高田 彩

高田彩
高田彩
Aya Takada
アートコーディネーター

2019年9月18日
インタビュアー:加藤

高田
1980年8月15日生まれ。塩竈市港町出身、三小から宮城学院中高。それからカナダの美術大学へ。
加藤
アートに触れるようになったのはどのへんから
高田
中学かな。でも幼少の頃から、美術館に家族で行ったり、物作りが好きな父が陶芸をしていたり、シルバニアファミリーとかお人形さんのお家を父が作ったり。祖母が日本画をやっていたり、ちりめん細工つくったり。もともと映画館だったということで文化に触れていたとか、親戚に岩井俊二がいたり、高畑勲が遠い親戚だったり。
加藤
岩井さんはいとこ?
高田
父のいとこです。
加藤
高畑勲は?
高田
おばさんの嫁ぎ先の親戚。だから私は、小さい頃から映画館が遊び場というか。西塩釜の…
加藤
東映系の
高田
館の名前が出てこない。いつも(美術館の事業で)やってるのに笑 
まあそんなで、芸術文化といわれるものに関する会話が、家族の日常会話にあった。
加藤
アートとか、クラフト、手作り的なものとか
高田
そうです。で、中学のとき、美術関係に進みたいと思ったのは、俊二さんの影響が大きかった。中学の時、俊二さんが「世にも奇妙な物語」シリーズや、深夜のドラマとかミュージックビデオとかを手がけていた時期で、「俊二さんが手がけた作品」ってことで家族で一緒に観たり。それがけっこう刺激的で。あと中高時代に音楽も好きで、カルチャー関連に進みたいというのは漠然と、あった。
あとは英語が好きとか、異文化に関心があって、語学を勉強してたので、海外で語学を使ってやるなら、自分の関心がある美術を学びたいと。
加藤
自分の作品を制作という方向性は
高田
まったくない笑 自分が表現したいとか、人生で1回も思ったことない笑 それが美大での苦しみでした。先生に「私は絵描きになりたいんじゃない!!」って。
加藤
でも大学の学科、分野としては、そういう、描く人じゃない人たちの…
高田
そういうコース。アーティストランカルチャーという、文化支援のほう。
加藤
絵は描いてない人が多い?
高田
ファンデーションイヤーでは、彫刻から何から授業を取らなきゃいけない。基礎の教養として。デザイン学科、建築学科、色々あるんだけど、私は一般美術に在籍していたので、そのなかで、情報発信ができるように、デジタルミディアなどのデザインのクラスと、シルクスクリーンなどのDIYで制作できるクラス、あとはアーティストランカルチャーなど文化支援のクラスを受講。あとは2、3、4年のときにはアーティストランギャラリーでインターンとして活動。なので、今やってることに必要なスキルを身につけていた感じ。
加藤
なるほど
高田
だから彫刻とかも、「私が作る意味はない。なんであえて大きいものを作らなきゃいけないんだ」とかそういうこと言ったり。「必要なものしかいらないんだ」って。笑
だからギャラリーのインターンは、早く働かせてくれって、インターンさせてもらったりしてた。
加藤
なるほど。そして今も、さっきの園子ちゃん(インタビュー当日は櫻井園子展の期間中)の話じゃないけど、アートを社会の中でどのように、価値を認めさせてというか、橋渡し的な…
高田
そういうところに関心がありますね。
加藤
この土地で生まれ育って、この地域、3市3町とか、海とか、湾とか、島とか、あまり意識しない? カナダに行く前とかは。
高田
なかったですね。
加藤
(地域関連で)何か覚えてること
高田
ほんとに記憶ない・・・ 小学校かな、海苔作りを、桂島か七ヶ浜でやった笑 それがどこかもわからないくらい。海辺ではあったけど。海で遊ぶのは七ヶ浜、菖蒲田浜とか。
加藤
一般的なこの辺の小学生ですね。
高田
うん。
加藤
で、今回は、つながる湾が始まる頃の皆さんの変化(について聞きたい)。あやさんのところにつながる湾が訪れたのって・・・。つながる湾自体は、なんとなく流れの中で、「じゃあ『つながる湾』にしよう」ということになったんですよね。
高田
そう
加藤
その前段階というのは、震災きっかけなんでしょうか。
高田
そうですね。2011年の震災の直後から、ビルドの仲間たちと、物資支援とかで動き出してはいた。それは、その時に必要なものだったり、できることとしてワークショップとか。そのひとつに伊保石仮設住宅での活動があって、それに対して文プロが被災地支援で支援してくれるようになって、谷津さんとか李青さんに会ってる。
加藤
その人たちはどこかで支援しようとやってきた。
高田
沿岸全域の活動に対して、東京都が支援する。ただ、東京都によるアーティストによる支援なので、東京の作家たちがきて支援するという条件ではあった。どこまで厳密だったかはわからないけれど、とにかく東京都による、アートを通じた被災地支援。
加藤
そこで、たまたま伊保石で活動していたあやさんたちが対象に。
高田
そうですね、一つの支援対象として。最初のころ文プロとやっていたのは、直接的な福祉的支援。目の前の被災者に働きかけていた。仮設の住民のコミュニティの再構築を目的として、集会所で集う場を設けたり、たとえば中島佑太くんが1日限りのラジオ局を設置して心の声を聴きあう機会を設けたり。伊保石仮設のテーマソングをつくったり、うたごえ喫茶をしたり、とにかく集う場を設けた。それは文プロの支援のもと。
加藤
文プロが入る前は何してた?
高田
物資支援とか、ワークショップ。
加藤
ワークショップって。
高田
「ダンスでクイズ」とか。その頃、「子供たちが外に出て遊べなくてストレス溜まってる」という保育現場の声があり、発散できるものということで考え出した。それを仲間たちと、石巻とか気仙沼とか、呼ばれたところに行ってやる。私たちチームが行って、現地の保育士と一緒に場を作る。
2013年から、日常生活を取り戻して、暮らしが落ち着いてきて、急にみんなが、これからの社会、生き方を見渡すようになった。そのときに、松島のロワン(現ロマン)で、ジョルジュ・ルース・アートプロジェクトというのをやったり。これは文プロは関係ない。つながる湾も関係ない。フランスのジョルジュルースという作家が、阪神の時も、被災した工場とか建物に死化粧のように絵を描いて新たな空間を写真に収めるという作品制作をしていた。基本的に、壊される建物に絵を描く。だから写真に収めた空間はもう存在しない。写真の中だけに(残る)。
加藤
そのために装飾してる。
高田
2013年、日常生活は取り戻したけど、まだ精神的に不安を抱える時期だった。伊保石の方もまだまだ仮設なので、被災者の方が完全にリカバーしたわけではなかったけど、被災者だけではなく地域全体として俯瞰して、被災地で何かできないかと文プロから問いかけが来たのが2013年。そのまえに、浦戸諸島で展開していきたいと伝えていた。最初に寒風沢でやりたいと。文プロ側からは、島ひとつだけで何かするのは経験上・・・
加藤
ゆがみ、ひずみが?
高田
うん、そういうことがあるので、浦戸全体にしたらどうかと話が。
加藤
ASTT側から。
高田
うーん、記憶が確かじゃないけど、私からではない。私はその4島という関係性も当時は知らないし。なぜ島を提案したかというと、あくまで、仮設に住まわれている方々が、桂島や寒風沢島の方が多かったから。その人たちから、「島で何かしたい」「誰もいなくなっちゃった」「帰りたい」という話を聞いていたので、彼らの声にアートで働きかけられないかと思ったんです。
加藤
あやさんのモチベーションはそこだった。
高田
そこだった。で、それが1つ2つの島なのか全体なのか、ということはそれほど考えてなかった。それでいろいろ話があって、浦戸諸島全体でやろうという話になった。それで、島を舞台にするのに、日比野さんのタネフネがちょうどいいのではないか、という話でタネフネが来た。
加藤
その話は、2012年のうちから?
高田
徐々にはあったんだと思います。で、2013年の5月ぐらいに来てるんですよね。
加藤
ノリフェス。
高田
うんうん。ああ、2012年に浦戸諸島のリサーチが始まっていますもんね。
加藤
2013年度の途中から、プロジェクトの形になった。
高田
つながる湾になった。
加藤
予算とかもそのときから?
高田
予算は2011年からついてる。そこから「つながる湾」として、あらためて始まってはいますけど。予算も拡大されて。
加藤
なるほど。名前ができたのが2013年の途中だというだけ。
高田
そうです。だからアーツカウンシルの支援の仕方で感謝しているのは、「こういうことをしてほしい」という助成ではなく、あくまで現地の、まだ形のないもの、過程、状況に対して、支援し続けてくれていること。変化を許してくれる。もちろんその当時は混乱して、「何を求めてるの?」というような思いはあったけど。
加藤
アーツカウンシルに対して?
高田
そう。(文プロの支援があってもなくても)私たちは支援活動はする。私たちの横にいてくれる理由がわからなかった。何を求められて、期待して、助成してくれているのかはわからなかった。もちろんいま振り返って、そういう動き方をしてるんだということはわかるけど、2012年って、こちらも心の傷は癒えてなくて、いろんなことが暴力的に感じられた時期。でも、暴力的に感じながらも、まず支援してくれていることがありがたいし、私たちがNOと言ってしまったら、その先に支援を受けて何か生まれるかもしれない可能性が途切れてしまうから、まず受ける必要があった。だからそこでコミュニケーションをとって、なにかいい形にしていかなきゃいけない、というのが当時の葛藤だったと思う。
加藤
2011年から?
高田
いや、2011年は明確だった。こっちの要求にただ応えてくれる。あまりそこに対話はなかった。でも2012年から文プロの人たちと顔をあわせる機会が増えていった。「何しましょう」みたいな。それまでは報告だけで、「こういうことをしたいのでいくらあると助かります」「わかりました」だけの関係性だったのが、急に、同じテーブルに座るようになって。「え、何?この企画会議的な感じは?」というところで、急に「何したらいいんだろう」って。したいことはいっぱいあるけど、急にスポンサーとの(やりとりが必要になって)・・・私は混乱しました。
私がさっき言った、直接的な支援から、より俯瞰的な支援への変化、というのはそういうことです。それまでは必要なことに対して、いわゆる「芸術」と言えるかどうかわからないことに対しても、提供してくれていた。
加藤
あやさんたちが現場でこれをやりたい、と思ったことに対してサポートしてくれていた。
高田
うん。そのときは文プロは、岩手、宮城、福島と、小さいものから大きいものまで100件以上、助成してた。その時点では(塩釜は)ONE OF THEMに過ぎなかった。そういう時期でした。そこから精査して、芸術支援として何ができるかということが、語られるようになった。そういう意識で動くようになったのが2012年、ということだと思います。
加藤
そこで現場としては戸惑いが生じる。
高田
うん、なぜかというと、心がついていっていないから。私たちは、アートだろうが何だろうが、とにかく必死で、できることをやる、という姿勢だったから。でも文プロとしてはやっぱり、芸術文化で何ができるかというのがひとつ挑戦で、そういう意味での(こちら側との話し合いの)テーブルだったんだろうけど、こっちはこっちでいろんなことが追いついてなくて。
加藤
うーん、
高田
だからそのアートという問いも大き過ぎて、いろいろぶつかったというか、私自身は混乱していた。
加藤
あやさんはこっち側の窓口になっていたということ?
高田
うん、だと思います。
加藤
谷津さん、李青さんは1年目から入ってた。
高田
2011年から。
加藤
あやさんが谷津さんと李青さんと出会ったのは
高田
2011年、伊保石の時。
加藤
なんか支援しに来た人がいるぞ、って。
高田
そうそう。で、スーツ着て、「支援してるのは私たちです」みたいな笑
加藤
ああ、初めて会った時にはすでに支援は受けていた。
高田
そうです。だから、「いつもありがとうございます」みたいな感じで報告するような、関係性。
加藤
そっか。谷津さんとか李青さんとはそういう会い方をしてるわけですね。
高田
いま振り返ると、そらあみが、ほんとに、ほんとに、視界が変わった。自分でもこんなに、見え方が身体的に変わるんだ、と感じさせてもらった。それは「そらあみ」が意図してたこととは違うと思うんだけど
加藤
あやさん、(エクセル資料に)何度も書いてるんですよね。「風景がかわった」って。
高田
そうなんです。ほんとに。とにかく毎日島に通ってたんですよね。そらあみをするために。
加藤
野々島、朴島。
高田
そうですね。で、何度か行くうちに、島を訪れているんじゃなくて、「島に帰る」というか、島が自分の地域の一体になっている感覚。例えば、仙台から帰ってきて塩釜近辺に入ると「帰ってきた」って感覚になるじゃないですか。
加藤
うんうん
高田
それと同じで、他人事だった島を、自分の一部として捉えている。
加藤
ここからここまで自分の地域だという。
高田
うん、その中に島が入っていくような感じで。船を降りてまた乗って、っていう感覚が変わってきた。島の人たちに手を振る感じも、どこか自分の故郷に触れているような感覚が生まれてきた。
加藤
うん。
高田
それから、最初の頃は、船から見る島の風景を、固有名詞を得ないただの島々の風景として漠然としてしか捉えてなかったのが、あるとき、島から帰る船の上で、島の輪郭がはっきりと見えて、ノリ棚とかカキ棚とかその全てが、風景を形作る貴重なものとして見えた。その頃は、五十嵐さんと会話はしていたけどまだそんなに近くはなかったんだけど、「五十嵐さん、私、視点が変わったと思います! いま風景の輪郭がハッキリ見えました!」って、感動を伝えに行ったんです。同じ船のどこかにいた五十嵐さんを探して。「こういうことだ!」って気づけたので。島で過ごしたということで視点が変わった。私はたまたまそれがそらあみだったけど、もしかするとそれがタネフネだった人もいるかもしれないし。言葉にしてないだけで。
加藤
うん。
高田
もうひとつ、自分たちが作ったそらあみが、東京の三宅島で展示されることになった。三宅島に行くのって、7時間船に乗って、でも波が荒いとかで着岸できなかったらそのまま7時間かけて戻ってきます、という行程。三宅島は20年にいちど噴火して、そのたびに被災地になる島。そしてそこで暮らす人々がいる。そういう土地に、浦戸諸島で編んだ、菜の花の黄色、黄緑、という、ちょっとパステルカラー調の網が掲げられている。黒々しい火山を背景に掲げられた自分たちの網が急にポップで、「あれ?」ってなった。そういえば、浦戸は30分ぐらいで行けて、東日本大震災規模の津波は何百年に一度の、次いつ来るかわからない災害。その被害は大きかったしその影響ももちろん小さいとは言えないけど、でも私たちはそういう火山の島国に住んでいたんだ、ということに気づいた。震災ですごい経験をしてすごい傷ついた、と自分で思い込んでいたけど、三宅島の人と比べることで、自分が置かれた環境をやっと客観視できた。
加藤
すごく極端にいうと、「自分だけが不幸」、みたいな。
高田
そうだったんです。そういうのに気づかされたのは三宅島が大きかった。
加藤
三宅島には2013年に行ったんですね。松島とか多賀城をやる前。浦戸だけやった段階。
高田
そうですね。
加藤
何箇所ぶんくらいの「そらあみ」が三宅島に?
高田
うーん・・・・浅草とか、釜石・・・各地ですね。
加藤
「そらあみ」は海に限定されてない?
高田
ないです。都市の中でやることもあるし。基本的には風景を捉える。
加藤
いずれにせよ、あやさんにとってはそらあみの経験がかなり大きい。島々を、地形としての島じゃなくて、自分の一部みたいに捉えるきっかけになった。
高田
うん。なんか身体的にっていうか、・・・うまく言えないんだけど
加藤
比喩的な意味じゃなくて、
高田
そう、実際にそう見えた。島の輪郭をはっきり視覚的に認識してる。その感じがすごい嬉しくて。「見えた見えた!」って。でもこれって個人の経験に過ぎないから(伝わらなくて)すごい歯痒いんですけど、自分はそう感じた。
加藤
それが多分大事なことですよね。
高田
うん。私にとって、こういうアートプロジェクトが機能すると信じられたのは、そういう経験があったから。
加藤
もう少し突っ込むと、その経験は、たとえば島に通ってボランティアしただけでは得られなかったものなんでしょうか。そらあみなしで。
高田
「そらあみ」をやる過程の中に、問いがたくさんあったんだと思います。「島とは何なのか」、「島民にとって自分たちは外の人間なのか」、「失礼のないように自分たちに何ができるのか」、ということを、「五十嵐邸」っていう、玉川に共有で借りてたところ、そこに五十嵐さんと喜多さんが滞在していたんですけど、そこに、関わってた人たちが集まって毎晩3時ぐらいまで話していた。
加藤
たとえばあやさんとか、
高田
大沼くん、篠塚くん、七ヶ浜の子たち…今はバラバラになってしまったけど、たくさん若い子たちも来ていて、答えのない問いについて話し続ける時間を過ごしていた。だから自分がただ島に通って網を編んでいればいいという話ではなく、「これはどういう意味を持つんだろうか」とか、「島の人たちにはどう見えるのか」とか、そういうのをいっぱい話してた。
加藤
ただ行っていただけじゃなくて、常に島のことを考えていた。
高田
考えてた。自分たちがやってることが暴力的にならないかとか。そういうのもいっぱい話してた。
加藤
そういう問いかけをして、その蓄積として、身体的な感覚に至った。
高田
だと思います。考えて、体で感じて、風を浴びてとか、揺られてとか。そういうもののすべて。

<中断>
加藤
ちなみに五十嵐邸では、けっこう激論を?
高田
記憶が曖昧ですけど、たとえば喜多さんも一生懸命島の人に向き合っていて、「こうあるべき」っていうのを一生懸命伝えてくれたんですよね。私たちそれぞれに考えややり方があって。できることとできないこともあって。だから誰が間違っているとか正しいとかの話ではなくて、それぞれのその時の思いをぶつけ合ってた。そういうのが大事だった。喜多さんとはビルドで、夜中3時ぐらいまで話していたこともあります。
加藤
サシで?
高田
サシで
加藤
喜多さんは喜多さんで、島に対して本土側の人たちのあるべき姿、やるべきこと、についての理想があった。
高田
あった。それだけ島の人と言葉を交わしたり、過ごしていたので。だけど、私たちもまだまだ、心がついていけなかったり、自分たちがまだ癒えてなかったりというのがあって、「そこまで応えられない。やれることはやる」みたいなことを言ってたと思う。
加藤
その激論、時期的には、そらあみが始まる前? 始まってから? タネフネがきたのが2013年5月のノリフェスで、そらあみがはじまるのが夏?
高田
8月ですもんね。(そらあみ始まる前の)2ヶ月は、何かをやっていたわけじゃないけど、その時期にけっこう話していた。喜多さんは、タネフネで島には通って入り込んでいた。
加藤
じゃあ喜多さんは、タネフネで来て、いきなり島に行って、島の人と話しして、というのをいきなりやってた。
高田
そう。で、五十嵐さんが来て、自分はそらあみに没頭していって、少しずつ理解していった。
加藤
ちょっと戻ります。津川さんに聞いた話ですが、2012年にビルドであった「タネフネがこれから来るけどどうすっぺ」みたいな集まりに津川さんが呼ばれた。「なんで俺が呼ばれたかいまだにわかんない」って津川さんは言ってるけど。
高田
私はその頃、自分の地域の商工関係の人とか、地域の人たちと、そんなに触れ合ってるわけではなかった。塩釜でアートギャラリーをやっていて、ここから発信はしているけど、地域のために、とか、地域の人と共同で大きくやっていたわけではなかった。
加藤
うん。
高田
私にとって津川さんは、地域に触れていて、イベントとかを動かしている人。ビルドにも来てくれて、私のことを知ってくれて、アートにもちょっと理解がありそうな大人。で、2012年、これからの動きを考えるにあたって、津川さんが必要だった。まだ「つながる湾」にはなっていなかったけど、形を作るにあたって。地域の言語を持っている人として、私の中では(捉えていた)。
加藤
その時点で、彩さんと津川さんと関係性は・・・。津川さんが言うには、市の三浦さんとかが中心になって作った本(「塩竈 東日本大震災の記録」)の制作を創童舎が請け負っていて、その本に彩さんが載っていたと。ただ、その本を作るために津川さんが彩さんに取材したとかではない。だから接点としてはそんなに・・・。
高田
なかったです。でも私からすると、これからつながれる人だな、と勝手に思っていました。当時津川さんが「湾の駅をつくりたい」みたいなことを言っていて、私たちがこれからやろうとしているのも松島湾を舞台にしていることだったので、多分おもしろがってくれるだろうと思って。津川さんがやろうとしていることが実現できるかどうかはわからないけど、津川さんが思い描いているフィールドではあると思って、来てくださいと言った。
加藤
じゃあ、ビルドでの集まりの前に、津川さんがそういう構想を考えているということは知ってた?
高田
知ってました。だって、津川さん、会うたびに「湾の駅つくる」って言ってたし。とにかく自分がやりたいことを常に話してる方なので、それを私は覚えてた。だからそれをここでプレゼンしてくださいって言ったんです。
加藤
そうなんですか。なんか津川さん、「その場に行ったら急にプレゼンすることになった」みたいなニュアンスで話してました。
高田
たぶん津川さんにとっては、まだ知らない人たちがいる中で、とにかく自分のやりたいことを話した、という感じなんでしょうかね。
加藤
あやさんからしたら、「ちょっとあの話してよ」みたいな。
高田
*そう。
加藤
なるほど。それまでの間に、ビルドで話したり、接点としてはあったっていうことですね
高田
数回です。でもその数回が濃かったので。
加藤
あやさん的には、面白い人だなと思ってた。
高田
うんうん。あと、そのころビルドでランドセルプロジェクトっていうのをやってて、見に来た津川さんが「アートってわからないけど、なんか面白いね」っていう漠然とした言葉を残していったので、一応、アート拒絶ではない人だというのは確かめられたので。
加藤
ランドセルプロジェクトっていうのは。
高田
武谷大介さんがやってたプロジェクトです。支援で集まりすぎたランドセルを題材に、カナダ人作家がアート作品にしたものです。ビルドは場所を貸しただけで、私は関わってないのですが。
加藤
そらあみの次が、彩さんとしては「語り継ぎのためのリーディング」でしょうか。これは彩さんがかなり能動的に動いた?
高田
そうですね。
加藤
リーディングは「読む」?
高田
意図的にカタカナにしていて、leading(導く)とreading(読む)をかけています。「伝承する」って、ただ物語を正しく伝えることではなくて、その当時の人の価値観とか、次の世代に伝えたいことが添えられてるじゃないですか。だからここでやろうとしてるのは、震災を乗り越えた私たちは価値観も見え方も少し変わっているだろうから、その私たちが物語から感じたものも添えて、伝えていこうと。
加藤
紡ぎ直して。
高田
そう。紡ぎ直して。私は若宮丸の津太夫が寒風沢出身ということは震災前から知ってたけど、でも世界一周ということだけが話として記憶に残っていて、それほど強い印象はなかった。でも震災後に読むと、「石巻を出て、福島沖で嵐にあって漂流した漂流民たちがロシアに流れ着き、ロシアに残る決断をする人もいれば故郷に帰りたいという人もいる」ということが、「震災以降、故郷を出て仮設住宅とか新たな土地で生きなきゃいけない。それを受け入れる人もいれば、帰りたいという人もいる」という状況に、すごく重なった。漂流民の物語と、震災後の被災者の状況と。なので、見え方が変わった。
加藤
読み解く人の状況によって見え方が変わる。
高田
うんうん。漂流民たちが不安定な状況の中に生きていて、多くの選択肢があって、さまざまな答え、生き方があるという点も、自分たちの状況に引きつけて感じられたり。「何が正しい」じゃないよね、って。どうしても震災以降、何が正義だっていうのが飛び交って、誰かのあり方を批判するようなこともあったと思うんだけど、でもみんなそれぞれであって、そうやって生き延びてきたし、何かでつながっていたりする。私自身がこの物語からそういうことを感じたので、まずこの物語を読んでどう感じたかを問いかける。
加藤
「語り継のためのリーディング」を何回かやってるけど、基本的な題材になるのはこの(若宮丸の)物語?
高田
そうです。まず物語に出会っていただくことが大事なので、その切り口をたくさん作ります。そのストーリーテラーとして、誰かを講師に立てて、その人にまず読み解いてもらって。
加藤
それが青谷明日香さんだったり。
高田
そう。アサノタケフミさんだったり、パン屋さんだったり。
加藤
その流れは続いてる?
高田
チルミュでこれをやります。(ロシア皇帝の勲章作り)
加藤
大学でも講義していますね。学生にもまず読ませるんですか?
高田
授業の中で私が朗読して、物語に触れてもらう。その授業は、ワークショップを体験するのではなく、ワークショップの場を作るワークです。この物語のどの部分を題材にして共有の場を作るかを考える。そのとき私からは、実現可能なワークであるとか、参加してもらいやすいワーク、などと条件を伝えています。それで、たとえばある学生は風鈴づくりをすると。それは、漂流した時の風を感じるためのものとして。物語に直接的に風鈴は登場はしないけど、彼女の中ではおそらく、大海原にポツンと漂流する状況が印象的だった。その風を感じるために何がいいかと彼女は考えて、彼女は、風鈴をつくるワークショップを考えた。楽しみながら、日常的にも、風を感じる。漂流船にとっては命をつなぐ風だったわけじゃないですか。だからワークショップを通して、普段吹いている風を意識するような。
加藤
なるほど。
高田
ほかに学生が考えたものとしては、ワークショップではないけど、留学体験という企画で、言葉が通じない異文化を体験するとか、さらにロシアの食文化に出会うとか。あとは、島でサバイバル体験とか。
加藤
そっかそっか。
高田
うん、とにかく様々なんですよ。漂流民が経験したことを自分たちなりに追体験して、それを共有する場をどう作るか。この物語をどんなふうに自分ごとにして今の生活に生かしていくか。毎回面白いネタがあります。私としては「いつか実現したい」って思うけど、4年生の授業なので、みんな卒業しちゃう。(学生のネタを私が実現した際には)「本来ならクレジット入れたいところだけどいつになるかわからないし連絡できないから、『これ僕のネタだな』って思うのがあったらそうだからね」って伝えてる笑
加藤
いつかどこかで先生が。
高田
実現してるかもしれないよ〜って笑
加藤
物語を読んで、どこに引っかかるかはそれぞれ違ってて、登場人物のどの瞬間に自分を置いたか、ということですよね。漂流しているときなのか、見知らぬ土地に足を踏み入れたときなのか、故郷に帰るかどうかの判断を迫られたときなのか、最も印象に残ったところをどう体験するかを、各々考える。
高田
そうですね。特に青谷明日香さんとかアサノくんとかのワークショップで、歌、言葉にするワークの時には、それぞれのどの立場に立つか、どの視点なのか、というのが見えてきて面白かった。たとえば帰国した4人の中で、儀平衛っていう男性がいて、彼は島に奥さんがいた。そこである参加者は、待っている側のオキヨの立場で考える。漂流した夫を待つ側の。「私は身ごもっているのよ、あなたは帰ってこない」みたいな。
実際オキヨは、儀平衛が帰国したときには新しい旦那さんがいたんだけど、その事実を知ってから物語を読むと、オキヨと儀平衛が再開して見つめ合っていた理由がそれぞれの視点で違うというのも感じたりする。オキヨとしては「死んだと思ってたのになんで帰ってきたの、どうすればいいの」かもしれないし、儀平衛は「おう帰ってきたぞ」かもしれないし。そういうドラマ、行間が面白くて、読み込んだ人はそういう心情も読んだりする。
もちろん物語自体も、文章にした人の思いが入って脚色されているというか、どこまでが事実かはわからないけど。
加藤
彩さんは「リーディング」をやり始めて、得るものがあった? 今も大学とかでやってるくらいだから、この取り組みの価値を感じてるとは思うけど。
高田
いま思うのは、この江戸後期の物語と、今は地続きというか。人々の営みの繰り返し、人生の繰り返しを感じてる。「ご先祖様もこの地でいろんなことを乗り越えて生きてきた。私達も生きよう」みたいなことをこの物語から感じるし、この物語を語り継ぐことによって、この地で生きることとは、とか、自分たちの地域とは、ということを現代の人にも感じ続けてもらうというか。
どうしても、地域史は、現在とは分断されて昔話で終わっちゃう。でも感覚的に、ご先祖様のDNAってどこかに根付いているわけです。もちろんそこには、地域外と行き来して、いろんな考えが出入りして、外からのDNAも取り込まれて、というのも含まれます。ただ、この島国で生きる私たちの人生というのは、過去から続いている。だから、地域の歩みとかにも関心を持ってもらいたいんです。自分たちの地域の歩みを知ることによって、どう生きればいいかを感じられる。それは震災を乗り越える知恵にもつながるし、この地形とともに生きることにもなる。
加藤
学生向けに授業でやっているのも同じ考え方ですか? それとも、企画力を育むのが目的?
高田
どっちかっていうと、同じ考え方。あと、地域にはたくさん、物語や地域資源、素材がたくさんあるということへの気づきも重視しています。授業の中で、「自分の住む町を題材にワークを考える」というのをやると、地域資源を題材にしてワークショップを考えた学生が、「過去の遺物と思っていた何かが、もしかするとこの町の愛着心を育む存在だったのかもしれない」と気づいたりする。レポートを見ると、「自分の地域にこんなにおもしろい話があるとは気づかなかった」なんて書いてあることもあります。
加藤
スタートは「つながる湾」のリーディングだったけど、大学の授業とかに派生させることによって、若者たちが地域の資源に気づくきっかけになる。
高田
そう。あとは、いろんな事象を自分ゴトに変えていくきっかけづくりはいかようにもできるということ。その取り組みとして、ワークショップというのが、ひとつの手段であると。
加藤
それを通して彩さん自身の変化というのは? たとえば今大学で教えているというのは、「語り継ぎのリーディング」をやってなかったらできなかったことですか。
高田
そうかもしれないですね。私自身が、つながる湾とか「リーディング」の活動を通して、地域に出会い直し、学び続けている立場で、面白さを現在進行形で感じている。アートプロジェクトと言われるものだったり、ワークショップと言われるものだったり、とにかくいろんな機会を通して視点を変える事ができているので、その経験に基づいて伝えてはいる。
震災以前は、どちらかというと、芸術文化活動と地域社会の関係性というところに関心があって、そういう意識を共有できる作家と一緒に活動してたりはしてたけど、自分の地域を題材に、というのはしていなかった。地域を舞台にはしてきたけど、地域を題材にということはしてなかった。
でも震災以降、自分自身がどういう地域で、どういう人達と生きているのか、というのを改めて考え直したし、地域文化の魅力、面白さに気づいたから、今はそれも伝えてる。
加藤
彩さんの場合、地域を題材にするようになったきっかけはつながる湾だけじゃないですよね。
高田
そうだけど、発端はつながる湾かな。
加藤
じゃあ、美術館でやっている「まちと記憶と映画館」とか、古い写真を集める事業とかも、興味を持ち始めた発端は「つながる湾」?
高田
うーん、結果としてはそうなるのかな。難しいけど。
加藤
まあ、そうですよね。何が原因か、っていうのはそうそう明確ではない。
高田
うん、美術館は美術館で、美術館にとっての資源はなにか、と考えてのことだし。ただそういう考えに至ったのも、やっぱりこういうこと(つながる湾とかリーディングとか)だったかもしれないし。でも、これがあったから、という断言もできない。だってそれは、カナダで学んだことでもあるから。自分たちの目の前の地域社会の文化を掘り起こすということを学んだり、あと地域文化を題材にする作品を作ったり。自分たちの地域社会に向き合うという経験はカナダでしてきた。だから、自分が学んできたすべてを、その都度アウトプットしてる。ひとつが、美術館なわけで。
加藤
そうですよね。ところでリーディングやったのが、2013から2014ぐらい。そらあみも2013,2014,2015くらいまで続いたけど、最初の浦戸のそらあみが彩さんにとっては大きいですよね、松島も多賀城ももちろん関わってきたけど。
高田
はいはい。
加藤
リーディングとそらあみと、湾をめぐるツアー、旅展、っていろいろ取り組みがあったけど、リーディング以降で、彩さんの中で自分を変えた機会というのは。
高田
難しいですね。美術館が2014年11月に立ち上がって、私の意識が美術館の方でいっぱいいっぱいになった。だから変な話、2014年から、つながる湾メンバーに対して「何かを大きく担当することはできない」って言いました。運営委員会を立ち上げるときにも、私は入らないほうがいいんじゃないかという話をした。
加藤
リーディングとかそらあみのときは、運営委員会はなかった。
高田
ないけれども、ビルドで受けて、みんなで回していた状態。2015年度からかな、運営委員会になったのは。
加藤
そのときに大沼さんが代表に。
高田
そう。私は2014年ぐらいまでが、きっちり関わっていた。2015年、2016年、2017年は、イベントは単発で参加するけど、きちんと関われてなかった。だけど2018年ぐらいから美術館も落ち着き始めて、また関わり始めて、というかんじかな。もっとちゃんとしなきゃ、っていう気づきもあって。
加藤
僕が声をかけてもらったのが、2016年の5月。あやさんに初めて「つながる湾」って言われて、どんなものかな、と思って調べてみたのが、5月21日の奥松島宮戸リサーチ。
高田
ああ、そのリサーチは、私にとって大きいですね。だってこれが、水曜日郵便局につながった。
加藤
ああ〜〜
高田
もともと宮戸は好きでしたけど、木島さんに丁寧に宮戸を教えてもらって、松島湾すごい、ってまた感動した。そう考えると、タネはいっぱい撒かれるんですよね、自分の気づきの芽というか。フィールドワークとか勉強会でいっぱいもらって蓄積される。どこで育つかはわからないけど。だから、勉強会とかは積極的に出てました。
加藤
2016年に入った僕が、経験できてないことを残念に思っているのが、一連の勉強会なんです。
高田
うんうん。地域をよく知る方々がきてくれて、教えてくれた。そのたび、ゾクゾクするというか。勉強会が終わると、「もっとここを見たい」とか、「ここを掘り下げよう」となる。いちばん大事なのって、好奇心ですよね。自分たちが地域にワクワクして、それを一緒に経験して伝えていくというのが、素直で偽りがなくて押し付けがましくなくて。
加藤
うん
高田
だからその勉強会がすごい大事。
加藤
そこがタネだった。
高田
タネだと思います
加藤
最初の頃、「タネフネくるけどどうすんの」とか言ってる頃に、勉強会しようという話になり、津川さんプレゼンツの勉強会が多いと。
高田
多いです
加藤
ん、で、津川さんのそういう役割。それ以降、イベントを主導したりはしてないけど、って津川さん本人が言ってたんですけど、
高田
津川さんはとにかく地域の人とのつながりがたくさんあって、常に、津川さんが面白いと思う人を紹介してくれる。だからほんとに面白い。私たちはその人ともつながれるし、その人が持っている知識や、地域のことにもつながれる。津川さんの役割は、基本的にずっとそれ。
加藤
うん
高田
で、津川さんの魅力的なところは、津川さん自身が好奇心で動くということ。
加藤
おもしろがって。
高田
そう。そして、それを共有してくれる。50代で、上の世代のこともわかってくれているし、そのパイプ役というか。私たちはまだそこまでなにか事業をしているわけではないので、地域の・・・
加藤
有力者みたいな?
高田
そう、町を動かしている人たちに出会いにくい。必要なときだけピンポイントで会うぐらい。でも津川さんがいるから、そういう人たちと顔を合わせることができる。
加藤
津川さんの重要性ってそこ。
高田
そこですね。
加藤
勉強会が多かったというか定期的だったのは2015年の前半くらいまでで、それ以降は行われなくなった。2015年の「西の大宰府、東の多賀城」(高倉さん)あたりがとりあえず最後。で、僕が彩さんに誘ってもらって仲間に入れてもらった2016年の5月ぐらいって、彩さん的になのか、つながる湾的にもなのかどうかはわからないけど、ちょっと方向性が・・・どうしようみたいな・・・・? そらあみもできなくなって?
高田
うん。そうですね。
加藤
僕はそういうタイミングで入った。
高田
申し訳なかったです。
加藤
いやいやそうじゃなくて。まあでも、僕が会議とか出たとき、慶介さんも彩さんもちょっと引くというか、彩さんも「美術館が忙しいから」みたいな話をしていて、慶介さんはその後抜けちゃった。ただ、彩さんがちょっと積極的というか楽しそうに感じたのが、立ち消えになっちゃったけど、何かのつながりで来てくれた演出家。
高田
ん??・・・あ〜〜、うんうん・・
加藤
2017年度かな? あの人が来て、つながる湾の最後の何年かの試みとして、地域の人をアクターにして、地域全体で何か演じましょうみたいな企画を、彩さんが面白がっていた記憶があるんです。
高田
おもしろかった、そうですね。
加藤
それでなんか、「つながる湾」に残るような考えになったのかな、と勝手に思ってた。
高田
うーん・・・
加藤
ていうのは、そのちょっと前に、「運営委員会を抜けてもいいかな」的な発言をしてたと思うんです。
高田
うんうん、そうですね。でも、運営委員会を抜けなかったのは、ビルドが果たしている受け皿の役割をするものがなくなると、また別に何かを立てなきゃいけなくなるのが申し訳ないから。私自身の問題ではなくて、ビルドという受け皿があることでこの活動がとりあえず続いて、動ける人たちが動けるというのであれば、受け皿としては必要だなと。
加藤
実質的に彩さんが何をするかしないかじゃなくて。
高田
うん。2015,16の時点で、私は物理的に、何かできたわけではなかった。そしてその頃、つながる湾を今後どうするかを、運営委員会としてずっと考えてるわけじゃないですか。その議論が続けられるためには、受け皿はあったほうがいいなと。そこでさらに受け皿までなくしてしまったら、もうひとつ…
加藤
活動なり議論を続ける上でのマイナス要因。
高田
そう。それは申し訳なくて。ビルドがそこにあるだけで役目を果たしてるならそれはそのままで、自分が動けるようになったら参加すればいいと。それは運営委員会だろうが何だろうが。当時はやる気の話というよりは美術館が忙しくて本当に参加できなかったので。ただ、演劇の話が面白いと思ったのは本当です。常に外からの視点を入れ続けることが大事だと思っているので。アーツカウンシルで支援いただいている機会だからこそ、お金を使って外から人を呼ぶことができる。五十嵐さんもだったけど、他の誰かでも、外からの人が入るきっかけはずっと求めていたので、このタイミングで紹介してもらえたのはうれしかった。
加藤
うん。
高田
私が選んできてしまうと、どうしても私寄りの、私の想定内の動きをする人になってしまう。もちろん、実際はみなさん私の想像を超えてはくれますけど、そうじゃない新たな出会いをいただけるのは刺激的なので、嬉しかった。
加藤
じゃあ、「久々に」って言ったらあれだけど、けっこうワクワクした
高田
ワクワクしたし、実現したかった。アイディアはおもしろかったと思うし。地域の人が主体になれるきっかけ、自分ごとになるっていうのは大事なことだと思うので。「なんか誰かがイベントしてるね」じゃなく、自分たちが主役にならなきゃいけないのは面白いですよね。
加藤
地域の人にとって。
高田
うん。アートが、他人事じゃなくなれるというか。
加藤
境界線がなくなる。
高田
うんうん、巻き込まれて。
加藤
でもその企画がダメにはなったけど、2018年のパスポートとか文化交流市場になっていって、彩さん的に、モチベーションが保たれた?
高田
大沼くんが提案してくれた内容に共感したし、湾のカレンダーを作るというのはすごく大事なことだし、形にはしていきたいと今も思っています。あとは自分が動けるようになったというのが大きいですよね。考える余白ができた。やっぱり美術館が大きいんです。責任も。でも5年やって、動き方も見えて、スタッフも始めから信頼はしてますけど、もうきちんと判断できる状態になって。
加藤
彩さんの中で、美術館で占められていた部分がすこし空いてきた。
高田
そうですね。それと同時に、これが文化事業として続いていること、続かせる意味というのをあらためて感じるようになったんです。きちんと恥じないように動かしていかなきゃなと。今も自分が出張だったりして次のイベントも行けないっていう状況ではあるけど、少なくとも、働きかけ、発信するっていうのは、やろうと思っている。
加藤
わかりました。次に、個別に、それぞれとの関係性とか出会い。津川さんとは、ビルドで津川さんがプレゼンをする前に…
高田
顔は合わせていた。
加藤
津川さんが創童舎で委託を受けて作った本がきっかけだったんですかね。
高田
そうなんですかね。
加藤
ファーストコンタクト的なのはあやふやな感じ?
高田
覚えてないですね、私は、ランドセルプロジェクトのときに陽気なおじさんだな、と。で、一生懸命アートに歩み寄ろうとしてくれている大人。身近な大人と感じられて、この人はこちらに参加してくれるかも、と思ったのが・・・
加藤
それだと震災後っていうことになりますね。
高田
あと、マリネットにいたサトウアユミちゃんっていう人が津川さんの番組を作っていて、津川さんの名前はよく出ていて、会ってはいた。
加藤
それは震災前か。じゃあランドセルのときはすでに顔は知ってる。
高田
ああ、そうなりますね。でも記憶は曖昧ですね。
加藤
わかりました、なんとなくそういう感じで。慶介さんと大沼さんとは、2人が大学を卒業するころ。
高田
2006年にビルドがオープンして、2007年には、2人がここで展示したいと現れて。
加藤
二人展。
高田
はい。それが初めてですね。それから、「こんなことしないか」って相談したり一緒に活動するようになって、2007年からずっと今まで、ワークショップしたり、紙媒体を作ったり、一緒にやってきました。
加藤
最初のコンタクトは、2人のほうからこの場所を使いたいと。
高田
そう。珍しかった。「就職どうするんですか?」って聞いたら「できる限り地域に残りたい」なんて言ってて、「ええっ、すごいね」、って。私はどっちかっていうと国外に意識が向いていたので、2人が地域を見ているのが印象的で。ちょうど2007年から、県の業務委託で、県内で美術家を派遣してワークショップをするという事業があったので、それに合わせて一緒に動いてもらう機会があった。
加藤
結果、大沼さんとは10年以上、お友達ですよね。大沼さんって彩さんにとってどんな存在。
高田
最初は、言葉数が少なくて、今とはぜんぜん違う。もちろん、私の一方的な見方だけど。今は地域のためにというか、当たり前に手を差し伸べ、技術的なこととか自分ができることは惜しみなく提供する。クリエイティブなスキル、発想を持ちながら、地域の声に答えることができる。
加藤
うん。今のは、彩さんの、大沼さん観。大沼さん像。一歩進んで、彩さんに大沼さんが与えた影響というか、
高田
ほんとに、技術的なところですかね。私は技術者ではないので。こういう場があったらいいな、というイメージは浮かぶけど、それを形に残すということは、アーティストやデザイナーがいないとできない。それを物理的に組み立てる、ものとして見せてくれるという意味で、大沼くんは貴重な存在。
加藤
大沼さんと10年以上付き合ってきて、色んな要素があるにしても、大沼さんとやってきたから自分が変われたとか、得たものとか
高田
自分が変われたかはわからないけど、不可能が可能になる現場を作ってくれているし、大切な存在。ビルドがいまこうやって立っていて、何かの役に立てているのは、大沼くんと篠塚くんのおかげ。
加藤
ビルドがやってくるために、大沼さんがやってきたことって・・・
高田
もちろん、私が主催していろいろやっているけど、例えばこの展示台ひとつ、これは大沼くんが作った。こんなふうに、私が考える全体的なことを生み出すために、ある部分を担っている。「こういうのをつくりたい」ってすぐ相談できる。
加藤
何か形にするときに、
高田
共同制作者としてすごく頼りにしていて、必要不可欠というか。/dd>
加藤
大沼さんがこういうブツをつくるとすると、慶介さんは何を?
高田
慶介もなんでも作れますけど、どっちかというと彼はクリエイティブシンキングで、「ダンスでクイズ」っていうワークショップの考え方と組み立てとか、ネクタイのワークショップとか、知的創造。そのためにどう動かなきゃいけないかとか。だから私は慶介から多くを学んでいます。何かの場をつくるときに「こういう準備の仕方はダメだ」と教えてもらうし、彼が他の何かを見て指摘したものは、自分もハッとして、自分の現場では大丈夫かな、とか。慶介は、本当の意味でのデザイニングですよね。何かの場に至るまでの過程、考え方を設計するのが得意。なんでも出来てしまうけれど、一番大事なコンセプトメイキングやクリエイティブシンキングを担っている存在。
加藤
コンセプトに合った形に持っていくための段取り。
高田
うん。大沼くんはどちらかというと、提案されたことに対して動くのが得意なのかもしれない。
加藤
谷津さんとは、彩さんたちが2011年に伊保石で活動しているときに支援してくれていた東京の団体の、現地組として李青さんと一緒に来たのが最初の接点。
高田
そう。
加藤
運営委員会ができてそこに谷津さんが入るまでは、今の李青さん的な存在?
高田
そうですね。どっちかというと、宮城県の窓口。文プロの雇われで、宮城を管轄する。
加藤
つながる湾だけじゃなくて、現地のエリアマネージャーみたいな。
高田
そうそう。私たちって、(東京から)支援されるけど、目の前の被災者を支援しなきゃいけない。谷津さんは支援する側とされる側の両方を見てる人です。
加藤
運営委員会になる前のそらあみとかリーディングとかの頃は、そういう、どっちかというと文プロ、ASTT側の立場なんですね。
高田
でもそれで、深く関わってくれてますよね。現場担当として何度も足を運んで。
加藤
運営に関わっていたということ?
高田
何をもって「運営に関わる」とするかにもよりますけどね。でもお金の使い方とかは、一緒に話してたと思います。
加藤
五十嵐邸で議論しているときとかはいないわけですよね。
高田
いますいます。だからすごいですよね。白石から、朝3時まで。
加藤
じゃあ本気で現地側に溶け込もうとしていた。
高田
してました。そう思います。
加藤
津川さんのプレゼンのときも?
高田
いました。だから基本的に全部見てる人なんです。
加藤
アーツカウンシル側といえど、つながる湾プロジェクトと名前が付く前から、スタッフの中に入り込んで、ともに歩んでいた。
高田
いました。それに、私達がやってることってまとめにくいし言葉にしにくいし、という中で、そんなものを一生懸命言語化して、整理してくれているので、つながる湾にとっては谷津さんの力は大きいし、理解しづらいものを外に伝わるようにしてくれているのでありがたい。
加藤
谷津さんとの関わりの中で、あやさん自身の変化というか、影響を受けたこと
高田
うーん・・・ どうしてもこういうプロジェクトとかって、自己満足になりがちだと思うんです。
加藤
うん。
高田
他者に発信することをしないで、自分たちでおさめてしまう。でも、そうなりがちなところを。。。うーん。影響を受けたのは、編集力ですかね。私は言葉にするのが得意ではないので、何か地域の声を理解して、ある一つのやり方として、場を作ったりはしてるけど、谷津さんがする編集は、物事を整理して言葉にする、まとめあげること。私たちはどっちかというと現場を回していて、どういうことをしてきたかというのを外に発信するまで至らなかったりするところを、谷津さんは、まとめ上げて、発信する。言葉にする。そういう役割なんじゃないかと。あと、震災直後から活動をみてくれてるので、そういう存在は大事ですよね。
加藤
あとは慶介さんですね。何かを形にするときに、ほんとに物理的に形にするのが得意なのが大沼さんで、慶介さんは(物理的に具現化することはもちろんのこと)ソフト的な部分、段取りを考えたり、
高田
考えを物理的に具現化することはもちろんのことに加えて、私が考えてることを、こういうことだよね、って考え方を整理してくれるというか。こういう伝え方じゃ伝わらないよ、もっとシンプルにしないと、とか。ほんとに、そのとおりで。慶介の言葉にならってやると伝わったり。ありがたいですね。
加藤
つながる湾のプロジェクトを含めていろんなことを一緒にやってくる中で、そういう影響を受けてきた。
高田
うん。これ、まとめるの大変ですね。私の発言の意図とか、あとで補足しますので。
加藤
もちろん彩さんの発言の内容、意図、これで間違いないかというのは彩さんの監修で。
高田
話戻るけど、やっぱり私は、そらあみと、土地との出会いですね。土地と出会いなおす機会を与えられたのが財産です。つながる湾は。木島さんに出会えたこととか。
加藤
ああ、人脈もそうですよね。
高田
うん。木島さんは宮戸を発信したいという思いが大きくあるので、宮戸に関するものは全部顔を合わせるじゃないですか。そうするといっぱい、言葉も交わすし、一緒に近い像を思い描いたり、というのが、木島さんとかとはしやすいというか。
加藤
木島さんのほかだと?
高田
五十嵐さんも大きいですね。こんど、リング・オブ・ファイアって言って、環太平洋火山帯のプロジェクトを一緒にしようと思ってる。私がとにかくそらあみに感銘を受けたから、そのそらあみを通して何か、自分のやってるプロジェクトとご一緒したいと思い始めて、ニュージーランドでそらあみをやってもらってるんですけど、ニュージーランドも、環太平洋火山帯のエリアになる。/dd>
加藤
うん
高田
環太平洋火山帯のアイディアがどこからきたかというと、そらあみ自体が三宅島でスタートしていて、環太平洋火山帯の全部のエリアで、そらあみを作った共同制作者と一緒に回っていって、そらあみで捉える風景だったり文化だったり、というものを見てみたい。
加藤
壮大。
高田
ペルーとかチリの方とか、カナダのバンクーバーの方とかも入ります。長い道のりですけど。それから、1日だけの参加者じゃ伝わらないんですよね、そらあみの経験って。共同制作者として時間を費やすことで、身体的にも影響してくるし、見える風景も変わってくると思う。だから共同制作者を増やしていって、本当にそらあみによって視点を変える人を増やしていきたい。参加者を増やしただ大きいそらあみを作りたいんじゃない。「土地を感じるためにその土地で過ごす」という行為を通して自分のように見え方が変わった人たちと話したい。今はちょっと予算取りが大変なんですけど、次は、ニュージーランドのカイコウラっていう土地で編んだ共同制作者の人たちを、次にウェリントンに呼んでそらあみを編んでいきたい。共同制作者を増やしながら、異なる背景を持った人たちが、様々な土地で網を編む。網を編むという世界共通の海辺の言語を通して、こういうことをこの土地で捉えた、とか、自分はこう感じたとか、言葉を交わしていきたいし、<そらあみ>の経験をして、そのスキルを伝授する人を増やしたいし。すごい時間のかかることではあるし旅費もすごいかかるんですが。
加藤
具体化しつつある?
高田
少しずつ可能性を探っています。
加藤
すげえな
高田
幸い、メキシコ、チリに友だちがいるので、声をかけられる。協力者はいる。順番に行く必要はなく、興味をもってくれる人たちと組んで、やっていけば。重要なのは、過去の共同制作者が参加すること。いままでのそらあみの場を作る上でもったいなかったのは、網を完成させること、とにかく参加者ばかりを増やして、毎日通う人がいない・・・仕事してれば(毎日通える)そんな人はなかなかいないですけどね。でも私の場合、一つの役割を与えられて、プロジェクトで雇われていたから毎日通えた。だからそういうふうに一人雇って、共同制作者として関わり続けていく人を育てていくというのがやれたらいいなと。
加藤
浦戸でやってたそらあみに、島の人に参加してもらうとか、こっち(本土)の人に、1日でもいいから参加して、みたいなのは、目的は別だけど・・・
高田
あ、もちろん、大事。参加者はもちろん大事だし、網の編み方を覚えること一つにも意味がある。海辺の言語を理解できるようになるので。漁師が何をしているかわかるじゃないですか。網を直していることもわかるようになる。そらあみをやることによって。
加藤
なるほど。
高田
だから、そらあみって、ポテンシャル高いと思うんですよ。編んだ網が捉えるものってすごいし。
加藤
捉えるもの?
高田
風景も捉えるし、地域文化も捉える。それは、土地の文脈を色彩化したもので編んでるからであり、その網のことを語っているだけで地域の話になるじゃないですか。社会的にも文化的にも。
加藤
すごい。
高田
うん、五十嵐さんがそういうふうに広げてくれた。五十嵐さんは、まず耳を澄まして、土地の声を聴く行為から始まり、そこに求められているもの、土地にあるものを捉える。
加藤
もうひとつすごいと思うのは、五十嵐さんがそれを生業にしてること。それで食ってる。
高田
そうですね、一年中どこかにいる。
加藤
お家はあるんですか
高田
千葉にあります。けど、何本もプロジェクトを同時進行で走らせる必要があるんですよね。

********中断*********
高田
地域のことなんてそんなに意識してなかった自分が、今は当たり前に地域のことをしゃべっているのは、つながる湾があったからかもしれない。
加藤
意識したのも、知識を得たのも、
高田
つながる湾だったと思います。