔は陸路がなかった時は船、船運がメインだったんだよみたいな話が出て来て、ちょっとその話聞いてみたい、みたいな感じで立ち上がっている。で、やってみたら凄い面白くて盛り上がったわけですよ。
加藤
で、次のネタを、
谷津
そうそう。次何やろうかみたいな。
加藤
ただその同じこの7月の時期につながる湾プロジェクトっていうのが決まっているんですよね?それは誰が決めたんですか?
谷津
私の記憶では、「つながる湾プロジェクト」って言ったのは李青さんなんですけど。この前は、仮というか、この前段階では「浦戸諸島とつながる湾」っていう名前だった。なんか本土と浦戸諸島を繋ぐっていう感じだったんですよ、最初イメージしてたのって。湾全体で考えるみたいなのもありつつ、でも浦戸諸島が本土と隔離されちゃって、だいぶ差が出ている。っていう話から、じゃあ本土と浦戸諸島をつなげようみたいなイメージだったんですよ、最初。
加藤
それなんか、考え方の印象としては喜多さんとかがよく言ってる、TANeFUNe側というか、TANeFUNeとか浦戸リサーチしたとかっていう時の印象がベースになっている。津川さんさんの湾構想とかよりは、
谷津
最初は浦戸諸島とつながる湾っていう名前だった。
加藤
ちょっと戻るけどお祭りの支援はやったんですか?
谷津
やらなかったです、それはやらずに。
加藤
浦戸4島を対象にってこの考え方だけでそれで何かやったってことは特にないんですね。
谷津
そうです、それが具体的なイメージが掴めないままにとりあえずTANeFUNe持っていこうっていって。TANeFUNeが来て、TANeFUNeあるからのりフェス出そうって言ってのりフェスがあって。
加藤
で、同じ時期に浦戸4島と本土をつなげる何か、できることはないかなっていう話し合いが進んでいって、またそれはじゃあやりましょうって東京都側から声かけて、
谷津
そうです。話し合わなきゃね見たいな見たいな感じで私が調整してやる。で、高田さんとしては、「え、帰るんじゃなかったの?」みたいな。のりフェスやったからいいんじゃないのって思ってる、みたいな状況が最初あって。ですね。
加藤
で、その積極的か消極的かは別としてこの頃にそういう話し合いが進んでいた。
谷津
そうですね。
加藤
じゃあ勉強会でもやってみましょうかっていうのが津川さんの方からあって。で、じゃあ東京都側としてもそのプロジェクトに名前をつけたいというか。つけて走り出させたいっていうか、
谷津
そうですね、ちょっとここの経緯は覚えてないんだけど。でも浦戸諸島とじゃなくて、つながる湾プロジェクトでいいんじゃないの?みたいな話になったんだと思う。
加藤
で、谷津さん自身はこの間ずっとその経緯を並走して来た感じ。
谷津
そうですそうです。高田さん側の話を聞いて、東京都側の話も聞いて。一生懸命お互い説明するみたいな感じのことをやってた。
加藤
ただ、とはいえ東京都側の何をさせたいかというのがはっきりしたわけでもないし、
谷津
東京都側は都内の事業でも一緒なんですけど、こっちが決めたものを受けてもらうんじゃなくて、現地の人がやるのを支援するというスタンスだから。だから東京都側で決めるということはなくて、話して決めましょうなんですよね。
加藤
でもなんかやんなきゃいけない。現場側としてはなんかやんなきゃいけないの?
谷津
そそそそそ(笑)何やらせようとしてんの?みたいな。
加藤
なのに結構びっくりなんですけど、いきなりそらあみが始まっちゃうんですよね。
谷津
うそう、そらあみとTANeFUNeカフェが同時に始まるんですよ。ある程度やっぱここは無理やりだったんですよ。この間李青さん達も無理やりだったね、あれは。って言ってたけど。あ、そう思ってたんだなぁって。
谷津
で、TANeFUNeを使おうという話なので、この8月1日から31日までの間、TANeFUNeを浦戸4島を巡回させてたわけですよ。この日は寒風沢にいるこの日は野々島にいるみたいな感じでカレンダー作って、喜多さんが船長になり、TANeFUNeを泊めながらお茶をするっていうのをやり始めたっていうのがTANeFUNeカフェで。でこのTANeFUNeカフェをやっている横でそらあみをやっている状態だったんですよ。で、喜多さんと五十嵐さんが1ヶ月滞在して五十嵐邸で共同生活していて、TANeFUNeカフェにお手伝いに行ったりしながら五十嵐邸でご飯を食べたりとかっていうのもありながらみたいな感じの1ヶ月間ですね。
加藤
大沼さんなんかはその辺でプロジェクト云々じゃなくて、そらあみだったりTANeFUNeカフェにスタッフというか参加者というか、そして結構ガッツリ入っていったところがスタートだったみたいな感じの。
谷津
プログラム自体は基本的に日比野さんの指示で動いてたんです、TANeFUNeは日比野さんの作品だから。高田さんはそれを受け入れて1ヶ月間運営するためにはどうしたらいいかってうので奔走して、手伝うスタッフ集めて、大沼くんにも声かけて、やってもらえないかななって話をして。他にも今つながる湾プロジェクトの運営じゃない事務局じゃないメンバーもいましたけど、いろんな人、繫がりのある人に声かけて手伝ってもらって、って感じでやってた。
加藤
その8月からTANeFUNeカフェとそらあみをガンとやり始めるための構想っていうのは五十嵐邸での夜な夜なの話とか公式の打ち合わせとか、
谷津
ビルドで話し合ったりもしてた。
加藤
ここでじゃあ一気に詰めたわけですよね。2013年の春から初夏にかけて。
谷津
一気にガーっとこう。あまりよくわからない間に「ああ、とにかく明日やるのね?やるのね?」みたいな感じで物事が進んでいったっていう。
加藤
で、始めて。結局そらあみはうまく行ったというか、大沼さんも高田さんもすごいなんかいい経験だったっていうか、
谷津
そう、作品がよくて、そこで五十嵐さんという人物との出会いもあり
加藤
でかかったんですね。
谷津
そう。高田さんと大沼さんくんがそこで凄いなと思い刺激を受けたっていうのはあったみたいです。
加藤
で、これだったらじゃあ、よく年もできるかなっていう話で、2013年度のうちに語り継ぎのリーディングとかも高田さんが、
谷津
そうそう、それは高田さんが勉強会で感動したからなんですよね。若宮丸の話に感動して、じゃあそれを伝えることをやりたいって言って立ち上げてるんですよ、リーディングは。
加藤
同じ形のまんま2014年度、なんかうまくいってますよね2014年。そらあみやって、そこから話しが膨んだかなんか知らないけれど、じゃあちょっとそこ周ってみましょうっていうツアーを誰かが企画して、これ年度当初の予算としては入ってないんですかね。
谷津
予算はねー、結構進みながらやる感じだったんですよね、毎年。その年度の頭の時点で完全には決まってなく。でも、年間いくらっていうのはある中で、どうしようかっていう話をしながらやっていってたっていう記憶ですね。なんか最初っから全部は決まってなくて、っていう感じだったなぁ。とにかくやりながら全部調整していくみたいな感じで、この頃は。
加藤
この頃2014年は谷津さんは何を、どの立場で、えずこホールで、
谷津
もうえずこホールではないですよ。もうえずこは出てて、えずこはつながる湾とは、つながる湾には関係ない話かもしれないんですけど、私結構つながる湾もそうなんですけど、他のも含めて、現場見なきゃダメだって凄くその時は思ってて。一生懸命現場通ってたんですけど。女川とかも含めて。
加藤
2012年と比べて、
谷津
そうです。一生懸命通ってたんだけど、えずこホール側的にはそれがNOってなってたんですよ。臨時職員として動きすぎ!みたいな感じがあったんですよ。でも私もその当時熱かったわけですよ、震災後だったからそういうなんか使命感とかあったし、でその自分自身が仕事したいって思ってて、うまくいかなくって、たまたまのご縁で凄い地域のことをやれる、みたいなそういうなんか。いろんなテンションの高さあって(笑)凄い一生懸命やってたんですよ。
加藤
各地で
谷津
そう。各地で、一生懸命やってて。で、えずこホール側としてはあんまりその、そういう積極性はなかったんですよね。なんか、受け入れててちょっとサポートすればいいよぐらいのスタンスだったんですよ。で、もう出張行っちゃダメみたいな感じで言われて、えずこホールを出て、で、2013年度からは個人で委託を受け始めたの
加藤
ASTTから。
谷津
ASTTから。この被災地支援事業のコーディネーターとして個人委託を受けてやってたんです。
加藤
つながる湾プロジェクトとASTTの繋げ役が2013年ぐらいで2014年も
谷津
そうですね
加藤
運営委員会はいつからでしたっけ?
谷津
運営委員会は2015年度からだと思うなぁ。
加藤
ここから運営委員会に。で、大沼さんが代表になったのもそこからですか?
谷津
代表になったのは…うんそうかな。運営委員会になったとこからだと思います。その前まではビルド+チガカゼでやってたんですよね。
加藤
その時はなんでそうしたの? あ、そもそも何が違うの? 契約の関係性が違うってだけ?
谷津
まあ、どうやって続けていくかみたいな話だったんですよね。この辺っていろんな事業立ち上がって来たんだけど、
加藤
2013、14辺りでそらあみあったり、TANeFUNeあったり
谷津
まあ、そらあみとTANeFUNeは外から持ち込まれたものだったけど、それ以外に、高田さんが語り継ぎを始め、このツアーの時に初めてタイムカプセルやってるんで。これタイムカプセルって名前にはなってないけどツアーの時にタイムカプエルやったり。で、リーディングと違うけど浦戸食堂やったり。
加藤
で、旅展もやってるんですよね。
谷津
そうそう、旅展は篠塚さんの発案で。旅展をやったり。喜多さんの同郷湾やったりしていて。で、この時期っていうのは、まあこの勉強会で、まその、五十嵐さんから影響を受けた、地域とアートを繋げる視点っていうのを活かしながら、勉強会で知った面白いネタをじゃあどうやって表現するのかみたいなことで、みんなから企画が出て来てそれを実践してたっていう時期なんですよ。こういう風にやったらいいんじゃないか、って思いついたアイデアをどんどん具体化するっていうことをやって言ってたんだけど、私はこの時に、その一個一個を一つのものとして、ちょっとちゃんとストーリーとして見せなきゃいけないと思ってたわけですよ。これってなんなのか、何をやってるのかって。一個一個はバラバラじゃなくて、つながる湾プロジェクト全体として、これはこういうことなんだよってコンセプトをみんなが共有しなくてはいけないと思ってて、そのために「海辺の記憶をたどる旅」を作ったんですよね。いろんなこといっぱいやっているけど要するになんなの?っていう話をみんなが共有できていないなっていうのがあって、それを一個のストーリーとして、こういうことだよね、って共有するためにこれを作ったの。
加藤
僕がみると、こういう風にやって来たんだなって。だけど実際はそうじゃなくてそれぞれがあって、まあ後付けになっちゃうけどこういう、
谷津
こういう解釈できるよね、みたいな感じかなぁ。なんかバラバラだったけどまあでもきっかけは共通だったりとかする、やっぱりその津川さんの話があったってことでみんなそれはきっかけになってたり、五十嵐さんの影響がきっかけになってたりするから、みんなの中でつながる湾の最終コンセプトがあって、それを実現させるためにこれをやろうってやってたわけじゃないけど、でもやっぱりなんというか共通の同じ、こういうことだよね、みたいなステージっていうのはある感じだった。それを改めて決めるというか、こういうことだよねっていうのを明確化するってことでこれを作ったんです。
加藤
津川さんの最初のコンセプト的なところに集約させてってという作業がうまく行ったから、僕がみると津川さんのコンセプトに基づいていろんなことが行われていったんだねっていう風に見える。
谷津
そうそう。結構私継続させるために頑張ってるんですよ、これぐらいの時期に。みんなはこの時になってもまだつながる湾プロジェクトっていうのを自分たちがやるみたいなイメージはなかったと思う。お金があって面白いネタがあるからこれやりたいっていうのでやっていて、でもそのビルドもあったり他の活動もしてたりしていたから、自分自身がつながる湾プロジェクトをやろうみたいな、やんなきゃいけないみたいな感じは多分なかったんですよね、みんな。で、私としては凄いもったいないと思ってて、凄くいいと思ってったんですよ。塩釜とか松島湾の地域資源っていうのもの凄くいいし、これだけいろいろスキルとかアイデアを持ってて出せる人がいて、東京都もお金を出してくれるし。絶対これはもっと発展させていって欲しいっていう風に自分でも思ってたんですよね。どうやったら継続できるか、みたいな感じがあったんですよね。で、その話の流れの中で、私ここはあくまで東京都側だったんですよ。2013、2014は。東京都側と直接契約してコーディネーターという形でやっててあくまで東京都側として、こう現地の人たちがやっているのを見守る的な。立場としては。そういう感じだったんだけど、まあ高田さんも忙しいし、つながる湾自体を自分が背負ってやっていくつもりはないみたいな感じだったので私この時に、私が事務局になれば継続できるんじゃないかと思ったんですよね。事務処理的なところとか運営のところをやる人がいれば、みんなスキルもあるし、アイデアもあるから、そこだけ私がやればちゃんと動いていくんじゃないかと思って、ここから私つながる湾の運営委員会から雇われる立場になるんですよ。
加藤
2015年度から
谷津
2015年度から。それまでは東京都側のコーディネーターだったんだけど、ここから私はつながる湾プロジェクト運営委員会に入ったから、そっちから私に事務局の手当てが出るっていう形にここからなった。
加藤
そこからつながる湾プロジェクトっていう団体になった。
谷津
そうです
加藤
そこが東京都と契約して、一年間の予算このくらいだよってのがあって。で、谷津さんの仕事は大きく変わる、
谷津
運営委員会になる前から、東京都側の立場だったけれど結構介入してたわけですよ。こういう風にやった方がいいですよって、やんなきゃダメですよねーって感じで結構介入していて。
加藤
それはコーディネーターとしての仕事ではなくて、
谷津
結構そこが曖昧だったかな、上司もいないし。
加藤
コーディネーターって何をする人?
谷津
間を繋ぐっていうことについては最初から同じだったんですよ。東京都側の思惑とこっち側の現場の状況とをうまく合わせて事業の形にしていくためにはどうしたらいいのか、っていうのをずっとやってて。
加藤
2013年14年あたりは松島湾側で個別の事業がいろいろ出て、あれやりたいこれやりたいが出て来て、それぞれがそれぞれが面白くて、それぞれにお金をつけるって時に、
谷津
そう。それぞれにどういう理屈にしたらいいかとか、どういう位置付けにすればいいかという話をしてました。
加藤
それをやってたのが、谷津さん。
谷津
やってたんです。
加藤
数字的に言うと運営委員会15年からなったところから、それを初めからある程度形にしなきゃいけなくなったってことなんですか?
谷津
本来的にはやっぱり年度の頭に形になってた方がいい話ではあって、震災後の、まあ、持って来てあんまり決まっていない状態でやってたから、年度途中で調整するように進んでただけで、本来はまあ、年度の始めに決めた方がいいので。で、私が事務局になったので、それを意識してやってた、って記憶があります。最初の段階で今年はこれとこれをと言うのを会議で決めて、予算振り分けてって言うのをやり始めてました。
加藤
2015年度は、体勢は切り替わったけどやる内容は勉強会の継続だったり、そらあみも1、2、3年目の多賀城がやったりとか、タイムカプセルも去年やったやつだし、っていうことで。言葉を選ぶの難しいけど、惰性じゃないけど同じような中身のことをできている。それはやって来たノウハウがあるから2015年もやってて。実は僕2016年のこの辺から入ってるんですけど、イメージとしては、じゃあ何やろうねっていうのが2016年度の頭のあたりというイメージを持ったんですよね。で、この間大沼さんとかに聞いた時も2015年この辺で、じゃあどうして行こうかねっていうところが2015年度の後半ぐらいで、結構話し合いしてて、先に進まない感じがあったみたいなこと言ってて。で、そこから僕も知ってるところに入ってくるんですけど。で、ここまで来たところで谷津さん自身の、なんというか、思って来たところを、多分そこがメインになると思うんですよ。一番最初、えずこホールを介して塩釜にも行く立場として、その時って結構フラットな全部、そのうちの一つとして塩釜を認識して。で、どの辺から塩釜面白いなとか松島湾面白いなってっていうか。さっき谷津 さん、これ続けたらいいんじゃないのって思ったっていうことは、なんかここで谷津さん自身もやりたいっていうのがあって、
谷津
谷津 そうですね。
加藤
こっちからするとわざわざ白石からわざわざ海の方まで。今日きたけど遠いじゃないですか、
谷津
(笑)
加藤
夜のさっきの五十嵐邸のやつまで毎回通って、じゃあこの先どうしたらいいかなぁって侃侃諤々やってたわけですよね。その海の奴らと一緒に。なんでそう、谷津さんはやりたかったのかですか?
谷津
そもそもの話をすると、これはASTTとか関わる全然前の話で、さっき乃木坂で育ったっていう話したんですけど、乃木坂で13歳まで育って、今だとそんなとこ人住んでんの?みたいに思われるような場所なんだけど、すごく子どもの時の思い出がある場所なわけですよ、原風景とか思い出のあるところなんですね。だけどああいう場所であるから、住んでダメって言われて引っ越すことにもなったし、その後私が住んだ家って、今ジャニーズ事務所なんですよ(笑)
加藤
え?
谷津
国鉄が持ってた古いアパートに住んでたんだけど、結局民営化でその土地が売られ、最初はソニーミュージックエンターテインメントのビルが建って、乃木坂46が生まれそこで誕生するわけですよ。で、そのあと今ジャニーズに売却されてジャニーズ事務所になっちゃったんですよ。
加藤
結構最近ですか、ジャニーズになったの。
谷津
ジャニーズになったのは最近。それまでソニーミュージックだったんだけど。なので、自分の育って、私としては虫を採ったりとかしていた場所が、ジャニーズ事務所、みたいな、
加藤
国鉄の敷地でそこそこ贅沢に土地を使っていた、原っぱとかもあって、
谷津
いわゆる団地? だからアパートがボンボンと建ってて、その中庭があってみたいな感じのところで遊んでいたんですけど、そこがジャニーズ事務所になったみたいな感じがあったり、ミッドタウンが建っている場所もよく遊んでいた公園があって、そこでザリガニを釣ったりとか、小学校の写生大会をしたりとかしてたんですけど、
加藤
30年前でそうだったんですか?
谷津
そうです。そこがミッドタウンになっちゃったわけですよ。そういいうなんか、そのやるせなさみたいな、なんかその自分が育ってその思い出がある場所なのに、なんか人ものになっちゃって風景すらないし、そこが私の場所ってもう言えない、言わなくさせられたみたいな、そういうのが原体験である。故郷を失うみたいな、そういうのがあるんですよ。で、それが原体験で。でその後郊外にに引っ越したんだけれど、私学校が私立だったのもあるから、地元で友達もできないし。中高私立だったので、実家のある場所で学校に通ってないんですよ。電車で私立の学校に通ってたから、
加藤
転校はしたの?
谷津
転校はしてないです。中高一貫だったから。
加藤
あーなるほど。じゃあそこに通えるところに転居。
谷津
そうです。そうだったんだけど、実家のある街には友達いないんですよ、私。
加藤
今の実家がある街で、
谷津
実家がある街自体もニュータウンだから山だったところを全部切り崩してマンションにしましたみたいな場所なので、自分の生活と土地の繋がりが全然ないっていう状態だったんですよね。それに対しての、なんか嫌だなっていう気持ちはずっと持ってて、その地域の文化とか自然環境とか、そういうものに影響されて人の暮らしが出来ていって年数を積み重ねることで人の営みが町並みになって、みたいなことへの憧れがあったの。だからまちづくりやりたかったんです。そういう街の方がいいじゃん。そういう街の方が豊かじゃんっていう思いをずっと持ってて
加藤
なるほど、自分にないから。
谷津
そうです。それでまちづくりに興味があったし、そういうことやりたいっていう気持ちを、元々持ってたんです。
加藤
それは20歳代で仕事している時とかにも、
谷津
うん、その時にはそこまで明確されてなかったけれど、なんとなく、って感じですよね。
加藤
私ふるさとないなぁって
谷津
そうそう。っていうのが元々あって。だからこっち(白石)に来るってなった時も、結構東京よりもこっちの方が、そういうことできるんじゃないかっていう気持ちがあったんですよね。っていう期待感みたいなものもちょっとありながらこっちにきたんだけれど、出来ない上手くいかない中、さっきも言った、知ってる人もいない、土地勘もない、何ができるっていうのを東京で確立してるわけでもないし、しかもこっちでは新聞屋さんの奥さんとしてしか見えないし、みたいなところで、何も出来ないっていう落ち込んだ時期っていうのが、震災前の時期があったっていうのもあって、このASTTの仕事で、地域のことを考えるっていうことに携われるっていうのが嬉しかったですね。っていうのが元々あって、それがつながる湾だけじゃなくて他の地域に関してもなんですけど、凄くいい仕事に就かせてもらったって風に思いながらやっていて、塩釜に関わって、まず本当に、浦戸に行った時もなんて素晴らしいところなんだって思ったわけですよ。大学生の時に一回松島湾に旅行したことがあったんですけれど、友達と一緒に。でもその時は観光遊覧船しか乗ってなくって、汽船に乗った時の生活と身近な感じに凄く感動したわけですよ。
加藤
それ2012年の8月が最初ですか?
谷津
うん、そうですね。初めていった時に、凄い綺麗なところだなーって思って。で、観光地でしかなかった松島が、人が生活している場所なんだっていう風に衝撃を覚えたんですよね、この時。
加藤
浦戸初上陸.。
谷津
その時に、私の中でも松島って観光地でしかなかった。絵の中にあるみたいな感じだったのが、人が生活している場所なんだっていう感じが凄くして。なんて豊かなとこなんだと思ったのは覚えていて。で、私自身も面白かったんですよね、この辺の話が。
加藤
勉強会とかして
谷津
そのTANeFUNeカフェとかそらあみとかやってた時にも、浦戸凄いいいって思いながら私も通っていたし、一方で勉強会で話を聞いて塩釜すごい面白いって思ってたんですよ、この時に。すごい豊かな土地だなぁって。人もやっぱいる、ビルドの周りもはじめとして、地域のことを好きでこうやって勉強会に集まって来て取り組んでいる人たちもいるっていうのも見えてきて、凄いいいなぁって思ってた。だから自分がそこに一員として関われていることが嬉しかったし、自分が仲間になりたかったし、なれたっていう嬉しさみたいなのはあったんですよね、このくらいの時期に。その人たちと一緒にそういう豊かな場所でこういうことをテーマにやれるっていうのが嬉しくて、自分の続けたかったし、この枠組みが続いていったらいいって思ってた。で、東京都に対しても凄いなぁって思ってたんですよ。そういう感じで支援ができるっていうのことが。そういう風に寄り添えるというか、話して作っていく。現地の人が。結局震災の時に他の支援もいろいろ見てたけど、まあ、押し付けじゃないけど、歌手が来て歌って元気にしたい、みたいな。一方的じゃないですか。
加藤
これをやるからこの分お金出しますよみたいな。
谷津
そうそう。そういうんじゃなくて、本当に何が必要かっていうのを、ある程度強引になったところがあったにせよ、一緒に考えようとしてて。その相手の変化を見ながら「じゃあこうしよう」というやり取りを重ねながら、やっていくっていうスタイルで事業やれるっていうのが凄いなっていうのもあったし。だから自分がそのコーディネーターとして役割を担ってたっていうのもあるからそういう全部が相まって、つながる湾プロジェクトっていうのはいい形で地域に残したいっていうのは思ってた。
加藤
ちょっとだけ戻ると、2012年の途中でえずこホールから出た時にもう辞めることもできたけど、自分個人として引き受けてでもやろうと思っていいるわけですよね。自分はそれをやるんだっていうことで、勉強会とか、多分五十嵐邸での夜な夜なの話し合いとかも多分このへんだと思うんですけど、その前の段階でつながる湾プロジェクトにはなってないけど、塩釜の取り組みから外れたくないというか、
谷津
この段階では塩釜だけじゃなかったんで、まだ。山元町もやってたし、つながる湾だけではなかったです。でもASTTに対しては、2011年9月に入ってから凄く一生懸命取り組んできてたんで。
加藤
じゃあ塩釜に限らずこの時点ではいくつかあるやつを続けたいと、
谷津
この仕事を続けたいと思ってた。
加藤
2013年に入るとそれが塩釜、というか松島湾だけになった。やっぱりみんなからの話、夜中までってやつも、立場上行かなきゃいけないからっていうのではなくて、嵌まりたくていってた。
谷津
そして持っていった責任もあると思っていたんですよね。やっぱり最初の頃に凄くゴタゴタしてたりとか、高田さん側がやりたいから来てくださいって言ったわけじゃないっていう中で葛藤してたりとかっていうのも経てきてるから、持っていった責任もあると思ってたんで。
加藤
でも、持てったのは谷津さんじゃない、
谷津
まあそうですけれど、そっち側の人間としてずっと関わっているから、それは途中でやめるとは思ってなかったです。今でもそうだけど。
加藤
そういう責任的な部分とその一方でその地域面白いから関わりたいというのがあって。じゃあそれは2019年まで関わってきているけど、いろんな思いがその間あったにしても、一貫している、
谷津
そうですね、一貫していますね。一貫しているんだけどちょっと変化があるのが、2015年度から、さっき言ったみたいに、私が事務局やればなんとかなるはずと思って、この年私凄く頑張ったんですよ。凄い頑張ったんだけど、結局のところみんなここの時と気持ちは変わっていなかったというか、この一個一個の話の内容が面白いからやってたり、このプログラム、その面白いと思ったことを自分で立ち上げたからやったけど。でも、つながる湾プロジェクトとしてやっていくつもりはあるかっていうと別にそういうつもりはないみたいなことに関しては変わりなかったんですよ。
加藤
2015年、運営委員会の形式になっても、
谷津
はい。私はそういうのがあったんでこの辺で話がまとまんなくなっていくわけですよ。やっぱりみんなが思っていることが一緒じゃないみたいな感じでまとまんなくなってくわけですよ。その時に私は一年、一生懸命やってみて。例えば私が塩釜に移住しちゃって、本当にそこの人になるってなったら違うかもしれないけれど、結局のところそれはできなし、どんだけ通ってもつながる湾で会ってる時以外のお祭りだとか他のいろんなイベントだとかのみんなの関係性っていうのはわからないし、っていうことで。結局どれだけ一生懸命やっても外の人間なんだっていうのを実感したっていうことでもあったんですよね。
加藤
事務局一年目、
谷津
そうそう。という限界的なもの。私が頑張ればどうにかなるんじゃないかと思ってたけど、そうじゃなかったなみたいなことは思ってた。
加藤
そこの頑張りって具体的には何の頑張りだったんですか?2015年、事務局を背負って。
谷津
この辺の勉強会の企画とか、今年は全部私がやってるし。そらあみもかなり通っているし。この時とかはそんな通ってないですよ、行ったけど。そんなに通ってないけれど、この時はそらあみもかなり私通って一緒にやってるし、そういう感じで
加藤
参加とか企画という意味ですよね、だけじゃなくてという部分も多分あるんですよね? 事務局の立場としての、
谷津
そうですね、予算編成を一番最初からちゃんとやるとか、運営体制をどういう風にしようかって話をするとか、みんなで運営していく時に誰がどの役割をするかみたいな話まで入っていって仕切ってミーティングをやるとか。私がこのミーティングをそろそろやらなきゃいけないですよねって言ってセッティングするとか。全体的に頑張ってましたね、この年。
加藤
そういう運営委員会内の調整みたいなこと。なんかわかんないけど、そこがしんどかったんじゃないかなって思う。いいとか悪いとかじゃなくて、そこで苦労したんじゃないのかなって。
谷津
そこは結局、この時凄いなって思いながら。13年14年って凄いなって思いながら、自分東京都側の人間だから、あんまり入り込めないみたいのがあって、
加藤
なんか線引いてたっていうか
谷津
それはありますね。あります。やっぱり立場上っていうのがあったから、私はつながる湾側の人間ではないから、あくまでサポートする立場だかっていうのがあって。でももっと自分自身体験したかったし、本当は。もっと中に入って体験したかったし、助けたかったし、みたいなのがあって。
加藤
現場の人間でいたいというか、
谷津
現場の人間になりたい、みたいなのはあったと思うんでですよね。もっとしっかりこっち側の人として関わりたいみたいなのはあったと思う。だからここで頑張ったわけですけど、
加藤
2015年度はじゃあ、参加という意味でも企画を立ち上げ、勉強会を催すとかっていう意味でも、
谷津
つながる湾側の人間としてここから、
加藤
できることを。
谷津
うん。っていう感じでやったつもりだったけど、やっぱりどうしても超えられない壁が、っていう風に思ったわけですよ。って思ってて。あと、やっぱりみてるものが違う、っていう状態はあった。他の人たちと。
加藤
みてるものが違う、
谷津
私はつながる湾に対する思い入れもあるし、ASTT側で関わってきた責任もあり、つながる湾をいい形で地域に残したいっていう気持ちがある。でもこっち側の人たちは、つながる湾っていう枠組みがあったからそれに乗っかっていろんなことをやったけど、つながる湾プロジェクトを自分たちが担っていくつもりはない。
加藤
それがあってもなくても。
谷津
っていうのが変わらないでいったわけで。変わらなかったからこの辺りで話がまとまんなくなっていったわけですよ。
加藤
運営委員会一年目の、
谷津
最後の方です。
加藤
その流れを引きずったというか打開策を何か見つけようとしていた2016年の初夏ぐらいで、僕がそのミーティング入っていって、みんなでこれから何やっていくか持ち寄りましょうみたいな。もう一つ、2015年度の後半ぐらいで、この間大沼さんさんが言ってたのが、何をするのかっていうところの話し合いで、イベントをもっとやっていって人を巻き込んで行こうって大沼さんさんが言っていて、それに対して篠塚さんとかは何かを残す、紙物とか記録なり資料を残す方に力を入れたいっていう感じの。っていう意味でもぶつかり合ってた、まとまらなかった、っていう印象を持っていて、
谷津
大沼さんが、
加藤
大沼さんが。まあ結果的に大沼さんがハゼを持ち込んで、たまたまいいタイミングで僕も入れてもらって、篠塚さんと一緒に図鑑作ってっていう形でリンクしたというか、本を残すのと、新しいイベントってなりましたよねー、みたいな話をこの間大沼さんとしてたんですけど。その2015年度の後半で、そういう意味でのせめぎ合いというか、意見のまとまらなさっていうのが、
谷津
ありましたね。篠塚さんはもうこの話をしている時に、この考え方があって。篠塚さん自身も刺激を受けてるわけですよね、五十嵐さんなりこういう勉強会で知った内容なりで刺激は受けてて。でタイムカプセルを考案したり、旅展は全部篠塚さんが主導でやってるし。っていうのがあって篠塚さんとしてはそういう考え方に共鳴して地元の人計画してこういうプログラムをやってるんだからそれでもういいじゃん、っていう風に言われたのを凄い覚えていて、別につながる湾プロジェクトとしてどうあるべきかなんていうこと考える必要性なんてないよねみたいな感じだったわけですよ。地元の人は地元のことを大事に伝えるためにはどうしたらいいかっていうのをやってるんだからそれだけでいいんじゃないのみたいなね、感じだったわけですよ。それで篠塚さんがやりたいものとしては、こういう図鑑みたいなもの作りたいっていうのをその時点から言い始めていた。で、私としてはそれはちょっと違うってのを持っていて、やっぱりこれは東京都と一緒にやっていることだからっていうのはあったわけですよね。その東京都が作ったというか、枠組みでお金も出していて、共同の主催という形で話をしながらやってきているし、だからそのコンセプトっていうのはちゃんと考えながらやっていかなきゃないっていうのは思っていて。篠塚さんが言ってることっていうのは、お金がもらえるから好きに使っていいじゃん、って言ってる風に聞こえたんで、そうじゃないよねって風には思ってたのはあって。ということがあった時に大沼さんからその時に篠塚さんが言っていることに対して、篠塚さんが言っているそのやり方をしたら……あと、結構いろんな人関わってたわけですよね。ツアーやったりっていう時とか。今の運営委員会のメンバーだけじゃない、塩釜のいろんな人が関わってやってたんだけど、篠塚さんは先鋭メンバーでクオリティーの高いものを作りたいって感じだったんですよ。図鑑の時もそういう感じの話をしてて。大沼さんがそれに対して、そのやり方したら凄くいいものはできると思うし、やりやすいし、いいものができるということは目に見えているけど、それはつながる湾プロジェクトじゃないんじゃないの?っていう感じで大沼さんが言ったわけですよ。もっと最初の頃みたいにいろんな人が乗っかってきてくれて楽しんでくれてっていうのがつながる湾プロジェクトだと思うからっていう風に大沼さんが言ったのを私は凄く覚えていて。っていう話が、大沼さんはここまでそういうどうしていこうかみたいなところではあまり発言していなかったんだけど、ここで凄く明確に大沼さんの意思が出てきた時期っていうのがここだった。
加藤
2015年の運営委員会一年目
谷津
その話し合いしている時ですよね。その話が出たのが具体的にいつだったかってのは覚えてないけど、これからどうしようっていうのでまとまらなくなっている時に、大沼さんからそういう意思が出てきた。
加藤
大沼さんの話だと2014年ぐらい、運営委員会なる前までは、さっき谷津さんが言っていた通り、個別の企画があって大沼さん自身もつながる湾全体で何やってるかっていうのは、あまり関係なくて。だから、語り継ぎとかあんまり参加してないし、同居湾もなんかやってる人がいるっていうだけで、自分はそらあみに行って勉強会参加して、あとTANeFUNeカフェ。とか単発じゃないけど個別の企画にガッツリ入ってっていうだけだった。で、2015年、時期は大沼さんちゃんと覚えてなかったけれど、全体でやりましょうみたいな感じの代表に大沼さんなって、雰囲気は変わったみたいなことは言ってたのかな。それが例えば2015年で、今大沼さんの見解を谷津さんが聞いて、谷津さん的には、谷津さん側ですよね、その大沼さんの言ってたことっていうのは。谷津さんがつながる湾プロジェクトでやろうとしてたことに近い立場から大沼さんが見解を示してくれた。
谷津
そうですね。結構大沼さんがそれまであまりそう言った意思を出すっていうのがあまりなかったから、大沼さんがそういうことを言ったっていうこと自体に驚きだったし、その時に。
加藤
その時はもう代表ですもんね。
谷津
かな? 多分(笑)でもまあ、大沼さんはたまたま自分が代表をやっているっていうぐらいのつもりしかなかったとは思いますけど。私としては大沼さんの考え方でやっていくべきだって思ったのでそこからは大沼くんの意思を実現していくためにはどうしたらいいだろうと考えるようになりましたね、そこから。
加藤
谷津さん的につながる湾プロジェクトがこうあるべき的なものを、ま、絶対こうでなければいけないまでは思ってないかもしれないけど、なんとなく目指す像とかって、
谷津
目指す像があるんだけど、私がやれるわけじゃないっていうのもあるわけですよ。塩釜の人になれないから。私が中心というか主体になってやれるわけじゃないっていうことも実感し、だけどつながる湾プロジェクトは地域の中に残っていってほしいっていう思いがあり。その時に大沼さんがからそういう発言が出てきたから、大沼さんの意思を実現することがつながる湾プロジェクトを残すことだっていう風になった。
加藤
ある意味シンボル化して、大沼さんの存在なり考え方を、
谷津
そうですね、それを主体にやっていくのがいいっていう風に思ったわけです。その時に。
加藤
谷津さんがその運営というかお世話役なりいろんなことする上でもその方がしっくりきやすかった?
谷津
うーん。まあ、究極的な話をしたら、私そのつながる湾プロジェクトをなんとか残したいと思ってこの辺をやってたけど、ここで大沼さんからそれが出てこなくて、大沼さんも別につながる湾っていう枠組みなんてどうでもいいんじゃないのみたいな話だったとしたら、だったらもう東京都の事業やめようよっていう話になったと思うんですよ。それだと形だけだから。都合よくお金もらって、好きなことやるだけっていう風になるから。それだったら東京都との事業をやるべきではないんではないかっていう風になったはずなんです、私としては。ここまで一生懸命やってきたけど無理だったんだなっていう結論になってたと思う、それだったら。でも、大沼さんという地元の人からそういう意思が出てきたから、その意思があるんだったら、じゃあ最後まで手伝おうっていう感じになった。
加藤
僕2016年の前半に入って打ち合わせとか聞いてて、やっぱりその、もうやめたら的な余韻がありましたよね。そういう形だったらやらなくていいんじゃない、東京都のお金もなくていいんじゃないの的な。別にその当時誰がどの立ち位置でとか分かんないから誰が言ったとか覚えてないけれど。でも、もらってやるの意味とか、もらわないでもう、単発で個別にやった方がいいんじゃないのとか。なんかそういう話はなんとなく印象に残ってるんですね。もう図鑑作ったりハゼやったり、あとパスポートになってきたり、なんとなくまたプロジェクトとしてやることが少し、プロジェクトとしてやる意味みたいなものがなんとなく今はあるのかなって気がしてるんですけど。なんかそのヒリヒリする感じ2016年の最初の方。なんかちょっと覚えてはいますよね。前もそういう感じだったってことですよね。
加藤
李青さんたちはここまで来てインタビューしたんですか?
谷津
やっぱり3時間ぐらいいたなぁ。
加藤
その日はそのためにきたんですか?
谷津
そのためにきた、そのための日帰りで(笑) でもそのぐらい東京都側としても大事なことだと思ってるんですよ。
加藤
それはなんで大事かっていうと、収束させていくっていう、
谷津
そう、やっぱりこの間話聞いて、李青さんたちもつながる湾プロジェクトっていうのはとってもいい形でできているって。最終的に、いい形になっていると思ってるんですよね。被災地支援事業として東京都がやりたかったことをちゃんとやれていると思っているんですよ。
加藤
アートからはちょっと外れたとしても、
谷津
外れたとは思ってないと思います。むしろ理想的なって思っている感じだと思う。
加藤
谷津さん自身は、考え方って変わってきてますか? その運営委員会になって、つながる湾プロジェクトというそれ自体を続けていきたいっていうか、続けるためにはどうしたらいいかってことで悩んで、うまくいかないところあったり、またなにかやること出来てきて、ちょっと息を吹き返したと言ったら変かもしれないけれど。ま、波がありますよね。勢いで2013年14年かなりガッツリやって、その後ってもどかしさとか上手くいかなさとかちょっと見えてくる希望とか、なんかそういうことがいっぱいあったと思うんですけど、
谷津
そうですね。
加藤
谷津さん自身はその間考え方って変化してきてますか?
谷津
考え方…
加藤
やめてしまおうかなって。やめてしまった方がいいんじゃないかなって、
谷津
あー… やめちゃおうかなとは思ってないけど、どうしたらいいかなって凄い悩んではいましたね。どうしたもんかなこれって思ってた。悩んでましたね。
加藤
2015年16年
谷津
2017年が一番悩んでたかなぁ。多分。2016年7年か、結構悩んでましたね。その大沼さんからそういう意思が出てきて、じゃあ大沼さんの支援に徹しようと思ったっていうのもそうなんですけど、でも篠塚くんも図鑑作るだけで話し合いには参加しないみたいな感じになってしまうし。彩さんは彩さんで美術館の方が忙しくてつながる湾のことは特にタッチしないみたいになってくるし。で、大沼さんがこうやって企画作るけれど大沼さんはいろいろ他のこととかもやっていて凄く忙しくて、ほぼ大沼さんは一人でやるみたいな感じになってしまい。でもだからといってちょっとここの反省があるから私がじゃあそのスタッフとして実際にガッツリ入っていって一緒にやれば解決するかっていうと、そうじゃないと思ってたんで。大沼さんを主体にしながら地元の人たちで運営していける体制にしなきゃいけないから、そこで私が手を出すのも違うっていう風に思っていたんですよ。だから大沼さんが苦労していて、イベントの案内するのが前日になっちゃうとか、そういう規模的な問題でそういうこともあったし、結局その大沼さんがそういう風になっているけれど、彩さんとか篠塚くんとかは結局一つにならないみたいな。津川さんにもどういう風に関わってもらったらいいかみたいな感じで、大沼さんだけが動いているっていうか、そういう感じだったのでこのままだと厳しいよなって思っていて、どうしたらいいかなって思っていましたね、この辺は。
加藤
2016年17年
谷津
うん、そうですね。
加藤
2017年あたりはほぼハゼしかやってない、
谷津
ハゼしかやってない。
加藤
多賀城の勉強会、村松先生は谷津さんが持ってきた話なんでしたっけ?
谷津
そうですね。持ってきたっていうか繋いだんですよね。勉強会もよかったねっていうのもみんなあったから、勉強会凄いよかったねっていうのがあったんで、また勉強会やりたいよねみたいな話を常に出てて。で、呼べるよ。みたいな、繋がってるから話できるよみたいな話してやったんですよね、この時。
加藤
2016年度の末に初めて図鑑を作って、まあ僕が途中から入った年度でもあるし。同じ時期に谷津さんノック!作ってて、前にも話したかもしれないけど、あれもなかなかしんどかったですよね。
谷津
あれはしんどかったですねー。
加藤
谷津さんがノック!を作ろうとしているっていうのが、多分その当時の僕は話し合いに参加しているけど、谷津さんがそのノック!っていうのを作ろうとしているっていうのは、傍目でって言ったら変だけど、見てて凄いな、本一冊作って凄いなと思いながら見てて。今になって思えば、いま今日こういう話を聞いた上で、もう一回話を聞くと違うと思うんですけど、あの時点でノック!を作ろうと思ったって、谷津さんなりのつながる湾に対する思いがきっとあったと思うんですが、
谷津
そうですね。ずっと通してだけどつながる湾プロジェクトっていうの凄く価値があると思ってたわけですよ、私自身。
加藤
プロジェクトとして。
谷津
プロジェクトとして凄く価値があると思ってて。他の地域からしたら羨ましかったり、他の地域にもそうなってほしいっていうものだったり。そういうものだっていう風に思っていて、でもそれを運営委員会のメンバーが自覚していないような気がしたんだと思うんですよね。私はつながる湾プロジェクトっていうのをもっと他の地域にも伝えたいと思っていたし、今つながる湾に関わっていない人にとっても「あーこういう風に関われば楽しいんだ」とか「こういうやり方ができるんだ」とかそういう風に思ってもらえるようなものであるはずだから、それを見える形にしようっていうのがノック!だった。あと、その年、予算があまりそうだったっていうのも一個ある。この年さっきも言ったようにハゼしかやってないんですよ、でもずっと継続で300万円あるわけですよ。で、どう考えても予算が余るわけですよ(笑)で、この年とかもちょっと余ってるんだけど、それを
加藤
2015年も余ってる?
谷津
2015年もちょっと余ってるけど、でもそれはあんまり東京都側には言えないというか表には出せない話だけど、プール分としてちょっと多めに、これプール分ねっていう約束で多めにビルドに払ったりとかしてわけなんですけど。結構なんか贅沢にお金をもらっちゃってたんですよね、このぐらいの2015年もそうだったと思うし、
加藤
コンテンツの割にはってこと
谷津
そうです。そこまでお金かからないんだけど、先に取っておく分みたいな感じでもらっているみたいなところがあったんですよ。でもこの年はそれにしてもあまりすぎでしょ、
加藤
2016年
谷津
2016年。ノックを作ったお金丸まるぐらい余っちゃって、これをなんか上乗せするのってどう考えてもおかしいよねみたいなのもあった。だから大沼さんの主体で進めようっていうのはあったけど、他の企画とかがどうにも広がらなくて。まあ、このくらいの時はちゃんと予算使えてたんだけれど、どうにも広がらなくて、毎年来ているお金を使いきれなくて、でもそれを使いきれないというのは東京都としてもまずいわけですよね、予算の性質上余らせるとまずくてっていうのもあって、このお金どうやって、みんな企画は出てこないし動けないし、このお金どうやって使ったらいいのかなって言おうのも悩みだったの。で、その時に自分ができることとして、こういう本を作るってのがいいんじゃないか、余ってしまうお金を使ってつながる湾の価値っていうのをもう一回、まあこの時にやっていたのと質的にはある意味同じなんだけど、これはもっと関わってる人たちがつながる湾プロジェクトって何かっていうのを、自分たち何やってきたのかっていうのを共有するためのものだったけど、でもノック!はもっと外の人につながる湾プロジェクトに関わっている人や地元の人よりももっと外の人につながる湾プロジェクトの価値を伝えるっていうものを作ることに意義があるんじゃないかっていうことで企画したんですよね。
加藤
確かにその時ノック!作るって言ってる谷津さんがつながる湾プロジェクトをやってきたことをの価値というか意義というか、そこを何か言ってた。周りの人はどっちかっていうと「ふーん」っていうか、で「こんなに価値あるのにー」みたいなことを谷津さんが訴えてたのは何となく覚えていているけど。それで本ができて、そうすると2017年ってそれ以上に何もしていない? まあ図鑑終わって、その分2017年の牡蠣図鑑そこは予算増やしてもらってて、ボリュームアップとか
谷津
たぶんここの間で予算減らしてます、全体の予算減らしてるんです。ここで凄い余っていうのもあり、東京都との話でここで50万円予算減らしてます、この間で。350万円だったんです、ここまで。350万円だったんだけど、ここから300万円にしてるはずです。まあそれで、この海中撮影にお金かかったりとかもしてるんで、
加藤
まとめのようで最後ではないんですけど、こう関わってきた中で谷津さん的なメリットっていうかやってきてよかったと思っている部分がきっとあると思うんですけど、
谷津
んーと(笑) 結局、私がこっちにきて最初にガッツリ関わった地域なんですよね。こんなに一つの地域に対してずーっと一緒に経過を含めてやるっていうのが、最初に関われたところなので。そういう存在なんですよね。だから今は他の地域でもプロジェクトやる仕事受けたりするようになってるけど、他のやつはある程度仕事として、用件決めてそれに対していくらでみたいな考え方をある程度ドライにっていうか、やってるような感覚。
加藤
山元で冊子作ったりとか、
谷津
そうですね、でも山元は多少思い入れはあるけれど、でもまあ、仕事を依頼されてそれに対してじゃあこういう感じでやりましょうっていう話をして、依頼されたことをちゃんとやるみたいな感じなんですね、他の仕事は。一生懸命やってはあいるけれど、そういう感じなんだけれど。つながる湾に関してはやっぱり自分が育てた、自分も一緒に育ててきたっていうものっていう感覚があるから、自分のもの、ある意味当事者性は凄くある。自分が残したいと思って、あれをずっとこの地域にずっと残したいと思ってずっとやってきてるから、どこが出口になるのかみたいなこともちょっと前から考えてきてはいたんですけれど、まあこれで終わってもいいなって思えるまで、最後までやる、みたいな感覚はあるんですよね。
加藤
つながる湾プロジェクト谷津さんの中での存在っていうことですよね、今の。谷津さん自身が個人としてスキルなり考え方なりもっと言えば性格なり、
谷津
それで言ったら私のこと編集者にしてくれたのはつながる湾だし、ASTTなんですよね。結局その東京で働いているときに出版社にはいたけど、社員だったけれど、さっきも言ったように編集の仕事はしてないんですよ。だからこっちにきた時点で、編集やれますライターやれますって言える状態じゃなかったんですよ。これやってこれで記事を書き続けるっていうことはまあしてたけど、でもこんなの谷津新聞店が独自に発行している媒体でしかないから、これで別にライターの実績って言えるわけでもないしっていうのはあって、ただ元々好きだし得意だからこういうものを作ろうとかっていう話にはなっていくわけですよね。
加藤
谷津さんが言い出したり、誰かが言い出したのを「やるやる」って感じだったりとか。
谷津
そうです。で、これ以外にも初年度にえずこホールでフォーラムやってるんですけど、そのパンフレット作るとか、
加藤
初年度っていうと
谷津
2011年度にえずこホールでASTTについてのシンポジウムみたいなのをやってるんですけど、そのパンフレットとかにも口出して(笑)こうした方がいいとかっていうのをやってたり、っていうのがいくつか。東京都関連でもあったりして、やっぱりそこに気持ちが向くから、こうした方がいいとか、ここはこうしなきゃダメだとかって気持ちが向くから、まあ自然とそういうことをやるようにだんだんなっていくんですけど、実践を積ませてもらうような場にはなったんですよね。つながる湾だけじゃないですけど、でもやっぱりこれをやった経験とか、
加藤
最初のドキュメントブックがそれなりに厚みのある、冊子としては
谷津
そうですね、最初なんです。これが最初で、間にこれあるけど、これはつながる湾ではないけど東京都からこれやれっていう無茶振りで
加藤
四年目の語り2015年3月。同じ時期ですね、「改新」と。
谷津
そうですね。14年度の最後かな。これは無茶振りで凄い大変でしたね(笑)こんなの本当にやるの?みたいに思いながら。でも私がやらなきゃいけないと思って必死で作ったんです、これ。でも経験値としては、
加藤
でもこれ一冊作ったら凄いですよね、
谷津
そう、こういうの作ったことないのに。1ヶ月ちょっとですよ、これ作ったの。
加藤
そうなんですか?
谷津
寝てなかったですよ、これやってるとき(笑)っていうのを経て、この時は篠塚くんがデザイン全部やってるけど、この時から土澤潮さんっていうブックデザインの人に入ってもらってるんですね、これは篠塚くんの紹介だったけど。
加藤
ノックと同じ人ですよね。
谷津
そうです。土澤潮さんをこのときに紹介してもらって。この時も最初篠塚くんがやるとかいう話になってたんだけど、このページ数無理だから、ちゃんと本やれる人に頼んだ方がいいって言って土澤さん紹介してもらって。
加藤
土澤さんは本の装丁とか、
谷津
完全にほんのデザインなんですよ。で、紹介してもらって、これを無理やり作って。で、これの経験があったからノック!はやれると思ったっていうのもあるので。で、ノック!を構想して、こういう風に作ろうって言って作って、みたいな。それでやれるなってなってきたので、つながる湾以外の地域のものもやれますよって言って、やったりってなってきたんで。だから個人的なスキルっていう意味でいうと、ウェブサイトもやったりとかしてたんで、個人的なスキルという意味では、インタビューすること、まあこれはつながる湾じゃないけど、インタビューすることだったり、こうやって冊子にある程度のストーリーを考えて冊子にまとめるみたいなことを実践でやらせてもらえる場所だった。それをやることで経験を積むことができたっていうのはある。
加藤
ずれるかもしれないけど、谷津さんは冊子作る以外に展示企画をプロデュース、
谷津
メモリアル交流館ですよね。
加藤
あのスタイルはあそこだけですか?
谷津
あそこだけです。あれは、まあ八巻さんなんですよ。この雄勝法印神楽のところで登場している八巻さん。それはつながる湾とはちょっと関係ないといえば関係ない話なんですけど、この八巻寿文さんという、この人が仙台演劇工房テンボックスの、ずっと工房長をやってた人なんですけど、この人がこのインタビューをすごく気に入ってくれたんですよ。すごくいいって。これすごくよくまとめてもらったって言ってくれて。八巻さんが一番この本配ってくれたぐらい(笑)この雄勝法印神楽の関係者とか、それ以外にもこれに全部書いてあるからっていう感じで配ってくれてて、それ以外に八巻さんが私にその編集の力を見込んでくれて、メモリアル交流館の館長にヤマキさんがなった時に、谷津さんこれやってくれないかな?って話をくれたんです。
加藤
それはでも、ある意味畑違いというか、谷津さんからすると、
谷津
初めての仕事です。
加藤
本の編集とまた全然違う、まあ同じ部分もあるけど、文章書いたりもあるけど。でも、展示全体をコンセプトに基づいて作るみたいなことって全然別な話だと思いますけど、
谷津
でも、全然別でもないですけどね。
加藤
やることが違いますよね、その形にするために。
谷津
そうですね、違うけどでもある意味これもデザインはデザイナーさんがやってくれるわけじゃないですか。私がやってるわけじゃなくって、構成は考えて原稿は書くけどそれをものに、物質にしてくれるのは違う人なわけですよね。デザイナーさんがいて印刷所がいてっていうのは。それは展示でも同じかな。私がそのストーリー作って、テキスト書いて、こういう構成でやりたいっていう風に言って。それを形にしてくれるのは別の人たち。デザイナーさんだったり、その作る人だったりとか。
加藤
やってることは編集ってこと、
谷津
そうですねそういう意味ではディレクションしてるという意味では同じだと思う。
加藤
だとするとやっぱり、
谷津
そうです、経験値としてはそうです。それがそこに。まず八巻さんの紹介だっていうことも含めて技術的なことも含めて繋がって。経験として積ませてもらったことで今やれている。
加藤
今後、つながる湾という形、形というか考え方なのか、その、残っていったらいいなといういうか。ASTTが支援してのつながる湾プロジェクトはどこかで終わるわけじゃないですか。そこのところをどう考えているか、どうなっていたらいいと、
谷津
でも、今の流れなら残せるんじゃないかなっていう感じがしてますね。結局、この時期の悩みって、みんな忙しくて、つながる湾で東京都から予算が出るとは言っても人件費もある程度出してくれるとは言ってもそれを仕事にしてやっていけるわけでもないし。それを仕事にしようというつもりもない中で、その状況の中でどうやってこのプログラムを作り続けて継続させていくかみたいな話だったわけすよ。人が足りない、スタッフが足りない、若手もっと入れなきゃみたいな話をずっとしてた。だけどその解決方法として、つながる湾という団体を大きくするということじゃなくて、すでに松島湾で活動している人たちをつながる湾というプラットフォームに乗っかってもらって一緒にやれるようにしようっていう方向になったってことなんで。それが今機能し始めている感じがするので、
谷津
こういうやり方だったら続けていけるんじゃないのかな、っていう風には見えている。東京都の予算が無くなったとしても、同じ形じゃないかもしれないけど、つながる湾で得たものを下地に松島湾近辺の人たちがそれぞれにプログラムを作って、一個の土台に乗せていくことで、大沼くんが言っているような、季節ごとに地元の人たちが日常の中で自然に湾の文化に親しんでいくっていうことを達成できるんじゃないのかなっていう感じはしてますね。
加藤
そうなっていった時に、そうなっていくかどうか。流れていく時に、谷津さん自身はどういう関わり方になっていく、
谷津
もう私がいなくても回るようになるのがいいと思います。
加藤
谷津さん自身はもうそれがなければ関わらないというか、そういう立ち位置になるんですかね、
谷津
そうですね、だから一緒にやってた仲間みたいな感じで、何か塩釜でそういうのがある時に行くとか参加するとかってことはあると思うけど、もうこういう風にこの先動いていく、つながる湾プロジェクトの中に自分がいるっていうイメージはないですね。そのアーツカウンシルの、ASTTの出口と一緒に私の出口もあるって思っているですね。
加藤
流れの中で話をしてきたんですけど、谷津さんの中で今、触れなかった、もしくは軽く流れてしまったことの中で、何かそのターニングポイントがあったこととか、大きなことってあります?
谷津
うーん… いや、ないかな。大事なことは
加藤
これちょっとまた別に皆さんに聞いてるんですけど。それぞれの今いるメンバー。今回話聞く何人かのそれぞれに対して谷津さんとの関わりというか、谷津さんのその人観「大沼さん観」「高田さん観」みたいなことを他の人にもちょっと聞いてるんですけど。なかなかちょっと難しいとは思うんですが。例えば大沼さんこの前言ってたのが、津川さんはどんな存在かというとまあ、コンセプターかな。みたいな話をしていて。まあその、どういう立場かっていう風に表してほしいのと同時に、自分にとってその人との出会いはどうだったかっていうことも聞きたいなって思ってたんですけど。ちょっと聞き方が悪いのかなかなか難しいんですが、ちょっとだけ質問してみたいんですけど。谷津 さんにとって例えば、津川さん。津川さんさんとの出会いってどこからですか?
谷津
ここが初めてです。
加藤
ビルド。で、津川さんと一緒にやってきてどういう存在ですか?
谷津
津川さんはどういう存在か(笑)うーん。
加藤
自分に与えた影響だったり、 
谷津
津川さんがいてくれて助かったって感じですよね、私からすると。この間一昨日李青さん達と喋ってた時も、やっぱりこの最初の段階で津川さんと高田さんにタッグを組んでもらったっていうのがやっぱり大きかったんじゃないかって話が出てたんですけど、本当にその通りだと思うんですよ。津川さんがそこで入るっていうのがなければつながる湾プロジェクトが成立しなかったっていう感じなので。その後ずっとつながる湾プロジェクトってなんなんだ、何をやればいいんだっていうことずっと追求してくる中でも、やっぱり津川さんがいてくれたことでその話をし続けることができたと思います。それがたぶん大沼さんが言ってているコンセプターっていうことだと思うんですけど。この時点でこの冒頭の話ですよね、だからこれをここに持ってきているんですけれど、津川さんのこれがあったからみんな「ああそうだよね」って言ってこの考えの元にやってくることができた。だからウェブサイトもそうだし、観音開きのパンフレットもそうだし、全部にその考え方を入れてるんですよ、この考え方が根底にあってやってるんだよ、っていうことをずっと入れてきている。で、津川さん自身は「俺は何もしてない」って言ってるけれど、津川さんが参加してくれていることでみんながずっとその方向性に、あーでもないこーでもないって言いながらも、大枠その方向性だよねっていうのは津川さんがいてくれたことでずっと保ってこれたと思う。
加藤
コンセプトを発案しただけではなくて、その発案者というか、その存在としてそこに存在し続けた。
谷津
そうですね。その都度話し合いの度に津川さんが言ってくれることも、みんなが… たぶん津川さんがいたからバラバラにならなかったんだと思う。私が悩んでた時期も、津川さんがいてくれたのは凄く大きかった。ノック!のそれこそタイトルの件で揉めた時も津川さんに私相談しにいったりとかしてるし。『お父さん』ていっちゃったらあれですけど(笑)ちょっと一歩外側の視点でずっとみててくれる人だったかなぁ。中の人間だよっていうスタンスを持ちながらも、一歩外側でずっとよりそてくれているというか、そういう感じだったなぁと思うので。今回もね、このアーカイブプロジェクトって津川さんの発案で始まってますしね。凄く信頼している人ですね。
加藤
谷津さんが苦労して運営事務局として動く中で、支えというか、理解者的な
谷津
そうですね。なんかそこまで津川さんと凄い密に何かこうしようああしようみたいな話をしてきたかっていうと、そうじゃないんですけど。そうじゃないんだけど、でも
加藤
見てくれている感は、
谷津
そうですね、ある程度。私の立場的なものは理解してくれている人だと認識してたかな。
谷津
津川さんが「谷津さんにいてほしい」みたいなことも言ってくれてたし。
加藤
それは特にどういう文脈で、何故というか、〇〇だからいてほしいっていうのは、
谷津
うーん。〇〇だから(笑) それはちょっと津川さんに聞かないとわからないですけど。いてほしいみたいなことは何回か言われました。
加藤
大沼さんは谷津さんが事務局じゃなくて運営委員会の形にする時に、でもそういう方向がいいんじゃないかっていうことで話を進めていく時に、大沼さんが、どのタイミングで代表になったかは知らないんですけど、大沼さんが代表になって、さっき言った、谷津さんがやろうとしていることに沿うような同じような発想で発言をしてくれたみたいな。
谷津
うーん、私がやろうとしていることに沿うというよりは、アーツカウンシルの二人と話をしてた時もそうなんですけれど、こういう風になったらいいなっていうのがあったわけですよね、アーツカウンシル側として。このつながる湾プロジェクトっていうのをやる時に。こういう風にになったらいいなっていうのあるんだけど、でもそれは地元側でやってね、みたいな話なわけじゃないですか。そこで、こういう風になったらいいなっていうのは私にも、だからその話を聞いて共感してたから、私もそういう風に思ってるんだけれど、じゃあ誰がどういう風にやるの?っていうのがなかなか難しかったんだけれど、ここで大沼くんがその主体として登場してくれた、みたいな感じですよね。大沼くんだったんだ、みたいな。そっか、主役は大沼くんだったんだ、みたいな(笑)最初は完全に高田さんが主役なわけですよ、その受け皿として、高田さんのビルドっていうプラットフォームがあって、それがあったからこの事業持ってくることができて、一緒に組みましょうみたいな感じでやってきて、でも高田さんの意思がちょっと違うところにあるから、うまくいかないなぁっていうのがあって。篠塚くんもそう意思はないんだなぁみたいな時に「大沼くんだったんだ」みたいな、主役は。つながる湾プロジェクトの主役は実は大沼くんだったんだっていう感じで。
加藤
今後ってことを考えてもやっぱそうなんですかね。塩釜なり、あの地域での占めていくポジション。大沼さんが何になろうとしているか知らないけれど、
どこ目指しているのかわからないけれど、でも今何かかなり地域の重要なポジションに、
谷津
そうそう、そうですよね。そういうことも含めて。つながる湾だけじゃなくて、そういうことも含めて。本当に塩釜の人間として塩釜の未来を考えて、塩釜の過去と未来をどういう風に繋いでいくかっていうことを、担っていく人、って大沼くんだったんだなっていう。それが明確になってきた。まだそう思ってないかもしれないですけど、大沼くんは(笑)まだそう思ってないかもしれないけれど周りから見たら、そうでしょ、っていう感じ(笑)
加藤
明確になったっていう意味もあるし、大沼さん自身も意識が変わってきたってことですかね?
谷津
じゃないですかね、そう思いますよね。
加藤
たぶん大沼さん、ちょっと谷津さんにいうのどうかわかんないですけど「なんで俺?」みたいな
谷津
「なんで俺代表やってるの?」みたいな、ね?「たまたまやってるだけでしょ」みたいな。そこ謙虚だから(笑)
加藤
まあ、スタートも結局俺しかいなかった、みたいな。それってたぶん表面的に言っている部分もあるけれど、本音でそう思っている部分もなんかあるのかな、もしかしたら。
谷津
でも謙虚だからですよね、謙虚だからだと思う。やりたくないわけじゃない、自分のやりたいことっていうのはそこのあるんだけど、自分がやらなくたって別に他にできる人いるんじゃないの、って思っていると思うけど、大沼くんは。いやでも大沼くんでしょ、みたいな、周りから見ると。
加藤
絶対に代わりはいないと思う。
谷津
そうそうそう。
加藤
特殊ですよ、みんな特殊だけど大沼さん特に特殊だな。まあそれぞれ特殊だけど。
加藤
彩さん。最初の頃はやっぱり彩さんが受け皿であったり、ハブであったり。ハブって意味では、つながる湾に限らず、いろんな意味で彩さんハブなんですけど。特にアート関連とか。でも、さっき谷津さんも言ったけど、彩さんがいたから始まった。
谷津
そうですそうです。
加藤
で、揉めたというか、軋轢と言ったらいいですかね。その、ソリの合わなさとか、話の合わなさとかっていうのは、たぶんこの間で何度もあったと思うんですけど。それを踏まえた上で、どんな存在かっていうことを、
谷津
どんな存在なのかなぁ。最初つながる湾にとってというか、塩釜にとってというか、ということでいうと、やっぱりそのアートの視点を持ち込めるのは彩さんがいたからですよね。やっぱりそれは当然。それで、ああいうビルドっていうのを始めて、その若手のアーティストのネットワークっていうのを下地として、震災前から作っていて。で、大沼くん篠塚くんっていうのがその最初の頃から参加して、クオリティーの高いもの作れる、動ける人として、チームとして存在している。ってこと自体が、他の地域と比べたら凄く稀有なことで。それがあるからできるってことがすごくたくさんあるから、そのプラットフォームを作ったっていうことが彩さんの功績だし。そういうことで今でも塩釜でずっと重要な人物であり続けていると思うので。つながる湾プロジェクトの、東京都がやりたかったこと、そのものを彩さんが担い手になるっていうことではなかったんだけれど、でも、なんていうんですかね、繋ぎ役じゃないけど。彩さんがあんまりそこまで自覚的じゃなかったかもしれないけれど、アーツカウンシルがやりたいことを引き受けるってことは、自覚的じゃなかったかもしれないけれれど。でもやっぱりアートの視点があったから、ある彩さんがいたからできたんだと思う。
加藤
アートプロジェクトですもんね。
谷津
そうです。という存在だし。今やってくれているじゃないですか、運営。この辺って全然彩さんタッチしてなかったんですよ。
加藤
2016、17年
谷津
15から17ぐらいまで。全然運営タッチしてないから、彩さん。運営委員会で、こうすべきなんじゃないかってこいうことは言うけど、自分自身が担い手になることはできないみたいな感じだったんですよ、ずっと。だけど今年度から、私美術館側の状況がどう言う風に変わったかってのはわからないんですけれど、今年度から中心になって動かす役割を再び担ってくれている印象なんですけど、
加藤
昨年度くらいから?
谷津
うん。そうです。でも、完全には今年度からじゃないですかね。昨年度くらいから彩さんがそう言う風に再び、再びなってきたから今年、じゃあ彩さんに運営をビルドでやってもらったらいいんじゃないかって。お金をもう移動して、彩さんのところに任せて、って言うことができるようになったんで、
加藤
今年は出し入れをビルドでやっていると、
谷津
そうそうそう。去年までは私が支出の管理とかを」やってたんですけど、そこをビルドに委託するって言う形をとれた。
加藤
全部? 300万円なら300万円全部ビルド経由で、
谷津
ウェブと図鑑以外。ウェブと図鑑は私が引き続きお金の出し入れやるけれど、それ以外のプログラムの部分は全部ビルド、って言う風に。
加藤
事務局としてのその手当てっていうのが多少あってって言うのが、
谷津
その中からとってね、って。その中から取り分とってねっていう。あと予算任せるから。彩さんのところに入れて、あとその中でどういう風にやるかは彩さんのところでやってね、っていう状態でやってる。
加藤
彩さんでいうと僕のイメージだと、去年からとか、パスポートやって文化交流市場やって、まあ、積極的に関わってたと思うんですけど。関わってというか引っ張っていた部分があると思うんですけど。僕のイメージだと、「美術館忙しいから私は…」って言っていた状態からなんか変わったきっかけが、立ち消えになった演劇のやつ。誰さんでしたっけ?
谷津
市原幹也さんですね。
加藤
市原幹也さんが来るって話になった時に、地域の人たちをアクターにして何かみんなでやろうよ、みたいなことに対して、彩さんちょっと目の色変わったみたいな、ようなイメージを受けたんですよね、僕は。打ち合わせの時とかに「それだったら面白そう」みたいな。で、まあ全然こちら側とは関係ない理由でそれが立ち消えになっちゃったけど、じゃあどうしようかってことで、大沼さんの案をベースにして、パスポートかなんかですよね? それにそのままこう勢いよく全体的に、彩さんも含めて流れていくことができたのかなってなんとなくみてて。ダメになっちゃったけど、なんかあそこ、あれは鈴木さんでしたっけ?
谷津
鈴木拓さん。最初、どうやってあの話出てきたんだっけかなぁ。ちょっと忘れちゃったな(笑)五十嵐さんが来れなくなったんですよね、それまでは五十嵐さんが中心というか、五十嵐さんが来るのに合わせてプロジェクトが動いていくみたいな感じだった。…なんでだっけ…まあでもこの辺。東京都側ですね、演劇じゃないかって言ったのは李青さんだ。李青さんですね。結局どうやったらいいかなって話ずっとしてたわけですよ。この土地の記憶紡ぐアートっていうのも東京都側の組立てで、会津と話したらいいんじゃないかって、
加藤
仙台でやったやつ
谷津
仙台でやったやつ。この時に、会津と話したらいいんじゃないのって言ったのが李青さんだし。で、ずっとつながる湾プロジェクトどういう形にしたらいいのかっていう話はずっと継続はしているわけですよ。そんなしょっちゅう話しているわけじゃないけど、状況の共有しながらどういう風にして言ったらいいかなって話は
加藤
谷津さん的にはこちら側、現場側がなかなか打開策がないということを李青さんにも伝えてて。
谷津
そうです
加藤
李青さんなりのアドバイスというか提案を、
谷津
そうです。演劇じゃないかっていうのは李青さんからできたはず。つながる湾プロジェクトのやってきたこととか、あり方っていうのが、実際に船で動いて景色が変わっていくみたいなそういう、時間を伴った体験だよね、って。つながる湾プロジェクトの特徴とか大事にしているものって、身体感覚みたいな。船に乗る、海と近い、とか。岩の間をくぐるとか、時間を伴った身体感覚をすごく大事にしているから、それって親和性は演劇とあるんじゃないの、っていう話が李青さんから出てきたと思う。それで、鈴木さんはこっちの段階とかでも関わってる、関係性があったわけですよ。最初の方に、拓さんは拓さんで、仙台の演劇人のプラットフォームを作って、その人たちが支援でいろんなところに学校とか避難所に行ってワークショップやる、みたいなプラットフォームをやってたんですね。アルクトっていう。で、その時期にアーツカウンシルと関わってるんでよく知っていたんですよね。でその演劇の手法を取り入れられないかって考えた時に相談できるのが拓さんだったってことですね。それで拓さんに相談が行って、そうしたら市原くんがいいんじゃないのっていうのが拓さんから出てきた。そういう流れだった。やっぱりアーツカウンシルは凄いですよ。そういう要所要所のところでこういう風にしたらいいんじゃないのっていうのは向こうから出てきているし。パスポートもアーツカウンシルですからね。大沼くんが言ってたのはカレンダー作るって話をしてたわけですよ。目標としては、季節ごとに日常生活の流れの中で文化を取り入れていく・体験していく、状況を作る。っていうのが目指すもので、そのために何をやるかって話で、カレンダーを作る話をしてたりしてたんだけれど、そういう話をしてた時に、パスポートにしたらいいんじゃないの?って言ったのもりつかささんなんで。やっぱりそこは経験値だったりとかあって、ちゃんとアーツカウンシルがそういうアドバイスはしてますね、要所要所で。
加藤
今ちょっと彩さんに対しての話だったんですけど、彩さんが果たしてきた役割的なことだと思うんですけど。谷津さん自身が彩さんのやっていることを見て、受けた影響であったり、考え方の変化とか、
谷津
一番最初にあった時をすっごい覚えてるんですけど、これよりも前に2011年の本当に私がえずこホールに入りたての時にフィールドワーク的な感じでビルドに行ってるんですよ。その時が一番最初なんですよ。えずこの企画で被災地を見て回ろうみたいなバスツアーが、本当に私が入りたての時にあって。いろんな人を乗っけて気仙沼とか女川とかも言ったんですけど、その一つにビルドの訪問があって。で、高田さんがビルドでやってきたこととか、それで被災地支援事業をこういう風にやっているみたいな話を一番最初に聞いている、2011年の9月に聞いた時っていうのが最初にあった時なんですけど。その時にこの人凄いって思ったのは凄い覚えてるんです。その前段階として、「自分何にもできないじゃん」みたいな落ち込んでいた時期があった、ASTTの仕事に就く前に。「なんかここにきていろいろまちづくりやれるんじゃないかとかって思ってきたくせに何にもできないじゃん、私だめじゃん」みたいな風に思ってたっていうのが前段階としてあって。その彩さんがやっていることを見た時に、その若い時から自分は20歳代から、私はこれをやるんだ、って言って、意思を持って自分でああいう場所を立ち上げて、自分のコンセプトに従って人の輪を作って、ああいうプラットフォームを作っているというのが凄いって、その時に凄く思って。
加藤
それはアート事業として? ギャラリー運営とか、アーティストと繋がって、とか
谷津
そうですね。内容もそうだけれど、自分の意思で若い時からそういうものを立ち上げて仲間作ってやっているっていうのが、凄い。ってその時はすごく思ったんですよね。
加藤
形にしてきたという、
谷津
形にしてきたっていうのが。で、それに比べたら私はなんかのほほんと会社員やって、やってればそのうち自分がやりたいと思っていることをできるんじゃないかみたいな風になんとなく思ってたけど、こっちにきてみたら何もできなかったみたいなのがあったから。だから彩さんに比べたら、自分は全然ダメだみたいに思ったんですよ、最初。それは凄い覚えている。で、最初そういう風に思ったから、凄い人だと思ってましたね。
加藤
で、刺激を受けたってこと、
谷津
そうですね、だからそういうのもあって、凄い人たちだなって思ってたから。この辺で関われたのは嬉しかった。仲間になれたような。そういう風にやってる人たちの仲間に入れてもらえた、みたいな感じがあって。嬉しかったっていうのがありましたね。
加藤
なるほど
谷津
で、そういう風に思ってやってたんだけど、話が噛み合わないところはやっぱあった、つながる湾をどういう風にしようかってことをやっていく過程で話が噛み合わないなっていうのは、ポイントポイントであり。まあなんとか伝えたいな、なんとかわかってもらえないかなっていう風に思ってやってきて、ずっとやってたんですけど。なんだろうな…難しいですけど、完全に分かり合えないだろうなって感じは今もやっぱりしている。だけど、たぶん最初に私が凄いなって思ったってこともあって、私自身が思い入れがあったんですよね、彩さんだったりつながる湾に対して。私自身の期待感とか思い入れが凄くあって、それが意外とわかってもらってなかったみたいな感じはあった。
加藤
谷津さんがどれだけ期待していて、どれだけ、
谷津
一生懸命つながる湾のためにどうしたらいいかって考えて奔走して、みたいなところが意外とわかってもらえてない、みたいな。そういうのはあった。
加藤
なるほどね。谷津さんがどれだけ頑張ってるのもそうだけれど、そこにどれだけ価値を感じているかとか、そこにいる人たちのやってることにどれだけのリスペクトがあるかとか、
谷津
そうですね。だからそれが思ったよりもわかってもらえてなくて、そんなにわかってもらえてなかったんだー、っていうのはあったんだけれど、今はというか、もうそれはそれ、みたいになってますけど。
加藤
この辺2015年とかこの辺なんですかね? それを痛感したのは。
谷津
うん、そうですね。2015年
加藤
あと、じゃあ。けいすけさんですかね。けいすけさん、まあ多分ぶつかってきたことも多分あると思うんですけど、
谷津
そうですね。
加藤
まずけいすけさんに対する印象というかどんな人、
谷津
篠塚くんのこともやっぱり最初凄いと思いましたよね。なんかこれやろうっていう発案は私だった気がするんだけど、やっぱり篠塚くんがこれに対して、もっとこうしなきゃダメだああしなきゃダメだってことを凄い言って、一緒に作ったんですよ、これ。
加藤
ドキュメントブック、
谷津
うんそうそう。これ篠塚くんとかなりがっつり一緒に作った。ま、デザインに名前入れてないですけど。あ、この時入れてるんだ。
加藤
この時参加者一覧も、
谷津
これはまあこんだけやってるんだよ、こんなにたくさんの人が参加したんだよっていうの見せるために入れたんですけどね、量として見せるために。この時すごいそういう感じでやって。その後もこのタイムカプセルの、タイムカプセルとかも凄いと思ったし、旅展も篠塚くんの発案だったって言いましたけど、篠塚くんが全体的にここもっとこうしようこうしようっていうのを、篠塚くんが仕切ってやっていて。そのクオリティーに対するこだわりとか、それを作るエネルギーとか、っていうのが凄いなって思っていて。デザインも上手だし。っていう風に思っていて。やっぱり、つながる湾って、このデザイン性の良さって一つの特徴になってる。っていう話を一昨日もアーツカウンシルの二人ともしたんですけど、このスタイル作ったのやっぱりその篠塚くんがいたからなんですよね。だとは思う、まあもちろん彩さんもそういうところに対するこだわりはあるけど、でもそのつながる湾のベースとなるデザインイメージみたいなのはやっぱり篠塚くんが作ったやつをずっと踏襲してるんで。このハンコにするっていうアイデアとか、篠塚くんが作ったやつがずーっと踏襲されている、イメージとして。この写真とかも篠塚くんが撮ったはずだし、この写真撮って持ってきているはずだし。なんですよ。だから、そういう意味で凄く功労者。なんですけど、篠塚くんはデザイナーとしての篠塚くんなので、つながる湾プロジェクトそのものにはそんなに興味がないっていうところだったと思う。デザイナーとしていいものを作るっていうことにおいて、つながる湾が篠塚くんにとってもいいフィールドになったし。そこにエネルギーをかけていろいろ凄くいいものを作ったんだけれど、あくまでデザイナーだから、つながる湾プロジェクトそのものを自分がどうしていくっていうのは篠塚くんにはなくて。そこで私としては篠塚くんもそのメンバーだったから最初から一緒にやってたメンバーだったから、私の側の要請としてはここのみんなでつながる湾プロジェクトをどうするかを考えようよ、っていうスタンスだったんだけど、篠塚くんは、それは違うっていうことだったので、そこで道は別れたっていうか。っていう風に捉えてます。
加藤
まあ、その道が分かれるだろうなっていうのをなんとなく、私が入ったぐらいにはすでにあって。その後図鑑のこともあったからかもしれないけれど、しばらくの間けいすけさんは委員会の中にいて。まあでも結局抜ける。抜け際に、覚えているのが、これから何をするか見たいなのを小さい紙に書いてみんなで絵を描いて、何分間で絵を描いて、
谷津
はいはいはい、ワークショップやりましたね、
加藤
あれが凄く印象に残ってるんですけど、あれって、谷津さんに聞いても仕方がないことかもしれないんですけど、なんでやろうと思ったのかって、ちょっと思ってて。あのタイミングで。もし自分が抜けるつもりなら、別にあれいらないじゃないですか、けいすけさんからしたらね。あれを例えば谷津さんとかどう受け止める?
谷津
今その話が出たので言うと、もっと最初のタイミングで似たようなことあったんですよ。あれとは違うワークショップだったけど。いつだろう。かなり最初の頃にあった。 この辺かなぁこの辺かなぁ。
加藤
案を出し合う、
谷津
なんかちょっと、もうだいぶ前なので記憶が曖昧なんだけど。チームのみんなのことを理解し合うみたいな感じのワークショップだった思うんですよね。そのメンバーが今の事務局にいる以外のメンバーもいたんだけど。それぞれ自分のことを喋って、どれぞれがどういう役割を果たしていくか、みたいなことを。やっぱりその。ホワイトボードのロールになってるみたいなやつ使って、それをみんなで書いて共有してみたいなワークショップを篠塚くんがやった時があったんですよ。それもあったし、ワークショップじゃないけど、篠塚くんがデザインというのはこういうことだ、みたいなのを、こういう映像があるよっていうことを見せて、デザインっていうのはこういう考え方なんだ、みたいなことを喋ったみたいな時もあったんですよ。篠塚くんはいいアイデアを出すとか、それを形にしていくことに対して理想があって。つながる湾にもそういう風になって欲しいんだけど、そうならないっていうもどかしさあったんだろうなって思う。
加藤
最後のワークショップも何かを期待していた?
谷津
うん、そう思います。私は、あれを一緒にやりながら、そういう意図なんだろうなっていう風に思いながら。でもたぶん篠塚くんの思った通りにはならないんだよな、って思っていた。
加藤
わかりました。大体そんな感じですかね。最後の各個人とのってのは話それちゃってますけど。谷津さんがどんなこと考えてきたかとか、その時々でどんなことを悩んでとか。一番はなんで関わってきたのっていうところなので、聞きたかったのが。その辺がはっきりしたというか、わかったんで凄い良かったなと思います。ASTT側としては、さっきそのASTTがやらせたいことっていうか理想としていること、何回か出てきたんですけど、それに近いことになってるんじゃないかっていう、李青さんの評価も今あるっていう話なんですけど。どうすることがASTTのそもそもの理想だったんですか?
谷津
地元の人が地元の文化を表現する術を持って、それを仕組みとして続けているってことじゃないですかね。そういう状況を各地に作る、っていうことが、そういう風になっていくべきだって思っている話。
加藤
つながる湾じゃなくてASTTの予算っていう形が抜けた後もそうなっていくようにって、
谷津
それが残せたら大成功ですよね、ASTT側としては。
加藤
谷津さんが書く、李青さんの話。インタビューのまとめの中にその辺のうまく行った部分というか、その辺が入ってくると、
谷津
そうですね。完全に意図できたわけじゃないけどって話はしてたんですけど。やっぱり、こうなったらいいよなっていうのは持ちながらやってるんだけど、つながる湾をみてて要所要所で
「あ、本当にそうなった」みたいな感動があったって言ってたんで。こういう風になったらいいなっていうのはあるけど。完全に、こうやればこうなる、ああやればああなるみたいな完全な確信と手法を持ってやれているわけじゃないですよね、やっぱり人がやることだし。その反応、どういう反応が返ってきてみたいなのは地域によって違ったりとか、人によって違ったりとかするから。その中でずっと対話しながら状況を見ながらやり続けるっていうのがアーツカウンシルのスタンスで。それをやり続けてきたら「本当にこうなった」っていう風に思ったって言ってました。
加藤
そうなんだ。
谷津
だから、他の地域で、他にもいっぱい現場持ってるわけなんですけど。他の地域の話をしている時に「これはつながる湾だったらこうなってる」とか「つながる湾だとこの時にこういう風にして」とかっていう風に、つながる湾を例として出すのが凄く多いって言ってました。成功していると思ってるから10年やり続けている、お金を出し続けているし。関わり続けている。ダメだと思ったら途中でやめてるからっていう風に言ってました。
加藤
李青さんの話になっちゃうけれど、2015年の時に東京都側であそこダメだって話になってない?
谷津
なってないです。それでやめようって話にはなってないんですよ。最初の頃にも悩むことを含めてやんなきゃダメだみたいな感じで森さんが言ってたのをなんとなく覚えてるんですけど。
加藤
現場の葛藤みたいのですか?
谷津
そう。どういう風にやるか、どういうメンバーでやるか、どういう組立ててやるか、なんのためにやるか、とかってことの、悩むことも含めて一緒にやっていかないとダメだみたいな感じで森さん言ってたのを覚えてる。
加藤
じゃあ、形にならない期間があっても当たり前というか。形にならないって言い過ぎですが。
谷津
だと思います。